清遊ブログ  月読神社のこと

月読(つきよみ)神社をご存知でしょうか?

嵐山の松尾大社(まつのおたいしゃ)の鳥居から南へ、田植えのすんだ神饌田を過ぎて、道なりに十分ほど歩きます。
001_R.jpeg
紫陽花が咲いて、
002_R.jpeg
003_R.jpeg
月読神社の鳥居が見えてきました。
006_R.jpeg

ここは安産祈願の「月延(つきのべ)の石」で知られるお社。
現在は松尾大社の境外摂社となっています。
石段を上り、門を潜ると、
008_R.jpeg
009_R.jpeg
見渡せるほどの境内はしんとして静まり、拝殿、
奥に本殿が見えます。
010_R.jpeg

010-1-1_R.jpeg

山の懐に包まれたようなこの境域に足を踏み入れたとたん、不思議な、独特の空気が流れているのを感じました。

この空気感はいったい何なのでしょうか。


010-2_R.jpeg
              拝殿から本殿を見ています。


月読神社本殿月読命(つくよみのみこと・つきよみのみこと)を主祭神とし、高御産霊神(たかみむすびのかみ)を合祀しています。
010-3_R.jpeg


「月讀大神」の金文字もゆかしい扁額。

010-4_R.jpeg

本殿の前にたつ燈籠には「月讀宮」とあります。
010-5-1_R.jpeg
江戸時代に建てられた本殿は三間社流造り、床は浜床式。
カモの社の摂末社に同じ。
010-5_R.jpeg


拝殿の階段を見るとやはり松尾大社やカモ社と同じ、葵の意匠が施されています。

010-6.jpeg


月読命
は「古事記」によれば、伊弉諾命(イザナギノミコト)が黄泉の国から戻り、禊をおこなった際、その右目をすすいだときに生まれた神。

左目をすすいで生まれた天照大神(アマテラスオオミカミ)、鼻をすすいで生まれた素戔嗚尊(スサノオノミコト)とともに、三貴子(みはしらのうずのみこ)と称される神様です。


ただ、月読命の伝承はアマテラスやスサノオに比べて少なく、「日本書紀」に次のような話が知られます。

月読命がアマテラスの命を受けて保食神(うけもちのかみ)のところに赴いたとき、保食神が自らの口から魚や狩の獲物などを吐き出してもてなそうとしたので月読命は怒り、保食神を剣で殺してしまいます。
これを知ったアマテラスは「汝(いまし)は是、悪しき神なり、相見まじ」といって怒り、ついに両神は「一日一夜、へだてて住みたまふ」となり、昼夜の神に別れたと。
昼と夜の起源神話につながるお話です。


月読命とはその名が表わすとおり、月を司り、夜を統べる神。

そして「月を読む」とは月齢、すなわち暦を読むことを意味します。

月は太陽と共に、種まきや刈入れ、魚の産卵期などを知らせてくれる大切な天体。


それゆえ月読命は五穀豊穣や豊漁、また海上安全の守り神ともされています。


本殿に月読命が祀られるのは全国でも数少なく、京都市内ではこのお社だけと聞きますが、
そういえば、京田辺市の大住(おおすみ)に月読神社があります。
大住は薩摩の大隅からやってきた人々が住んだところ。
ここには月の女神、かぐや姫を育てた竹取りの翁の里との伝承があるのです。


京都には案外月のゆかりが多いのかも知れませんね。

そういえば祇園祭の月鉾の天王人形は月読命でしたよ!


じつはここに来てから時おり、カランカランというようなかすかな音がきこえていたのですが、拝殿にその音の源がありました。

011.jpeg
風が吹いてこの鈴を鳴らすのです。鈴は日光をうけて静かに輝いています…


012.jpeg


神様が風とともに
訪ったのかもしれません…。

 


境内を回ってみましょう。
本殿に向かって右手には、安産祈願の「月延の石」が置かれています。

014 _R.jpeg
神功(じんぐう)皇后が身重の体で腹帯を巻いて三韓征伐に出陣した話は有名ですが、帰国して筑紫に滞在し、臨月に及んで安産を祈ったところ、この石を撫でよ、との月読命の託宣がくだり、めでたく応神天皇(第十五代)を出産したという話が伝わっています。
「月延の石」は、時代が下って舒明(じょめい)天皇(第三十四代)のとき、壱岐公乙(いきのきんおと)等を筑紫に遣わしてこの石を求め、山城国の歌荒樔田(うたのあらすだ)に奉納したと伝える石なのです。


安産守護の願いが記された小石がたくさん奉納されています。
014-1_R.jpeg


現在のような医療技術のない昔、女性にとっては出産は命を賭けた大仕事でした。

神功皇后の伝承もさることながら、月読社に出産の無事を祈ることは、月の満ち欠けをも含んだ自然の営みが生命の誕生と深くかかわっている証しなのかもしれません。



興味深いことがあるのだそうです…。

神功皇后の名前は息長足帯姫(おきながたらしひめ)、そして舒明天皇の和風諡号(しごう)息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)。両者はなにか関連がありそうです。


祇園祭の船鉾(ふねぼこ)、占出山(うらでやま)は神功皇后を主題にしたものですし、ご神体は腹帯を巻いて巡行され、その腹帯や安産祈願のお守りが授与品となっています。


復興に向けて準備が進められている大船鉾(おおふねぼこ)は、ことし神功皇后の衣装が新調されたと聞きます。
神秘のベールに包まれた神功皇后の、新たに知り得たことを留めおいて、今年のお祭りはこれらの山鉾見学をすることにいたしましょう。


神功皇后が着けていた腹帯は、皇后に仕えた女性たちに下賜され、そのうちで京に来た者がその腹帯を頭に巻いて働いたことから、それが桂女(かつらめ)の起こりと伝わります。桂女は桂川で獲れる鮎や飴を売り歩き、また出産を手伝うこともありました。
彼女たちが頭に巻いたのは神功皇后ゆかりの腹帯だったのです。


月延石の隣には「むすびの木」がそびえています。

足元は三本の木であり、中ほどでくっついています。そしてまたそれぞれの木になって延びています。
015.jpeg

017.jpeg


やはりここは神様が宿るところ…。


そして月読命を敬愛されたという聖徳太子をお祀りした「聖徳太子社」

018_R.jpeg
仏教を信仰された聖徳太子ゆえ、お社は瓦葺になっているのでしょうか。


月読神社が京都にもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性があると駒札に書かれていましたから、秦氏とゆかりの深い聖徳太子がここに祀られていることにつながるのかもしれません。


