月読(つきよみ)神社をご存知でしょうか?
嵐山の松尾大社(まつのおたいしゃ)の鳥居から南へ、田植えのすんだ神饌田を過ぎて、道なりに十分ほど歩きます。
紫陽花が咲いて、
月読神社の鳥居が見えてきました。
ここは安産祈願の「月延(つきのべ)の石」で知られるお社。
現在は松尾大社の境外摂社となっています。石段を上り、門を潜ると、
見渡せるほどの境内はしんとして静まり、拝殿、奥に本殿が見えます。
山の懐に包まれたようなこの境域に足を踏み入れたとたん、不思議な、独特の空気が流れているのを感じました。
この空気感はいったい何なのでしょうか。
拝殿から本殿を見ています。
月読神社の本殿は月読命(つくよみのみこと・つきよみのみこと)を主祭神とし、高御産霊神(たかみむすびのかみ)を合祀しています。
「月讀大神」の金文字もゆかしい扁額。
本殿の前にたつ燈籠には「月讀宮」とあります。
江戸時代に建てられた本殿は三間社流造り、床は浜床式。
カモの社の摂末社に同じ。
拝殿の階段を見るとやはり松尾大社やカモ社と同じ、葵の意匠が施されています。
月読命は「古事記」によれば、伊弉諾命(イザナギノミコト)が黄泉の国から戻り、禊をおこなった際、その右目をすすいだときに生まれた神。
左目をすすいで生まれた天照大神(アマテラスオオミカミ)、鼻をすすいで生まれた素戔嗚尊(スサノオノミコト)とともに、三貴子(みはしらのうずのみこ)と称される神様です。
ただ、月読命の伝承はアマテラスやスサノオに比べて少なく、「日本書紀」に次のような話が知られます。
月読命がアマテラスの命を受けて保食神(うけもちのかみ)のところに赴いたとき、保食神が自らの口から魚や狩の獲物などを吐き出してもてなそうとしたので月読命は怒り、保食神を剣で殺してしまいます。
これを知ったアマテラスは「汝(いまし)は是、悪しき神なり、相見まじ」といって怒り、ついに両神は「一日一夜、へだてて住みたまふ」となり、昼夜の神に別れたと。
昼と夜の起源神話につながるお話です。
月読命とはその名が表わすとおり、月を司り、夜を統べる神。
そして「月を読む」とは月齢、すなわち暦を読むことを意味します。
月は太陽と共に、種まきや刈入れ、魚の産卵期などを知らせてくれる大切な天体。
それゆえ月読命は五穀豊穣や豊漁、また海上安全の守り神ともされています。
本殿に月読命が祀られるのは全国でも数少なく、京都市内ではこのお社だけと聞きますが、
そういえば、京田辺市の大住(おおすみ)に月読神社があります。
大住は薩摩の大隅からやってきた人々が住んだところ。
ここには月の女神、かぐや姫を育てた竹取りの翁の里との伝承があるのです。
京都には案外月のゆかりが多いのかも知れませんね。
そういえば祇園祭の月鉾の天王人形は月読命でしたよ!
