瑞饋祭(ずいきまつり)

10月1日、京都の秋祭りの先がけともいわれる北野天満宮の瑞饋祭(ずいきまつり)が始まりました。

境内は朝から華やいだ空気に包まれています。
本殿前の左近の梅・右近の松にちなんだ「梅鉾」と「松鉾」



行列を先導する猿田彦大神の「導山(みちびきやま)」も準備万端のようです。



1日の神幸祭、そして4日の還幸祭には三基の御鳳輦を中心に、渡御列が氏子区域を練り歩きます。神幸祭の模様をご紹介します。

美しい髪飾りの八乙女さんやお稚児さん。かわいらしくきりりとした表情です。


いよいよ行列が出発しました。
獅子、太鼓、御榊に続いて「導山」「梅鉾」「松鉾」も見えました。

平安時代、一条天皇が初めて勅祭として「北野祭」を斎行、室町時代に戦乱のため途絶えましたが、瑞饋祭のこの行列はその盛儀を今に伝えています。


秋の彩りいっぱいの花傘。

八乙女さんたちも出発です !(^^)!

第一鳳輦(ほうれん)には主祭神の菅原道真公、第二鳳輦の葱華輦(そうかれん)には道真の御嫡男、第三鳳輦には大御前(奥方)が乗っておられます。




沿道の様子から抜粋して。





北野天満宮では、令和9年に「菅公千百二十五年 半萬燈祭」をひかえ、「北野祭」の再興に向けて復興が進んでいるそうです。

さて、祭列が到着する御旅所の様子はどうでしょうか?

 

瑞饋祭② ずいき神輿

渡御列が到着する御旅所では、二基の「瑞饋神輿(みこし)」が奉安されていました。
これこれ!
楽しみなんですね~これを見るのが 😊


瑞饋神輿──
平安時代、菅原道真公が大宰府で自ら刻んだ木像を、西之京神人(にしのきょうじにん)が京都に持ち帰って祀り、秋の収穫物を供えたことに始まると伝わります。
室町時代になり、応仁の乱で北野祭の神輿渡御が断絶。そのため西之京神人は大きな一台の神饌にしてお供えをするようになり、やがてそれが年々立派に飾られ、大きな槽(おけ)に載せ、二本の棒で荷って献上するようになったのだそうです。

神輿の屋根はすべて「ずいき(里芋の茎)」で葺かれ、飾りも稲わらや草花や野菜などでつくられています。



本来の伝統的なつくり方に加え、ことしの話題やテーマが沢山盛り込まれています。


「浦島太郎」に「アオサギ」
スタジオジブリの「君たちはどう生きるか」に登場。

「A・R・E」もあります!



「五山の送り火」はとうがらしで!

「リトルマーメイド」、下は「鎌いたち」



ひょうたんにトウモロコシのマーメイド、ほおづきのクラゲも。

前日の作業中の写真。

上が赤ずいき(唐の芋)、下が白ずいき(真芋)で葺かれています。

「風神雷神」に、ポケモン「ニャオス」


「雷神」はほおずきで赤を。
「ニャオス」はずいきの葉っぱととうもろこしの皮。カワイイ(笑)

鳥居など社殿には麦わら細工がふんだんに使われています。麦わら細工は何年かごとに作り直されますが、精巧な模様やデザインは友禅の型彫師が担当されているそうです。細工は収穫された麦でつくります。

瑞饋みこしは「西之京瑞饋神輿保存会」の方たちが日々準備を重ねてこられた成果。
毎夜のように会所で作業されることを「夜なべ」と呼ばれているそうですが、その様子や、祭の前日に組み立てられる過程を、ことし初めて見学させていただきました。手間のいる細かな仕事に驚きました。


上は稲わらを選別したり、「梅鉢」という飾りをつくられているところ。
下は「真紅(しんく)」という神輿の柱で、「千日紅(せんにちこう)」の花を糸に通し、柱に張り付けていくところ。大小の神輿で8本分の花が必要です。1万個ともいわれますが、神輿づくりは、毎年9月1日に、この千日紅を摘むところから始まるのだそうです。


梅鉢」の房はみかん(柚子)と稲。立派な梅鉢ですね! 大きな丸い形はナスに見立てたお飾りです。

梅鉢は、前日にまず神輿の千木に掛けられていました。


「天満宮」の文字は白い千日紅が使われます。


「ようらく」は赤なすや五色とうがらしなど。
きれい、宝石のようですね!

材料の稲わらや千日紅、そしてずいきはもちろん会員さんの農家で栽培されて収穫されたもの。一貫して自給自足の手づくり。一つ一つの作業は地味ですが、奥が深いもので、とてもブログではお伝えすることができません。

瑞饋祭や北野祭については、いつかの講座でお話させていただきます !(^^)!