本殿向かって左には「御船社(みふねしゃ)

019_R.jpeg
天鳥船(あめのとりふね)をお祀りします。


「古事記」ではアマテラスが国譲りの交渉をするために建御雷神(たけみかづちのかみ)を出雲へ派遣したとき、一緒に行った副使の神様と伝えて、建御雷神の乗り物となりました。
イザナギとイザナミの最初の子供で失敗作であった蛭子(ひるこ)を西へ流した際、蛭子を入れた船もこの天鳥船と伝えます。
松尾大社最大の祭りである松尾祭の四月二十二日に行われる神幸祭に際しては、この社に船渡御(ふなとぎょ)の安全を祈願するのだそうです。


そして「解穢(かいわい)の水」
山から引かれた水は己の罪、穢れを除く(解く)とされます。

020_R.jpeg

と、近くの幼稚園から子供たちがやってきました。

次から次へ、小さな訪問者たちはあっという間に境内を横切って木々の中に分け入り、遊び始めました。
021_R.jpeg


022_R.jpeg


023_R.jpeg
小さな池で遊ぶ女の子。ひんやりして気持ちよさそうです。

024_R.jpeg

なんの穢れもない無垢な子供たちが解穢の水の辺りで遊んでいます。
このお社で安産を祈願して生まれた子たちもいるかもしれません。
ひとしきり遊んだら、先生から集合の声がかかりました。
女の子はなかなか水遊びをやめようとしません…。
やっとみんなに合流しました。(笑)

P1040839.jpeg
やがて整列して子供たちは帰っていき、境内はまた静寂を取り戻しました。


神鈴は時おり揺れて、かすかな音を奏でています。

026.jpeg


月読神社
は、もとは壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたといわれます。

「延喜式」に「葛野坐(かどのにます)月読神社…」と記されるように、古くから名神大社に列せられた全国屈指の名社でありました。

神寂びたたたずまい。千年の境域。

026-1_R.jpeg
ここに感じるのはそういう空気だったのですね。

027_R.jpeg


めずらしい、白の下野草(シモツケソウ)でしょうか。

028_R.jpeg
清楚な花。ハート型に見えたりして…

029_R.jpeg


額紫陽花も気品があります。

030_R.jpeg

ここでは、見上げる空も、まわりの草木も、下草さえもが気高く思えるほどに澄んだ空気が流れています。

CIMG5985_R.jpeg


千年の時を超えて人々が祈りを捧げてきたところ。
ましてやその祈りが命にかかわるものならば、込められた願いはここに留まって長い長い月日を数えてきたのでしょう。
027-1.jpeg


松尾の山懐に静かにたたずむ月読の社。

人々の祈りに満ちて鎮まるお社です。

p1040886-1 _R.jpeg




清遊ブログ  「端午の茶会」 平野の家 わざ 永々棟 にて

風薫る五月のある日、「端午の茶会」にうかがいました。

平野神社と北野天満宮のなかほど、閑静な住宅街に、
ここ「平野の家 わざ 永々棟」があります。

001 .jpeg
門をくぐり、玄関へつづく石畳。
002 .jpeg
植え込みの緑が気持ちを和ませてくれます。

002 -1 .jpeg

 


この「平野の家─」は、大正時代に建てられた屋敷を、数寄屋建築で知られる山本隆章棟梁と伝統技術をもつ職人さん達の力によって新しく生まれ変わった建物。2010年に完成しました。

003 .jpeg

「わざ 永々棟」は上棟式にさいして、「千歳棟、萬歳棟、
永々棟」と棟梁が声を掛け、大工が木槌を振り下ろして
棟納めをする習いから名づけられたそうです。

 


大正期の、そして現代の木造建築の知恵と技が結集されています。

 


受付をすませて寄付(よりつき)へ─

寄付の色紙は光悦書画 ベルリン博物館蔵写。

「己が妻 恋ひつつ鳴くや五月闇 神南備山の山郭公」 新古今集より

待合は琉球畳の敷かれた民芸風の明るい空間。
掛物 主人公 鍾馗画賛

007.JPG


旧暦では端午の節句は六月のちょうど梅雨どきにあたります。

昔の人は疫病が流行らぬよう邪気を払い、健康を願ったことでしょう。

中国で唐の時代、玄宗皇帝の病を治したという故事からか、鍾馗(しょうき)さんに魔除けを託すようになったといわれています。
京都ではよく家々の軒に挙げられた鍾馗さんを見かけますね。

008.JPG

ユーモラスな鍾馗さんにご挨拶し、会記を拝見。

この部屋と、隣の土間が今日は待合になっています。
エラールピアノが置かれてコンサートも行われる空間。

006-1 .JPG


立派な箙(えびら)と弓矢も置かれています。

 


席入りのご案内がありました!

招き入れられたのは木の香りがするような清々しい広間。

011 .jpeg

白砂と緑の美しい庭に面しています。

017-1 .JPG


018.JPG


掛物 「清 松風塵外心」(しょうふうじんがいのこころ) 

      元南禅寺管長 柴山全慶老師

香合 兜 真田幸村六文銭


花  菖蒲
花入 鐙
琵琶床 烏帽子 下鴨神社
012 .jpeg 


清新の気あふれる掛物。

紫の菖蒲が生けられているのはなんと馬に乗るときに足を置く鐙(あぶみ)です。


013-1.JPG
花入に見立てられた鐙とは!