じつはここに来てから時おり、カランカランというようなかすかな音がきこえていたのですが、拝殿にその音の源がありました。
風が吹いてこの鈴を鳴らすのです。鈴は日光をうけて静かに輝いています…
神様が風とともに訪ったのかもしれません…。
境内を回ってみましょう。
本殿に向かって右手には、安産祈願の「月延の石」が置かれています。
神功(じんぐう)皇后が身重の体で腹帯を巻いて三韓征伐に出陣した話は有名ですが、帰国して筑紫に滞在し、臨月に及んで安産を祈ったところ、この石を撫でよ、との月読命の託宣がくだり、めでたく応神天皇(第十五代)を出産したという話が伝わっています。
「月延の石」は、時代が下って舒明(じょめい)天皇(第三十四代)のとき、壱岐公乙(いきのきんおと)等を筑紫に遣わしてこの石を求め、山城国の歌荒樔田(うたのあらすだ)に奉納したと伝える石なのです。
安産守護の願いが記された小石がたくさん奉納されています。
現在のような医療技術のない昔、女性にとっては出産は命を賭けた大仕事でした。
神功皇后の伝承もさることながら、月読社に出産の無事を祈ることは、月の満ち欠けをも含んだ自然の営みが生命の誕生と深くかかわっている証しなのかもしれません。
興味深いことがあるのだそうです…。
神功皇后の名前は息長足帯姫(おきながたらしひめ)、そして舒明天皇の和風諡号(しごう)も息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)。両者はなにか関連がありそうです。
祇園祭の船鉾(ふねぼこ)、占出山(うらでやま)は神功皇后を主題にしたものですし、ご神体は腹帯を巻いて巡行され、その腹帯や安産祈願のお守りが授与品となっています。
復興に向けて準備が進められている大船鉾(おおふねぼこ)は、ことし神功皇后の衣装が新調されたと聞きます。
神秘のベールに包まれた神功皇后の、新たに知り得たことを留めおいて、今年のお祭りはこれらの山鉾見学をすることにいたしましょう。
神功皇后が着けていた腹帯は、皇后に仕えた女性たちに下賜され、そのうちで京に来た者がその腹帯を頭に巻いて働いたことから、それが桂女(かつらめ)の起こりと伝わります。桂女は桂川で獲れる鮎や飴を売り歩き、また出産を手伝うこともありました。
彼女たちが頭に巻いたのは神功皇后ゆかりの腹帯だったのです。
月延石の隣には「むすびの木」がそびえています。
足元は三本の木であり、中ほどでくっついています。そしてまたそれぞれの木になって延びています。
やはりここは神様が宿るところ…。
そして月読命を敬愛されたという聖徳太子をお祀りした「聖徳太子社」。
仏教を信仰された聖徳太子ゆえ、お社は瓦葺になっているのでしょうか。
月読神社が京都にもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性があると駒札に書かれていましたから、秦氏とゆかりの深い聖徳太子がここに祀られていることにつながるのかもしれません。
本殿向かって左には「御船社(みふねしゃ)」
天鳥船(あめのとりふね)をお祀りします。
「古事記」ではアマテラスが国譲りの交渉をするために建御雷神(たけみかづちのかみ)を出雲へ派遣したとき、一緒に行った副使の神様と伝えて、建御雷神の乗り物となりました。
イザナギとイザナミの最初の子供で失敗作であった蛭子(ひるこ)を西へ流した際、蛭子を入れた船もこの天鳥船と伝えます。
松尾大社最大の祭りである松尾祭の四月二十二日に行われる神幸祭に際しては、この社に船渡御(ふなとぎょ)の安全を祈願するのだそうです。
そして「解穢(かいわい)の水」。
山から引かれた水は己の罪、穢れを除く(解く)とされます。
と、近くの幼稚園から子供たちがやってきました。
次から次へ、小さな訪問者たちはあっという間に境内を横切って木々の中に分け入り、遊び始めました。
小さな池で遊ぶ女の子。ひんやりして気持ちよさそうです。
なんの穢れもない無垢な子供たちが解穢の水の辺りで遊んでいます。
このお社で安産を祈願して生まれた子たちもいるかもしれません。
ひとしきり遊んだら、先生から集合の声がかかりました。
女の子はなかなか水遊びをやめようとしません…。
やっとみんなに合流しました。(笑)
やがて整列して子供たちは帰っていき、境内はまた静寂を取り戻しました。
月読神社は、もとは壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたといわれます。
「延喜式」に「葛野坐(かどのにます)月読神社…」と記されるように、古くから名神大社に列せられた全国屈指の名社でありました。
神寂びたたたずまい。千年の境域。
ここに感じるのはそういう空気だったのですね。
めずらしい、白の下野草(シモツケソウ)でしょうか。
清楚な花。ハート型に見えたりして…
額紫陽花も気品があります。
ここでは、見上げる空も、まわりの草木も、下草さえもが気高く思えるほどに澄んだ空気が流れています。
千年の時を超えて人々が祈りを捧げてきたところ。
ましてやその祈りが命にかかわるものならば、込められた願いはここに留まって長い長い月日を数えてきたのでしょう。
松尾の山懐に静かにたたずむ月読の社。
人々の祈りに満ちて鎮まるお社です。