清遊ブログ  岡崎にて 六勝寺のことなど

今日は左京区岡崎にやってきました。
来月の節分案内の下見を兼ねて、細見美術館で展観中の「三井家と象彦漆器―華麗なる京蒔絵」展を見る目的もありました。
昨年には東京日本橋の三井記念美術館でこの展示をご覧になった方も多いのではないでしょうか。
三井家とその愛顧を受けて象彦が創り出した京蒔絵の数々は素晴らしく、近代京都の漆芸を見る絶好の機会といえそうです。


さて、細見美術館は東山二条から二条通りを東へ、ちょうど琵琶湖疏水と交差する北西角にあります。
屋上というのでしょうか、階上のお茶室の前からは辺り一帯が見渡せます。

二条通りを東に向かって眺めると、左手は京都会館。右手は手前から京都市勧業館、その向こうは京都府立図書館、そしてその向こうにわずかに市立美術館の屋根が見えます。
東山の連なりが屏風のように正面に見えています。
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岡崎と呼ばれるこの辺り一帯は、明治28年の内国勧業博覧会の敷地跡に整備されて以来、今や文化・芸術・音楽などの施設が集合した京都の文化的ゾーンとなっていますが、
もとは藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)の別業の地であったところです。
「白河」と呼ばれ、院政期において白河上皇の離宮・白河殿、得長寿院、またその東南は法勝寺を始め「勝」のついた6つの寺院・六勝寺などが建立された土地でありました。

堤先生からご教示を受けたことなどたどりつつお話をしてまいります。


六勝寺

平安時代末期、藤原師実(もろざね)からこの地を献上された白河天皇は法勝寺を創建。
そして堀河天皇御願の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、鳥羽天皇中宮待賢門院璋子(たまこ)の円勝寺など六つの寺院が次々に創建されました。


──見渡してみますと、
この二条通り=二条大路は平安京において京都のメインストリートでした。
二条大路は上京と下京を分ける分岐でもあり、内裏を中心とした公家の屋敷が並んでいたといいます。
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──南側のこの一角は六勝寺のうち、最後6番目に営まれた近衛天皇の御願になる延勝寺があった辺りです。
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近衛天皇(第76代天皇)──
鳥羽天皇の第九皇子で、美福門院得子との間に生まれ幼名を体仁(なりひと)。
父である鳥羽天皇に寵愛されていたため、鳥羽は崇徳天皇を譲位させ、代わって二歳の体仁を即位させたが、生来病弱で、15歳の時には失明の危機に陥り、退位の意思を摂政である藤原忠通に告げたが慰留、しかし17歳で崩御。
近衛天皇には子がなく、鳥羽法皇が没すると崇徳院(すとくいん)側と後白河天皇側が帝位を巡って対立し、これが保元の乱の原因となりました。
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──写真右端のほう、見えづらいですが、二条通りが東大路通りと交差するところ(東山二条)、その東大路通り西側は、平清盛の父、平忠盛が備前守のとき鳥羽院に得長寿院を造営寄進し、三十三間のお堂に千躰仏を奉ったところです。
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このことで忠盛は昇殿を許され殿上人となり、やがてそれを憎んだ公卿たちが闇討ちを企てます。有名な『平家物語』「殿上の闇討ち」のお話です。
清盛が後白河天皇に造営したのが今の蓮華王院(三十三間堂)ですが、清盛より早く忠盛が三十三間堂を建てていたのですね。
南北に細長いこの得長寿院は残念ながら元暦2年(1185)の地震で倒壊しました。


そして得長寿院の向こう、西側に白河院の院御所・白河殿の南殿、北方には白河北殿がありました。
この白河北殿はのちに保元の乱のさい、崇徳院側の拠点となってゆくのですが…。
地図でおおよその寺域を囲みましたので、ご覧ください。
お見づらい点ご容赦ください。

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──さて、もとに戻って、写真左手、北側は京都会館の屋根が見えていますが、そのまた北側には堀河天皇の御願になる尊勝寺がありました。
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現在の旧武徳殿や京都市武道センター、平安神宮の一部の敷地がそうです。
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旧武徳殿は、桓武天皇が武技を奨励するために東西に置いた武徳殿に由来し、
明治32年、平安建都千百年記念事業として建てられました。

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重要文化財。堂々たる建築ですね。
尊勝寺は法勝寺の次、二番目に建てられました。