この姿、床にぴたりと納まっています。


本来のあるべき姿ではなく別のものとして見る、役割を担わせるという「見立て」の心。

ご亭主の遊び心? が感じられてわくわくします。


香合は日本一の兵(つわもの)といわれた真田幸村の兜。
朱が彩を添えています。男子の武運長久にかなうお道具。

014 .jpeg


端午の節句は男子の節句。

干支では五月は午(うま)の月にあたり、午の月の端(初め)の午の日を節句として祝っていたものが、五の音と同じことから五月五日になったといいます。

 


風炉先 桑 つぼつぼ透し

風炉・釜 琉球風炉 切り合せ


棚 荒磯棚(ありそだな)

水指 浅葱交趾釉(あさぎこうちゆう)
016.JPG

点前座は木地の棚や風炉先屏風、浅葱交趾釉の水指が清々しさを演出しています。
写真では見えにくいのですが、風炉先の透かしになる「つぼつぼ」は千家の替え紋。

千利休の孫の宗旦が京都の伏見稲荷を信仰していたので、伏見稲荷で初牛の日の土産物であった田宝(でんぼ)と呼ばれる素焼きの器を紋にしたといわれているそうです。


お客方が着座されたところで、

亭主(席主)が入られ、正客、次客と順にみなさん全員にご挨拶。

なごやかに茶会が始まりました。

流れるようなお点前をみながら、お菓子をいただき、
主客の間に交わされるお話をうかがいます。


022-1 .jpeg
赤絵の鉢から主菓子を取り回して。

024 .jpeg

                     銘「白馬」 紫野源水製
主菓子の銘は「白馬」だそうです。なるほど!
掛けられているのは手綱ですね。
中は黄味餡のサプライズ! ああ美味し…。

干菓子は青海波の丸盆に盛られています。

025 .jpeg

                 銘「吹き流し」 千本玉寿軒製


点てられたお茶が半東によって運ばれます。
023 .jpeg
京焼でしょうか? 兜の絵のはんなりしたお茶碗。

026 .jpeg

たっぷりと点てられて、ふくよかな味わいの一服をいただきました。
今日の正客のお茶碗は馬上盃(ばじょうはい)。
ひとつ上の写真で、手に取って拝見されているのがその茶碗です。




CIMG4998.jpeg 

お客方と歓談される席主の石橋宗郁さん。
ここで月に一度、初心者の方向けに茶道教室を開かれています。


茶器と茶杓を拝見しましょう。
茶器は折撓棗(おりだめなつめ)。
CIMG4995.jpeg
堂々として、一見、男性的な印象ですが、蓋をあけると朱漆に金切箔が鮮やかです。

CIMG4994.jpeg

初代橋村萬象(はしむらばんしょう)の作。
橋村家は木具師として奈良時代から宮中に仕えたお家。
しかし千三百年とは!

 


瀟洒な竹の茶杓は銘「しのび音」。
CIMG4996.jpeg
しのび音(ね)とはほととぎすの初音だそうです。
寄付(よりつき)の色紙は
神南備山(かんなびやま)の山郭公(ほととぎす)画賛でした。
山の静謐をかすかに破る声でしょうか。


さて、神南備山、馬上盃の茶碗、琵琶床に飾られた烏帽子、しかも下鴨神社の、となれば先日の葵祭を思いださずにはいられません。
015 .jpeg

まだ幾日か前に新緑まばゆい加茂街道で路頭の儀の美しい行列を見送ったばかり、いまだその光景が目に焼き付いています。
りりしい近衛使(このえつかい)の本列。斎王代の華やかな女人列。
さまざまに飾られた花笠、などなど。

 


馬の首に鈴を懸けて走らせたのが賀茂の祭りの起こりと伝わるそうですが、今日の流鏑馬(やぶさめ)や競馬(くらべうま)にいたるまで、賀茂の祭りと馬は深いかかわりを持ってきたといえましょう。


今日のお席は端午の節句を迎え、あわせて今年も祭りが無事に終わったことを想う一会となりました。
021 .jpeg

                美しい截金のほどこされた欄間


席のあと、建物のなかをご案内いただきました。

一階の「聚楽庵」は三畳半の茶室。
CIMG5005.jpeg

005 .jpeg
写ってないのですが土間のハシリにはおくどさんがありました。

CIMG5035.jpeg


二階の座敷に上がりますと、
CIMG5022.jpeg
二方に開け放たれた眺めがすばらしいです。

CIMG5023.jpeg

見下ろすとお庭の白砂は州浜になっているのがよくわかります。

CIMG5010.jpeg

CIMG5024.jpeg
唐紙の襖は光線の角度によってさまざまに映ります。
CIMG5026.jpeg
欄間は源氏香の意匠。

CIMG5028.jpeg


格調高く、風雅なしつらい。

つぎは洋間へ。
CIMG5020.jpeg
窓の下は一階からは吹き抜けのようになっています。

009.JPG


サンルームの窓に施されたステンドグラスは四神を表します。

北は玄武を。
CIMG5014.jpeg
南の朱雀と西の白虎。

CIMG5013.jpeg


CIMG5016.jpeg
CIMG5017.jpeg
では東は…建物の東に流れる紙屋川を青龍に見立ててのこと。
福助さんもおられました。

CIMG5019.jpeg


あちらこちらに伝統の技術と創意が光る、まさにわざの結集です。

CIMG5029.jpeg


今日はご亭主や社中の皆さまと久方ぶりに再会でき、懐かしく愉しい一日となりました。


もてなしの心通う一会に感謝し、伝統と創造の風さわやかに吹く
「平野の家 わざ 永々棟」を後にいたしました。

019 .jpeg

 

 

 

 

 

 

清遊ブログ 宮島紀行

ようやく桜の便りが聞かれる頃となりました。
京の遅い春を待ちかねて、でもないのですが、瀬戸内、安芸の宮島へでかけました。
宮島は日本三景の一つ。
1-2 地図_R.jpeg
島には平清盛と平家一門の崇敬をうけた厳島神社があり、清盛が納めた「平家納経」でも知られています。

広島から宮島口まで移動し、宮島口からフェリーで宮島へ。
1-1 宮島口にたつ蘭陵王_R.jpeg
                        宮島口の蘭陵王像

快晴。暖かい風に吹かれ船上は快適です。

ほどなく大鳥居とそして背後に山々が見えてきました。
2弥山_R.jpeg
この姿、観音様の横顔に見えるのです。
左から額、くぼんだ所が目、そして鼻…。おわかりいただけたでしょうか?
堤先生に教えていただいた折りにはよくわからず出かけたのですが、帰って写真を見て理解できました(笑)
湾の入り江にそびえる朱塗りの大鳥居、その奥に海にうかぶ朱色の社殿が見えてきました。
3大鳥居_R.jpeg
厳島は、「神を斎(いつ)きまつる島」として「厳島」と呼ばれるようになったといいます。
古くから島そのものが神聖化されてきました。
島の最高峰である弥山(みせん)は標高530m。
弘法大師が開いたと伝承のある山岳信仰の霊地で、原生林におおわれ、弥山本堂三鬼堂(さんきどう)のほか御山(みやま)神社大日堂などが建っています。