二基のお神輿のまわりは大人も子供も笑顔、笑顔。たのしそうな歓声があがっていました。
保存会の方々もそんな様子を見て、安堵し喜んでおられると思います。



 

 

初夏の庭 曼殊院から詩仙堂へ

はやくも梅雨入りとなったようですが、まだまだ新緑が美しいですね。
左京区一乗寺の曼殊院では、宸殿が150年ぶりに再建されたことを記念して、6月30日まで「秘仏国宝黄不動明王像」の特別公開が行われています。

曼殊院がこの地で現在の姿を整えたのは明暦2年(1656)、29世門主の良尚(りょうしょう)法親王の頃。
良尚法親王は、桂離宮を造営した八条宮智仁(としひと)親王の第二皇子で、天台座主を務め、また茶道、華道、和歌など諸芸に通じた教養人でありました。

大書院から小書院へつづく枯山水庭園。

縁側の庇は深く、庭との一体感を感じさせます。向こうに見える鶴島の五葉の松は樹齢およそ400年。なんとも個性的な松です。
庇の長い軒桁(のきげた)を先日の北山杉講座でご紹介しました。

小書院前には亀島が配され、


縁先の欄干は舟縁をイメージし、此岸から彼岸へわたる船の趣。下は角度を変えて見ています。


 ふくろうの手水鉢

さらに小書院の「富士の間」から右手を眺めると、山の風景。


右奥の山から流れる水が石橋をくぐり、水分石(みずわけいし)で川が二分され、大海へと流れ込む様子を表わしています。

庭から目を転じると「黄昏の間」の床には「曼殊院棚」。「富士の間」との境の菊透かしの欄間も必見です。小さな桂離宮と言われる所以です。

大書院からつながる廊下も、新しい「宸殿」も清々しく、心静かに「黄不動明王像」を拝観させていただけます。

曼殊院は、1872年(明治5)に療病院(現・京都府立医科大学附属病院)の建設に際し、支援のために宸殿を売却し、寄付されたのだそうです。この度は、その歴史を知った支援者はじめ多くの人の寄付によって新しい宸殿が建てられたそうです。

宸殿前庭は、書院の庭とは打って変わって静かな白砂の庭。

下は流木に見立てた「貴船岩」。大海に住み、百年に一度、息継ぎのために海面に頭をだすという亀にたとえられています。

さて、ほど近くの詩仙堂へ。
このあたりはほかにも金福寺や圓光寺があり、一緒に散策したい所です。



詩仙堂は、江戸時代の文人、石川丈山が1641年(寛永18)、59歳のときに造営、晩年をすごした山荘で、現在は曹洞宗の寺院。サツキの刈込が見事です。


「詩仙の間」の四方に、狩野探幽(1602~74)が描いた中国の詩家36人の肖像画があり、各詩人の肖像画の頭上に、丈山が隷書体で記した漢詩が書かれています。この「詩仙の間」を中心としていることから「詩仙堂」と呼ばれます。

狩野探幽という画家は、二条城や御所や桂離宮、曼殊院、大徳寺、そしてここ詩仙堂でも…多くのところで、自在に描いているのですね。

詩仙堂は「凹凸窠(おうとつか)」とも呼ばれるだけあって、山の斜面に沿って作られていて、ここからでは庭の全貌はわかりません。
 サツキの刈り込みの奥の石段を降ります。

石段脇にはさまざまな草花。

降りると池があり、この池にも多種の花木が 咲いていました !(^^)!