──さて、それではいよいよ二条通りを東へ進んでみましょう。

勧業館を過ぎて、右手(南側)が京都府立図書館。
ここは崇徳天皇の御願になる成勝寺があったところ。
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            京都の産業の近代化に貢献したドイツ人、
ワグネルの記念碑が建っています。


六勝寺は結果的には衰退、廃寺となりますが、この崇徳院の成勝寺は最後まで残っていたそうです。

──神宮道をわたると右側は市立美術館。
ここは鳥羽天皇中宮待賢門院璋子の円勝寺があったところ。
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そして左側(北側)は岡崎公園グラウンド。
ここは鳥羽天皇の御願による最勝寺のあったところとされています。
向こうに平安神宮が見えています。
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夫婦の御願寺が一応、向かい合って建っていました…。


鳥羽天皇(第74代天皇)──
堀河天皇と藤原い(草冠+以)子との間に生まれる。
生後まもなく母・い子が没し、祖父である白河天皇に引き取られ養育された。
父である堀河天皇崩御後、五歳で即位したが、政務は白河法皇が院政を行った。
白河天皇の養女である待賢門院璋子を中宮とし、璋子との間に出来た第一皇子・顕仁親王に譲位した。これが第75代崇徳天皇。
しかし、崇徳は実際には白河天皇と璋子との間にできた子で、鳥羽はそのことをうすうす知り、崇徳のことを「叔父子(おじご)」と呼んで疎んじた。
璋子は後宮のみならず朝政にも権力を持ったが、白河法皇没後後ろ盾を失い、鳥羽は退位後に入内させた藤原得子を寵愛し、得子は呪詛事件を理由に璋子の実権を奪い、美福門院として璋子に代わり絶大な権力を握ることになる。
鳥羽天皇は寵愛する得子との間に生まれた体仁(なりひと)親王を即位させるため崇徳天皇に譲位させた。これが第76代近衛天皇。

まさに不穏な様相を呈しています…。


法勝寺

──右手に動物園の看板が見えてきました。
しかし…二条大路はここで終わりです。
(今は道路が続いていますが。)
信号のあるところが突き当たり。
ここからが法勝寺です!


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これこそが平安末期に君臨し、院政を執り、その権力を誇った白河天皇の御願寺。
白河天皇が六勝寺のうち第1番目に創建した最初で最大の寺。
右手前方にはかの八角九重の塔がそびえ、威容を誇っていたことでしょう。

六勝寺の構想を仕組んだともいえる人物、白河天皇の法勝寺とはどんな寺だったのでしょう。

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                   法勝寺模型(京都アスニー)

南に回って、南大門を入ると池の中島の中央、真正面に高さ82メートルともいわれる八角九重の大塔がそびえ、
その向こうには金堂、講堂、薬師堂が南北一直線上に並び、西側に阿弥陀堂、その向こうに五大堂。北に法華堂があります。
金堂からは翼廊をめぐらし、経蔵と鐘楼につながり、前は南庭(だんてい)となっています。
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金堂の本尊は3丈2尺という毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。
講堂には釈迦如来像。阿弥陀堂に丈六の九体の阿弥陀如来像。五大堂には不動明王。

白河天皇の造仏は大きさ、種類、数において並はずれていたそうで、
法勝寺と尊勝寺の造仏を、のちに最勝寺となる白河仏所で行っていたのだそうです。

毘盧遮那仏を安置する金堂は奈良仏教を、五大堂は平安の密教を、阿弥陀堂は浄土信仰をうけついだもの。
法勝寺はそれまでの仏教を総合した寺ということになります。
のちに慈円が『愚管抄』で「国王の氏寺」と称したとおりです。


白河天皇(第71代天皇)──
後三条天皇の第一皇子。
白河天皇は中宮賢子を溺愛し、賢子が重態となっても慣例に反して宮中からの退出を許さず、没すると亡骸を抱いて号泣し、食事も摂らなかった。
そのため権中納言源俊明が天皇は死穢に触れてはいけないと進言すると、「(宮中の前)例はこれから始まる」と言い放った逸話は有名。
賢子は摂政藤原師実の養子。白河天皇が即位三年目に建立を始める法勝寺の地は先述のとおり師実から献上されたもの。
祇園女御という妾を寵愛。さらに祇園女御の妹も愛し、この妹はのちに平忠盛の妻となるが、すでに白河院の子を宿しており、これが清盛という通説が生まれた。

──法勝寺の寺域をどんどん進みます。
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白河院の看板が。
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ここは名前も白河院という宿泊施設ですが、この庭園が法勝寺の釣殿あたりになりそうです。
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法勝寺のみでも広大な寺域ということがよくわかりました。
六勝寺となるとほんとうにその規模の凄さに驚いてしまいます。