厳島神社は、広島湾の入り口にうかぶ宮島(厳島)の海岸に建ち、平安時代の寝殿造りを神社に取り入れた建築美で知られ、古来、安芸の国一宮として尊崇されてきました。
創建は推古元年(593)、佐伯鞍職(さえきくらもと)によると伝わりますが、平安末期の久安2年(1146)、清盛が安芸の守に任ぜられ、平家一門の崇敬が始まって以来、現在のような壮麗な社殿が営まれるようになりました。
御祭神は宗像三女神(むなかたさんじょしん)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)。

天照大神と須佐之男命の誓約(うけひ)の際に誕生した神々。
宗像三女神は海上交通を司る海の神々として信仰されてきました。
また御祭神のうち市杵島姫命はいつしか弁財天と習合し、日本三弁天の一つと称されるようになりました。

さて、大鳥居です。
6-4_R.JPG
宮島のシンボルで、両部鳥居と呼ばれる独特の姿。
写真は満潮から1時間ほど経った頃の姿です。

6-5 _R.JPG
現在の「伊都岐島神社」の扁額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の御染筆。
6-6_R.JPG
海側の扁額は「厳嶋神社」。

参詣の人々で賑わっている様子が見えます。
7_R.jpeg
船を降り海岸を歩きます。
6-2_R.JPG
空も海も澄んで美しい景色です。

6-2-1_R.JPG

6-3_R.JPG
 二位殿灯籠 壇ノ浦の合戦で、安徳天皇とともに入水した
平清盛の妻、時子の供養のため建てられた灯籠。

いよいよ厳島神社へ。
10-1-1 _R.JPG
10-1_R.JPG
東廻廊(国宝)を進みます。
10-2_R.JPG
蟇股(かえるまた)にも古様を感じつつ…

11_R.JPG
まずは摂社の客(まろうど)神社。
「まろうど」とは…海を越えて寄りくる神。
講座で先生から教わったばかりです。
12客社_R.JPG
正面は祓殿(はらいでん)。その後ろが拝殿、そして本殿となります。
檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が美しいですね。
客社の造りは本社と同様の構成になっています。

14客神社本殿_R.JPG

           反対側から見て。両流造りの客神社本殿。

客社は摂社のなかで最も大きく、厳島神社の祭典はすべてここから始まるならわしです。

13-1_R.JPG
                客社の祓殿、拝殿、本殿とも国宝。

御祭神は五柱の男神。やはり天照大神13_R.JPGと須佐之男命の誓約の際、さきの宗像三女神のあとに誕生した神々。
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は天孫ニニギノミコトの父神にあたります。

ちなみに厳島神社の神紋は三つ盛亀甲に剣花菱。出雲大社と同じです…
客神社の背後にみえるのは五重塔

CIMG3865.jpeg
そして秀吉が建てた大経堂・豊国神社(千畳閣)です。
CIMG3868.jpeg
秀吉が没したため、完成をみないまま現在に至っています。

五重塔と千畳閣は厳島神社の東の丘に建ち、客神社の借景になっています。

─さて社殿にもどり、

宮島八景のひとつ、鏡の池
16_R.JPG
左手の円形のところ。たえず清水が湧き出ています。
回廊の釣灯籠は毛利輝元が寄進したのが始まりだそうです。

朝座屋(あさざや) 神職が参集するところで、朝の祭典の前に使われることが多かったためこの名があります。
15 -1朝座屋_R.jpeg
寝殿造りの対屋(たいのや)の特徴を持ちます。
こちら側(東側)は切妻屋根、反対側の屋根は入母屋造りです。
向こうに見えるのは本社本殿の屋根。


桝形(ますがた) 
廻廊と祓殿で囲まれたところ。
16-1 _R.JPG
旧暦617日に行われる管絃際には管絃船が楽を奏し、この桝形に入ってくるのだそうです。

卒塔婆石(そとばいし)と康頼(やすより)灯籠

19_R.JPG
鹿ヶ谷の謀議により僧俊寛、藤原成経らと喜界ヶ島に流された平康頼が、母をしのんで二首の和歌を千本の卒塔婆に書いて流し、そのなかの一本が流れ着いた石という伝承があります。
20_R.JPG

灯籠は許されて都に帰ってきた康頼が御礼のために奉納した灯籠。

21_R.JPG
いよいよ本社です。宗像三女神のほかに30柱が相祀されています。
前方の祓殿は、客社と同様、三方に庇をつけた特徴ある建物でその後ろが拝殿です。
拝殿の屋根は入母屋造り。下から見上げると棟が二つ見え、その上を一つの棟で覆っていて、三棟(みつむね)造りというのだそうです。
本殿の屋根は見えにくいのですが、切妻両流造り。檜皮葺に瓦を積んだ化粧棟で寝殿造りの様式を伝えています。 
水平に広がる屋根の姿が優雅です。
高欄で囲まれているのは高舞台(たかぶたい)
24_R.JPG

24-3_R.JPG
24-4_R.JPG
         本社祓殿から高舞台、大鳥居を見たところ。
祓殿は折上げ小組格天井で、
勅使が参詣されるなど特別なときに使われます。

拝殿前の高舞台(国宝)では舞楽が舞われます。
24-1-1 _R.JPG
舞楽は清盛が四天王寺から伝えたといわれ、
陵王・振鉾・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なおこの厳島神社で舞われます。
24-5 _R.JPG

見えにくいのですが、平舞台(ひらぶたい)の突き出ているところ、突端が
火焼前(ひたさき)。 ともに国宝です。
24-2 _R.JPG
         手前が右楽房。その右にあるのが右門客神社

そして平舞台の前、両側に門客(かどまろうど)神社と楽房があります。

門客神社は門をつかさどる豊磐窓神(とよいわまどのかみ)、櫛磐窓神(くしいわどのかみ)をお祀りします。

25 _R.jpeg

楽房は舞楽のさい雅楽を奏するところ。

CIMG3628.jpeg
手前が右楽房。 向こう側が左楽房。これらもみな国宝です。

インド・唐から伝わったものを左舞(さまい)といい、左舞を舞うときは左楽房で奏し、   満州・朝鮮半島から伝わったものを右舞(うまい)といい、右楽房で奏するのだそうです。
いつかここで舞楽を見てみたいものです。

天神社(てんじんしゃ)

菅原道真を祀る。古くは連歌堂といい、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていました。
25-1 _R.JPG
大国社(だいこくしゃ)
写真がないのですが、本殿の西側にあり、ご祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)が、本社御祭神のうちの田心姫命と結婚していますので、本社に近い場所にお祀りされているということかもしれません。

能舞台
永禄年間に毛利氏によって寄進されました。
日本で唯一、海に浮かぶ能舞台。
26 _R.jpeg
27 _R.jpeg
切妻造り。立派な大瓶束(たいへいづか)。


反橋(そりばし) 
別名勅使橋といい、昔、勅使が参拝されるときに渡られたそうです。
27-1  _R.JPG
ひとまわり見学し終えました。
向こう岸をぼんやり眺めていると、
28 _R.jpeg
鹿が境内を悠々散歩しています。ここではふつうに見られる光景?