アヤメ、京鹿の子、ほか名前がわかりません。



水の流れる音は絶えず、丈山が考案したといわれる添水(そうず)=ししおどしも響きます…。

先の景色が見渡せないのもどこかと同じですね。ワクワク感です。さらに下へ。


ここは山の趣、緑いっぱいです。白いのはガクアジサイですね。
さらに流れを渡ると、5月23日の命日にちなんで、三日間のみの丈山の遺宝展が開かれていました。

みなさん熱心に見学され、ここにも静かでゆっくりした時間が流れていました。

しばらく不順な天候が続きそうです。
どうかくれぐれもご自愛ください。

近衞の糸桜

おだやかな春の季節になりました。
ことしの桜は早く、お彼岸を迎える頃から各地で開花情報が聞かれました。
京都御所の近衞邸跡の枝垂桜も満開を迎えています。

近衞の糸桜──
このあたりは五摂家の一つ、公家の近衞家の邸があった所で、その庭に植えられていた約60本の枝垂桜(糸桜)が次々に咲いていきます。

桜に言葉はいりませんね。
写真はいまいちですが、今日の撮りたてに免じてしばしご覧ください。


小ぶりのやさし気な花。
かの先生もこの桜が大好きだったようです。

池のほとりの老木も風格です。

池と桜が画面に入りきりません <(_ _)>

近衞の池にゆれる糸桜。風に吹かれて、もう揃っていない花びらも。

すこし北側の近衞邸跡の駒札には、孝明天皇の和歌が書かれています。

初めてこの糸桜をご覧になって詠まれた歌。

「昔より名には聞けども今日見れば むべめ(目)かれせぬ糸桜かな」

目かれせぬ、とは、目が離せないほど美しい、という意味だそうです。

池の奥には苔むして風雅な石橋や鬱蒼とした木々が見えます。
近衞池は安土桃山時代の石組ものこる歴史的な庭園の遺構。

桜のまわりとは打って変わって人けのないこの静かな池畔もまた心やすまる風景です。

聖護院の節分会

ことしは、各地とも賑やかに節分行事が行われましたね。
修験道の寺として知られる左京区の聖護院(しょうごいん)門跡では、節分の三日、山伏追儺式(やまぶしついなしき)や採燈大護摩供(さいとうおおごまく)などが行われました。




聖護院門跡

寛治4年(1090)、白河上皇の護持僧であった増誉(ぞうよ)大僧正により開創。上皇の熊野御幸の先達(案内役)を勤めた功績により、「聖体護持」より二文字をとった「聖護院」という寺を賜ったのが始まりで、最盛期には二万余の末寺をかかえる一大修験集団となりました。
聖護院には後白河天皇の皇子、静恵法親王が入寺したのをはじめ、明治になるまで天皇家や摂関家の方が相次いで入寺しています。

境内は、参拝してお加持をしてもらう人、無料接待の甘酒をいただく人などで賑わっています。

鈴懸(すずかけ)の衣に結袈裟(ゆいげさ)を掛けた山伏の装束。
梵天(ぼんてん)は前に4つ、後ろに2つで「六波羅蜜」を表わします。「六波羅蜜」は彼岸(ひがん)に至るための六つの修行徳目だそう。梵天の色は赤や緑、紫色など多種で、赤色は最も長い経験を積まれた色と伺いました。


お加持の錫杖(しゃくじょう)も六輪の輪でした。同じく「六波羅蜜」を示しています。

修験道

古来「山には神々が宿る」と考えられ、山をご神体として崇拝してきた「山岳信仰」に、仏教や道教が結びつき生まれた日本独特の宗教。

約1400年前の役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖と仰ぎ、神仏そのものである山を歩き、礼拝し、滝に打たれるといった修行で得た験力を使い、加持祈祷などを行うのが修験者。
山に伏し野に伏すゆえ「山伏」とも呼ばれてきました。


宸殿前の庭には護摩壇がしつらえられ、準備が進んでいました。護摩壇は青々とした檜葉で覆われています。

いよいよ開始時刻。




「山伏問答」で、たしかに聖護院の山伏と証明され、結界の中に入られます。力強く法螺貝を鳴らし入場。

聖護院の厄除開運採燈大護摩供では、「法弓(ほうきゅう)の儀」・「法剣の儀」・「法斧(ほうふ)の儀」が行われます。


法弓の儀 弓矢を東西南北と鬼門、護摩壇に向かって放ち邪気を祓う。

法剣の儀 剣で魔を断ち切り、護摩壇を清める。

法斧の儀 斧で木を切り出し護摩壇をつくる様子を表わす。

門主が願文を奏上されます。

いよいよ松明が灯されます。山伏の方々の読経が響きます。


瞬く間に白い煙が上りました。



参列者も皆、真っ白な煙のなかに包み込まれていきます。

この煙が穢れを祓い、身を清め、私たちをあるべき方向に導いてくれるのですね。
太鼓の音。最多角(いらたか)念珠をすり合わせる音。真言を唱える声。



祈りが天に届きますように。


供養の閼伽(あか)水をさかんに護摩壇に掛けておられます。火の勢いが増すと護摩壇が崩れてしまうので、煙が立ち上るように案配し、取り仕切る力量がいるそうです。


護摩木が投入されます。


皆の願いが届きますように。思いは同じ。

燃え盛る炎に見入るうち、やがて護摩供は無事終了しました。



法螺貝を鳴らし退出されていきます。



参列の方々も晴れ晴れとしたお顔で帰っていかれます。

先日は大雪に見舞われ、しばらく寒さの底のような京の町でしたが、節分の翌日は陽光ふりそそぐ立春となりました。

そして待ちに待った春本番へ。
暖かくなるまで、もう少しの辛抱です。