法勝寺の「法」とは仏の教え。現世のしがらみに勝って、来世の成仏を願う意ゆえ。
また、「法」は「水(サンズイ)」を「去る」の意。鴨川や白河の近くゆえに、水害に遭わないようにと。


白河の地は平安末期に君臨した白河院が、みずからの後生と一族の菩提を弔い、また皇統の弥栄を願ってつくったまさに宗教王国、仏国土でありました。
内裏では政治に現世への執着を、白河の地では仏に来世への願いをこめ、鴨川を挟んで洛中と洛外、西と東に白河院の政治的、宗教的…野望、おん念が渦巻いていたといえましょうか。


昼と夜の両方で政治を牛耳ろうとした白河院が、自らが集めた権力と財力の限りを使って、自分の、そして自分たちの一族のためだけの来世での繁栄を願って建てたこの仏国土は、やがてはそのあまりにもさもしい心根のために一炊の夢と消えたのです。

そして、まもなく襲ってくる時代…
戦乱の都

保元元年(1156)、京都を戦乱の渦に巻き込んだ「保元の乱」、それに続く「平治の乱」、時代は「武者の世」へと変貌してゆきます。

崇徳天皇(第75代天皇)──
鳥羽天皇と待賢門院璋子との間に生まれた鳥羽天皇の第一皇子。実際には白河天皇と璋子との間に生まれた子。
そのため父の鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、崇徳の次の天皇に鳥羽と美福門院得子との間に生まれた体仁親王(=近衛天皇)を立てることを強要。
自分の子供のままでは皇子・重仁を即位させることはできないと感じた崇徳天皇は重仁を得子のもとに養子にいれ、養育させる。
これで近衛の次の天皇は自分の子である重仁となると思っていた崇徳天皇であったが、近衛天皇が死去すると、宮中では崇徳天皇が藤原頼長と結んで近衛天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに不快感を示した鳥羽上皇は重仁の即位を取りやめ、崇徳の弟である雅仁(まさひと)親王を即位させた。これが後白河天皇。
この後白河天皇の即位、そして院政を敷くこともできなくなった崇徳院を強く恨ませ、保元の乱へと突き進んでいくことになります。


鳥羽上皇が亡くなるや、この皇位継承争いは摂関家内部の争いを巻き込んで、武士の手を借り、白河北殿に立てこもる崇徳側と高松殿を陣所とする後白河側との戦いとなりました。
鴨川を挟んで、京の市街ははじめて戦さに巻き込まれたのです。
勝負は後白河側の勝利。
崇徳は讃岐に流され、かの地で亡くなります。

みずから舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」としたためた話は崇徳院が怨霊と化してゆく話として知られています。
以後、恨みをのんで亡くなった崇徳院は怨霊と怖れられ、明治天皇は1868年に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、その御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建しました。
そしてようやく明治と改元されたのでした。

後白河天皇の御所・高松殿跡は中京区姉小路釜座東入ル。
いま高松神明神社としてその名を伝えています。

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崇徳院の立てこもったという白河北殿跡は石碑が寂しく建っているのみです。
京都大学医学部付属病院の南側に位置します。
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この一角はずいぶん以前からこのように空地のような寂しいところです。黙して語らずのごとく…。
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おわりに


このブログを書くにあたり、堤先生からさまざまのご教示をいただきましたが、最後に先生のおっしゃったことが響きます。


「どんなに立派な建物であっても、私利私欲の気持ちが入って建てられた建物は今残っていません。自然にしろ、火災にしろ、破却されたにしろすべて失せてしまっています。しかし、私利私欲がなく万民のために建てられたものは残り、その役割を伝えてくれている」と。


このブログでお伝えした往時の建物は今は何一つ残っていません。
その地を歩き、その地が語ってくれる、その声を聴きとるしか過去の歴史を偲ぶことはできません。

明治28年、平安建都千百年を記念して、この地に京都の精神的支柱というべき平安神宮が創建され、さらに武徳殿、図書館、美術館などが次々に建てられました。
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まさに万民のために建てられ、近代の文武両道を目指した施設の数々。これらは必ずや後世に引き継がれていくのでしょう。


武徳殿の正門東側の植え込みに鈴鹿野風呂の句碑があります。

 風薫る左文右武の学舎跡


この白河の歴史もまたこの地が語る声を聴いていただけたなら幸いです。

 