下は、西方の多宝塔の辺りから眺めた神社です。
29 _R.jpeg
まるで模型のように見えますが本物です(笑)。よく見ると手前の
西廻廊側が出口になっています。
ここから出てきたのです。
こちら側はごらんのとおり唐破風屋根です。入口は切妻屋根でした。


海上に浮かぶ鮮やかな朱色、水平に広がる社殿の美しさ、屋根も左右で異なる繊細な造り、取り合いの変化と調和。細やかな美意識が感じられます。
まさに清盛が実現した龍宮城であると先生からお聞きしたとおりです。

清盛が厳島神社を信仰した背景には、清盛が瀬戸内海を中心に勢力をのばしていったことがあげられます。

瀬戸内海は九州と近畿を結ぶ重要な交通路であり、清盛は博多から瀬戸内海をとおって大輪田泊(おおわだのとまり)までを結ぶ日宋貿易のルートをひらきました。
海を基盤として勢力をのばした清盛は、瀬戸内海の守り神としてうやまわれていた厳島神社を平氏一族の守護神としたのです。
清盛は福原に住むようになってより、たびたび千僧供養を行っています。
法華経の読経によって、海神、すなわち龍神が怒り風波が起こらぬよう、海路の安全を守る願いが込められていたのでしょう。

図1.jpeg
六波羅蜜寺の清盛像 出家して後の法名は静海。
その信仰の深さは清盛が奉納した「平家納経」(国宝)からも知られます。長寛2年(1164)、清盛と平氏一族が神への感謝と来世の幸福を祈って厳島神社に納めた33巻のお経。
32 _R.jpeg
33 _R.jpeg
その奉納内容と過程にはいくつかの疑問が残りますが、金銀をちりばめた料紙に書かれ、美しい絵と相俟って平安時代の美術作品のなかでも最高傑作のひとつとされています。

─大河ドラマではなかなか理解できない清盛像やその信仰について、ぜひとも堤先生の講座で、より深いお話をお聞きしたいと思います─
34_R.JPG
     宝物殿
 当の「平家納経」はただいま出張中でした。

34-1_R.JPG
    宝蔵
 宝物館や収蔵庫ができるまでは「平家納経」も
この宝蔵に納められていました。

34-1-1 .JPG
34-1-2 R.JPG
  三翁神社(さんのうじんじゃ)
  厳島神社の創建にかかわる佐伯鞍職が祀られています。


厳島神社のすぐ近くに大願寺(だいがんじ)35_R.JPGがあります。

大願寺は真言宗高野山派で、厳島神社の修理造営を司ってきた寺院。
36_R.JPG
ここに祀られている弁財天は、江の島、竹生島とならび日本三弁財天の一つです。

一方、明治の神仏分離まで厳島神社の別当職であったのが、
弥山の麓にある真言宗御室派に属する大聖院(だいしょういん)。
36-1 _R.JPG
36-2 _R.JPG

本尊は波切(なみきり)不動明王をお祀りしています。
本堂、魔尼殿(まにでん)をはじめ、随所にみられる彫り物や複雑な建築様式が見られます。
石段を上り、かなりくたびれていたのですが、いちめんに彫刻された玉眼の龍や獅子にゾクッとして目が覚めました。

CIMG3746.jpeg

CIMG3748.jpeg
  魔尼殿 弥山三鬼神を祀る。圧倒されるような建築です!
CIMG3735.jpeg
CIMG3739.jpeg
魔尼殿二階から
大聖院から弥山への登山道が見えます。
CIMG3731.jpeg
さて、大聖院をあとに─

多宝塔
を経て、
CIMG3781.jpeg

大元(おおもと)公園
へ。

大元神社 本殿は三間社流造り。
38 _R.jpeg
     こけら葺が六枚重三段葺きの日本で唯一の建造物。

40 _R.jpeg

夕暮れ時の静かな公園を散策し、
39 _R.jpeg
清盛神社にお参りし…

41 _R.jpeg
清盛神社 昭和29年に清盛のの遺徳をたたえ建てられた神社


大鳥居を見ると…干潮になっています。
あの大鳥居まで歩いていけるんですね!
たくさんの人がどんどん集まってきます。

42_R.JPG
鳥居まで来て社殿が正面に見えると不思議な感じがします。
社殿までも歩いて行けます。
44.JPG
43_R.JPG
満潮時とは水深2メートル弱くらいの差でしょうか。
CIMG3818.jpeg

この大鳥居は島木のなかに石が入れられて重石となっているそうで、自重で立っています。
大鳥居に始まり、大鳥居で終わった一日。

明日はいよいよ弥山に登ります!

CIMG3594.jpeg

翌日も天候に恵まれました。宮島へわたります。
いよいよ弥山(みせん)へ─
2_R.jpeg
バスと
ロープウェイで途中の獅子岩駅まで行くことができます。
2_R.JPG
いい眺めです。怖いくらい……
獅子岩駅からは歩いて、まず弥山本堂を目指します。
4_R.jpeg

5.JPG
ところどころで休憩しながら、木の間から見える眺めに励まされつつ…
6_R.JPG
本堂に近づくにつれて、巨岩がみられるようになってきます。
7_R.JPG

太古の昔、ここが海の底であった証拠だそうです。
弥山本堂に到着です。
8_R.jpeg
弘法大師が弥山山上で護摩を焚き、百日間の求聞持(ぐ8_R.JPGもんじ)の修法を行ったところと伝わります。本尊は虚空蔵菩薩が祀られています。
9_R.JPG
10 _R.jpeg
            清盛の三男、宗盛が寄進したという梵鐘。
本堂と向かい合う霊火堂(れいかどう)
11_R.JPG