謹賀新年

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新年明けまして
おめでとうございます

平成二十四年 壬辰年の始まりです。
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「龍」一字

皆様、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

昨年は未曾有の大災害に堤講師の大病と、
まさに逆風の一年となりました。
被災者の方々はまだ
言語に絶する困難と直面しておられますし
堤講師もまだ次の手術を控えています。

新玉の年の初めとはいえ、胸のうちは

深草の野辺の桜し心あらば
今年ばかりは墨染めに咲け 
上野岑雄


という歌の心境ではあります。

しかし、こんなときだからこそ下を向かず
前を向いて歩いて参りたいと思います。
その意味を込めて冒頭に
ある方の、茶碗と龍の大字
の写真を掲載しました。
この豊かな彩りに満ちた作品と
躍動感溢れる書を
是非心の隅にお留め頂ければ幸いです。

むかし見し救世観音のほほ笑みを
年の初めにかへりみまつる
 吉井勇
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救世観音(資料画像)

京都・清遊の会では、昨年活動を休止した分を取り返すべく
本年は精力的に催しを行っていきたいと思っています。

状況次第ではありますが、
本年は今月七日の堤講師の特別講座を皮切りに
中断していた世界遺産講座は三月から再開予定、
五月には大河ドラマにちなんで
清盛と中世芸能の世界

をテーマに堤講師と井上講師の対談と
井上講師による白拍子舞
さらには吉例の季節の和菓子講座も企画しています。

どうぞ、皆様には倍旧のご支援を賜り、一人でも多くの方が
ご参加下さいますよう、心よりお願い申し上げます。
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京都岡崎・須賀神社 手水鉢の龍

北野天満宮 連句の会など

いよいよ秋も深まってまいりました。

去る1029日、天神さんで知られる北野天満宮で国民文化祭2011・連句の祭典が催されました。

京都・清遊の会講師の井上由理子さんが「正式俳諧と白拍子舞のコラボ」に舞を披露されましたので、その模様をすこしご紹介いたします。
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北野天満宮は連歌と深いつながりがあるのだそうですが、当日は晴天に恵まれ、開催の挨拶に続いて正式俳諧(しょうしきはいかい)が神楽殿で奉納されました。
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掛物は「南無天満大自在天神」
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天満天神は菅原道真のこと。 それに融通無碍を意味する大自在が加わったのが天満大自在天神。それに南無する。つまりすべてを委ねて帰依する。
今日の場合は、わが国の文芸の神様である菅原道真の力にあやかってこの連句の会を成功させましょう、という願いを込めた掛物です。  


北野天満宮の総門の扁額は「文道大祖風月本主」と書かれていますが、これは道真公が日本文芸の守護神であることを意味し、後世ここで北野連歌や連句の会が開かれたのはすべて道真の力にあやかってのことだそうです。

なるほど!扁額をしっかり見ておかなくては。

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その連句の神様に献花が行われました。
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連歌の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、和歌の上の句
(五・七・五)と下の句(七・七)を多数の人々が交互に詠み継いでいくものですが、連句は「俳諧の連歌」ともいい、連歌よりくだけたものです。

江戸時代中期以降、それまでの連歌に、風刺や諧謔味を取り入れた俳諧の連歌が盛んになり、百句を詠み継いでいくものから三十六句を詠み継いでいくものへと変化していったそうです。


正式俳諧の配役…正面向かって右から、宗匠、執筆
(しゅひつ)、脇宗匠がおられます。

左右に連衆(れんじゅう)や貴賓(きひん)が着座され、楽師が龍笛を奏され、座の文芸のはじまりです。
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懐紙を綴じる水引をしごく作法などいろいろあるのですね。
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細かな決まりごとがたくさんあって今日は初めて尽くしの見学です。

三十六句のうち、すでに三十句まで作られていて、今日は会場で残り六句を作ります。
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観客の方々からも付け句を募ります。熱心に作っておられる方も…。
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句ができたら「ツケ!」と声をあげ、短冊に記し提出し、吟味ののち良しとみなされれば採用されます。
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三十四句まですんだところで、巫女が玉串を宗匠に手渡します。花の句
(三十五句)の前という意味だそうです。

今日は白拍子の井上由理子さんが務められました。
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最後の三十六句目が挙句(あげく)
「挙句の果て」とはここからきた言葉だそうです。

三十五句、三十六句目は宗匠と執筆が詠まれます。

「ほのぼのと明るき闇の花篝 笙横笛の音色のどけし」

これで無事三十六句が巻き終わりました。


つづいて白拍子舞が奉納されました。

井上さんと二人の楽師の方は、今日の表六句(初めの六句)を歌と楽と舞で披露されました。

「連歌鎮め北野天神秋深し 梅ももみじに匂う有明……」
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いつ拝見してもその舞姿に見とれてしまいます。