弘法大師が修法された当時から燃え続けているという聖火。その上に大茶釜が懸けられ、釜の湯を飲むと万病にきくといわれています。

11-2 _R.JPG

ここは日本で唯一、鬼神を祀るという三鬼堂(さんきどう)。
12_R.JPG
主神は追帳鬼神(ついちょうきじん)で知恵の徳を司り、他は福徳の徳を司る時媚鬼神(じびきじん)、降伏(ごうぶく)の徳を司る摩羅鬼神(まらきじん)。
三鬼大権現(さんきだいごんげん)は大聖院の魔尼殿(まにでん)にも祀られています。大小の天狗を眷属に従え、強大な神通力で衆生を救うとされるのだそうです。
13_R.JPG
      奉納された天狗の額がたくさん掲げられています。

追帳鬼神の本地仏は虚空蔵菩薩ですが、弥山本堂の本尊は虚空蔵菩薩でした。
初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれ、扁額は伊藤博文の字です。
やはり山岳信仰の色濃いところですね。
15 _R.jpeg
さて、また出発。 巨岩、奇岩を通り抜け、
16_R.JPG
くぐり岩
17_R.JPG
やっと頂上にたどり着きました!

18_R.JPG
目の前に瀬戸内の景観が広がっています。
19 _R.jpeg
まるで雲の上から見おろしているような美しさ─。

20_R.JPG
静かでおおらかで、遠い昔、神々が降り立ったであろうと思える風景。
CIMG4066_R.jpeg
CIMG4069_R.jpeg

厳島に詣で、弥山に登り、海と山に囲まれたこの自然の中にさまざまの信仰の姿を見たような気がいたします。


               

清遊ブログ 上七軒界隈にて

すこし寒さがゆるんで、陽ざしも明るくなってきました。
今日は上七軒(かみしちけん)にやってきました。
今出川通りと七本松通りの交差点を上がって、上七軒通りを西へ歩きます。
上七軒は京都の五つの花街(かがい)のうちで最も古い花街。
五つ団子の提灯が軒を飾っています。二本で十個の団子がくるりとめぐっています。
 
ルート0_R.jpeg
3
25日から始まる北野をどりのポスターもあちこちに。

今年は北野をどりが60周年を迎えるそうです。

お茶屋さん、仕出し屋さん、お寿司屋さんなどが軒を並べ…
やはり華やいだ雰囲気です。
ルート1_R.jpeg
ルート2_R.jpeg
ルート4_R.jpeg
上七軒の歴史をひもときますと-

室町時代、北野社殿が一部焼失し修復されました。
その際、社殿御修築の残材を以て、東門前の松原に、七軒の茶店を建て、参詣諸人の休憩所としましたので、七軒茶屋と称したのだそうです。 
その後、天正十五年(1587)八月十日、太閣秀吉が北野松原において晴天十日間(実際には一日だけで終わりました)の大茶会を催し「茶の湯執心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」との布令を発したため、洛中は勿論、洛外の遠近より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず非常の賑わいを呈したと。 
その際この七軒茶屋を、豊公の休憩所にあて、名物の御手洗団子を献じたところ、いたく賞味に預り、その褒美として七軒茶屋に御手洗(みたらし)団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、わが国に於けるお茶屋の始まりだそうです。 
現在、上七軒花街が五つ団子の紋章を用いるのは、実にこの名物御手洗団子に由来すると上七軒歌舞会では伝えています。
ルート0-1_R.jpeg 
上七軒は真盛町、社家長屋町、鳥居前町の三つの町内から成っています。
ルート4-1中里 町名_R.jpeg 
上七軒歌舞練場をのぞいてみましょう。
歌舞練場1_R.jpeg
歌舞練場 1-1_R.jpeg
上七軒歌舞練場1.jpeg
ここのお提灯も二本の五つ団子。これは下で串が交差して円になっています。
 

上七軒歌舞練場―

昭和
6年の建築。客席への廊下は高欄がめぐらされ、茶屋建築には珍しい神殿造りの風情。

歌舞練場4_R.jpeg
歌舞練場3_R.jpeg

高欄をめぐらせているということは橋掛かりの構成であり、橋は異界へ誘われることを暗示しています。
以前、おもしろ講座で堤先生から能舞台の装置についてうかがったことがありましたね。

他の歌舞練場がオートマティック化されていくなか、手動式の舞踊専門の建物で、地方(ぢかた)との相性がよく、微妙な間がとりやすい劇場として定評があるのだそうです。  


ちなみに歌舞練場の正面は、天満宮東側の御前(
おんまえ)通りに面しています。天神さんの前の通り=御前通りです。

歌舞練場5_R.jpeg 
さて、この花街のなかに、なんと五本の筋塀(
すじへい)がありますが…。はて門跡? 
西方尼寺_R.jpeg
正面にまわってみましょう。
西方尼寺玄関_R.jpeg
 
西方尼寺―

ここは真盛山と号する尼寺。

寺伝によれば文明年間(
146984)に慈摂大師・真盛(しんせい)上人を開山として大北山の地に尼僧の修行道場として建立したものを、永正年間(150421)に現在地に移転した由。

本尊の阿弥陀如来坐像は椅子に腰掛けて中品中生印を結ぶ極めて珍しい像。
寺宝の絹本著色観経(かんぎょう)曼荼羅図(重文)は当麻寺の中将姫ゆかりの綴織観経曼荼羅図(当麻曼荼羅)を鎌倉時代に転写したものだそうです。
観経というのは浄土宗で使用する三部経の一つ「観無量寿経」のこと。


そしてじつは本光院という門跡寺院が西方尼寺のなかにあるのです。 
本光院―

本尊は延命地蔵菩薩。
本光院は乾元元年(1302)、後二条院の皇女が父帝の菩提を弔うために開創、蔵人御所号を勅許されました。

元は上京二階町にありましたが荒廃して、天正年間に織田信長が再建して北野に移転しました。この時より延命地蔵菩薩を本尊としています。

中興の祖、本光院日心尼の院号により本光院と改称しました。摂家子女が入寺する寺でしたが、次第に荒廃し、宗派も時代により変わりました。
 
昭和43年に天台真盛宗の西方尼寺境内に再建されて、西方寺住職が本光院門跡も兼ねて法灯を継承しておられるのだそうです。

本光院がある西方尼寺境内には北野大茶会の時に千利休が使用した井戸「利休井戸」や利休手植えの「五色散椿」が伝わっています。
西方尼寺 利休井戸_R.jpeg
西方尼寺 五色散椿.jpeg
なお、本光院には鎌倉時代から南北朝にかけての武将・足利直義(
足利尊氏の異母弟)の妻・本光院殿(渋川貞頼の娘)が開山したという説も伝わっています。
 
西方寺は拝観することはできませんが、ここには「真盛豆」という菓子が伝えられていますので、そのお話をいたしましょう。
真盛豆―

真盛上人が念仏を聴きにきた信者に作ってもてなしたものといわれ、真盛の弟子で、この西方寺の開祖である盛久・盛春両尼が真盛から製法を伝えられ、以来代々この寺に伝わってきたものとされています。
天正十五年の北野大茶湯に使用され、秀吉が茶味に叶う味と賞賛し、細川幽斎は苔むす豆にたとえたといいます。
明治初年に初代の金谷正廣(安政三年創業)が西方尼寺に出入りし、この製法を伝授され、さらに茶人にあうよう工夫したと伝えられています。

真盛豆 本体_R.jpeg

炒った丹波黒豆に大豆粉を幾重にも重ね、青海苔をまぶした風雅なお菓子。
真盛豆は金谷正廣(堀川下長者町通り西入ル)の銘菓となっています。
秀吉公の見立てのとおり、茶道の干菓子に適います。
真盛豆 金谷正廣 看板_R.jpeg 
真盛豆 .jpeg

西方尼寺の屋根に贔屓(ひいき)を見つけましたよ…。
西方尼寺 贔屓瓦_R.jpeg

先へ行きましょう。
 
老松1_R.jpeg
ここは和菓子の「老松」。

花街のなかにあって茶店の風情をも残しつつ、北野社ゆかりの屋号を持ち、北野の信仰とともに京の雅を伝える菓子司として
貴重な存在。
茶の湯のお菓子でもおなじみですね。
店内にはやはり舞妓さんの団扇も飾られて。
 
老松2_R.jpeg
梅尽しの干菓子「春鶯囀」が目にとまりました。
老松4_R.jpeg
『源氏物語』「花宴」に、東宮の所望により光源氏が「春鶯囀(しゅんのうでん)」の一節を舞ったくだりがありました。
その優雅な場面も想像されて、まだ少し早い北野の春を先取りです。 

まもなく上七軒通りは尽きて、御前通りの北野天満宮東門前に出ました。
 

北野1_R.jpeg
北野1-1_R.jpeg
この東門
重要文化財)はなかなか立派なものです。
銅板葺き、四脚門。
北野1-2_R.jpeg
木鼻は獅子と象。
 
北野1-2-3_R.jpeg
鬼もいます!
北野1-2-4_R.jpeg
屋根には梅花の瓦押えが置かれています。
北野1-2-2.jpeg 
東門を潜ると本殿の「石の間」に向かうかっこうになります。
北野1-3_R.jpeg
ここから見る本殿も優美な佇まいです。

まずは正面にまわり参拝します。
北野1-6_R.jpeg
北野2_R.jpeg
東門を入ったあたりに戻ってすこしご紹介しますと、
本殿後ろに朱塗りの地主神社が見えます。

北野1-3-1.jpeg
ご祭神は天神地祇(
てんしんちぎ)
天満宮第一の摂社。道真公以前から祀られていた記録があり、北野の地に元からあった地主神。
じつはここは大変重要なお社で、現在の北野天満宮の正門は、道真公を祀る本殿ではなく、このお社に向かって建てられているのです。

 
手水舎の奥に竈(
かまど)社や茶席・明月舎があります。
北野3_R.jpeg
竈社の前には見事な老木が。
北野3-1_R.jpeg
北野4_R.jpeg
ここは長五郎餅の出店。
北野1-4_R.jpeg
 毎月
25日や不定期にここで長五郎餅が販売されます。
          (長五郎餅本店は一条七本松西)

長五郎餅はやはり天正十五
年の北野大茶会の折、秀吉に好まれてその名をもらったというお菓子。餅皮に餡を包んだ門前菓子の一つです。

梅もちらほら咲き初めています。
北野1-5_R.jpeg 
さて、天神さんを出たら、いよいよ「天神堂」に立ち寄りましょう!

天神堂2_R.jpeg
これも門前菓子の「やきもち」を求めます。
天神堂3_R.jpeg
今日の目的の一つかもしれません(
笑)
堤講師の大好物…。
お餅と餡のこうばしさが素晴らしいのですが、このおいしさはとても言葉ではお伝えしきれません。 
天神堂の前の東向き一方通行の道は五辻(いつつじ)通り。
東へ向かいます。


五辻通りは東へ行くと千本釈迦堂へつづく参詣道になります。


田中実盛堂_R.jpeg
七本松通りに出る手前に、おせんべいの「田中実盛堂」。


こちらの「京絹巻(
きょうきぬまき)」を井上由理子先生から教えていただいたのは何年前でしょうか。まだ最近のことです。

「京絹巻」は西陣織の「杼(
ひ)」の中の木管をかたどったという煎餅(右)。糸巻の感じが出ていますね。
 
田中実盛堂 2_R.jpeg
写真で下におかれているのが経糸(たていと)の間に緯
(よこ)
糸を通す道具である杼。
舟形で,中央に緯糸を巻いた木管をおさめています。
左右に走行させて織っていきます。


 
田中実盛堂1_R.jpeg
京絹巻はいただくと胡麻の香りが口いっぱいにひろがり、ポリポリとあっという間に食べきってしまいます。
なかの芯は砂糖と水飴で作られていて、一つ一つを手焼きの煎餅で巻いています。
ご主人いわく機械でなく手で巻かないと風味が壊れるのだとか。

こちらのお店、大正
10年の創業だそうですから、90年ほどになります!
素朴で、飽きない味と形。
手作りの温かみ。ずっと作り続けてほしいお菓子です。 
田中実盛堂3_R.jpeg

京絹巻のほかにも白みそ風味や赤みそ風味の松風など。

午後三時を回った頃。下校途中の小学生が店先を覗いていきました
。おやつの時間です。

七本松通と五辻通りの交差点。いま歩いて来た五辻通りを振り返って。

田中実盛堂4_R.jpeg
この辺りは西陣のエリアで、西陣織にかかわる、いわゆる「糸偏(
いとへん)」の仕事をしておられる所がたくさんあります。

西陣織の帯の織元「丸勇」さんを訪ねました。
こちらでは「唐織(からおり)」を主に織っておられます。 
唐織は能装束などでよくご存じと思いますが、太い染糸を使って刺繍のように模様を織りだす複雑な技法で、西陣織の技術の高さを天下にとどろかす基となったものです。
唐織6_R.jpeg
CIMG3251.jpeg

CIMG3183.jpeg
唐織― 
『西陣天狗筆記』と『雍州府誌』によれば、弘治年間に大舎人座(おおとねりざ)の座人であった紋屋・井関(いせき)七右衛門宗鱗が工夫を凝らして紋織法を創出し、
慶長頃に、同じく大舎人座の蓮池(
はすいけ)宗和に伝え、蓮池宗和がさらにその技術を発展させ、蜀紅錦に倣った五色糸の紋織模様の唐織を完成させたとされます。
井関家―

井関七右衛門宗鱗の時代より織物司としての優れた家柄で知られています。
宗鱗より数え八代目にあたる井関頼母氏は、伝来の紋織物を伝授して<紋屋号>を称え、格式の高い六人衆の筆頭として内蔵寮の織物司に補せられていました。
昨秋、紫野案内で「紋屋の辻子(大宮通り五辻上ル西入)」を訪ねましたね。

天正十五
年に、井関宗麟が、袋小路となっていた土地の家屋敷を買い取り、行き抜けにしました。それが現在の五辻通りです。この通りには、現在も、井関の屋号にちなみ、紋屋の辻子と呼ばれる有名な辻子があります。 
蓮池宗和―
その屋号は「俵屋」。画家の俵屋宗達の出自を織屋であるとする説もあるそうですが、もしそうであればこの俵屋蓮池こそ宗達の生家であるかもしれないのです。
無名であった宗達は本阿弥光悦に見いだされ、光悦と組んで素晴らしい芸術を生み出してゆきますが、光悦の屋敷跡が西陣(白峯神宮の東側)にあり、宗達も西陣織にかかわる家の出自であれば、二人の出会いは自然なことであったかもしれません。
 唐織の織機について―
紋織に用いられる織機を高機(たかばた)といいますが、この高機が戦国時代の末期ころに開発され、それまでの平織りしかできなかった「いざり機」から代わって、初めて日本にも精巧な紋織ができるようになったのだそうです。 

さて、今一度、百一色の糸を使った帯をごらんください。
ぷっくり膨らんだ唐織の風合いがおわかりいただけるでしょうか。
どれだけの手間がかかっているのか想像もつきません。
部分でしかご覧いただけませんが、帯一本がまるで美術品のように思われます。
でもこれらは普通に市場に出されてゆくものです。
唐織3_R.jpeg
唐織4-1_R.jpeg
おめでたい宝尽しも地色によって印象が変わります。
唐織0-1_R.jpeg
カタログには百一種の糸の色が描かれています。
唐織0_R.jpeg
唐織0-2_R.jpeg
七宝つなぎの中はなんと百八種の花が織り出されています。
 

唐織4-2_R.jpeg
礼装用の帯。金糸がたくさん!
 

唐織5 (2)_R.jpeg 

著名な伝来の小袖から紋様の意匠を選び配置して織られています。

唐織7_R.jpeg
どれも古典柄のなかに現代的なセンスを取り込み、京都らしい雅びやかさ、品格が感じられます。色あいもはんなりしています。

 

唐織4-4_R.jpeg
唐織の糸。微妙に異なる色の多さに驚きです。
唐織4-5_R.jpeg
糸を染めるところから始まる先染めの西陣織。
ものすごくたくさんの工程を、折に触れ、少しずつ学んでいきたいと思いました。
 

さて、七本松通りを渡り、五辻通りを千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)まで行きましょう。
といってももう目と鼻の先です。

千本釈迦堂0_R.jpeg

このお店・VERTIGOは「わっ!フル」がおいしいです!

この道は参詣道。
いまは生活道路となっていますが、応仁の乱の西軍の大将、山名宗全も通ったであろう道です。
大報恩寺(千本釈迦堂)に着きました。

千本釈迦堂1_R.jpeg 
千本釈迦堂3_R.jpeg 
千本釈迦堂4_R.jpeg
1227
年の創建時そのままの姿で建つ本堂。
京都市内最古の木造建築。国宝。
ご本尊も創建当初からのもので、本尊と本堂がともに同じ場所で祀られている唯一の例だそうです。
本堂外陣の柱には応仁の乱の槍、矢、刀傷の跡があり、残っているのが奇跡のような。 
信仰の寺なのですね。 
千本釈迦堂4-1_R.jpeg
枡組の斗栱(ときょう)を施すことで重量を四方に逃す方法。
本堂造営のさい、かけがえのない柱を切り落としてしまった棟梁に「枡組」を施すよう進言をして無事完成した、内助の功の
「おかめ」さんにも会えました。
千本釈迦堂5-1.jpeg
枡組をささげ持っておられます。
ふくよかなお顔にほっこりです。 
さて1
キロメートルも歩いたでしょうか。
堤先生には天神堂の「やきもち」を始め(大笑)、たくさんのご教示をいただき
こんなに短い距離なのに、びっくり箱のようにたくさんのものに出会え、楽しい散策でした。

今日はここをゴールといたしましょう。
また一日春に近づきますように。それではまた。
千本釈迦堂6_R.jpeg 
         千本釈迦堂宝蔵館前のクロガネモチの大木

ご報告

寒さ厳しい日々が続いておりますが、京都・清遊の会の皆様にはいかがお過ごしでしょうか。

一言ご報告申し上げます。


かねてより病気治療中の堤勇二講師におかれましては、今月
18日に再手術を受けられ、手術は無事成功し、経過は順調で、退院、現在自宅にて療養されています。

二度の手術や化学療法などたいへん長い治療を経て、なおも体調の回復までには時間がかかることとは存じますが、堤先生はようやく峠を乗り越えた思いで、落ち着き、療養に専念されております。


皆様にはたいへんご心配いただき、お見舞いや励ましのお言葉を頂戴し、誠にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。


今後、堤先生の経過をみて講座再開への運びとなります折にはお知らせ申し上げます。

皆様には引き続き変わらぬご指導を賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。
                         
            京都・清遊の会 主宰 中川祐子
梅3.BMP