澄みきった美しさとでもいうのでしょうか。
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いつの間にか神楽殿の前ではたくさんの人びとが足をとめ、皆さんが熱心に見入っておられました。


この日、北野天満宮は余香祭
(よこうさい)の日でもありました。

余香祭とは─

菅原道真公は右大臣の位にあった昌泰3(900年)9月、清涼殿において「重陽の宴」に召され詩を詠じ、その詩に感銘された醍醐天皇より着衣(おんぞ)を授けられました。

そして一年後、道真は配流地の大宰府で栄華の頃を追想し、「去年の今夜」にはじまる「重陽後一日」の詩篇を作りました。

大正81029(旧暦99)に、久しく絶えていた旧儀を余香祭と名付けて再興し、以後余香祭は毎年1029日に行われるようになったそうです。
当日のお供えには黄菊,白菊を飾り、斎主、祭員も小菊をかざして奉仕されるそうです。

  去年の今夜 清涼に侍す 秋思の 詩篇 独り腸を断つ

  恩賜の御衣 今 茲に在り 捧持して 毎日 余香を拝す

そういえば「北野天神縁起絵巻」には有名な「恩賜の御衣」の場面があります。現在のこの余香祭につながっているのですね。


またこの日は、連句の会によせて境内の明月舎で掛釜がありました。
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床には裏千家十世認得斎筆連句画賛が掛かっていました。お仲間が集い、連句の会を催された様子がうかがえます。

チベット製の扁壺(へんこ)を花入に、嵯峨菊とつるうめもどきが生けられています。香合は夕顔で菊の置上。
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主茶碗は玉水焼。予楽院好みの茶器は菊と木賊の蒔絵であったように記憶しています。

大切なお茶杓については教えていただいたのに帰ってくるともう忘れてしまって残念でした…。

夕方近くなった静かな茶席で、至福の一服をいただきました。
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井上由理子さんは「白拍子」を舞、歌、語りで表現されていますが、いずれ清遊の会でも披露していただきたいと思います。

和菓子の世界に、古典芸能にとマルチな才能を発揮されている井上さんには教えていただきたいことがたくさんあります。

来る123日には「京都顔見世講座」で南座のお話や今年の顔見世の楽しみ方について解説していただきますので、そちらもどうぞお楽しみになさってください。
それではまた。


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              秋明菊 妙覚寺にて

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紫野で

毎月朔日に氏神の玄武神社にお参りをします。

玄武神社は北区紫野雲林院町、大徳寺の南東にある小さな神社。

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まだ残暑の時期、町なかでは草花はみられませんが、ここはいつも丹精されていて、この日も凌霄花や虎の尾など夏から秋への花が咲いていました。
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今日はこの玄武神社からお話をさせていただこうと思います。

玄武神社の御祭神は惟喬(これたか)親王。別名、惟喬の社と呼ばれてきました。

玄武神社は、文徳天皇(55)の第一皇子でありながら不遇な生涯を送られた親王の御霊を慰めるため、末裔の星野茂光が親王の外祖父、紀名虎(きのなとら)所蔵の親王寵愛の剣を御霊代とし、併せて王城北方の鎮護を願い祀ったのが起こりとされています。


町の中の小さな神社ではありますが、社名の玄武は青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつ。

亀に蛇が巻きついた形で表わされ、玄武神社は一名「亀の宮」とも言われたそうです。
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摂社の三輪明神と玄武稲荷明神にもお参りします。

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あらためて境内から外を見ると、すぐ向かい側にはもう今宮神社のお旅所があり、向こうに船岡山が見えています。
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神社を出て歩いてみましょう。
通りに出ると船岡山に向かう道路は西へ、船岡山の建勲神社への参道となっていて、やがて鳥居に突き当ります。
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ここからはかなり急な階段を上って建勲神社に至ります。

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建勲神社は、秀吉が織田信長の廟所と定め祀って、のち大徳寺領となり、やがて明治になってその忠誠偉勲が追彰され神社となり現在に至っているのですが、
しかし、もともとここは船岡山の地の神「玄武大神」が祀られているところなのです。

現在も中腹に玄武大神を祀る「船岡妙見社」を見ることができます。
船岡妙見社 船岡玄武神社外観.jpeg船岡妙見社 船岡玄武神社外観.JPG
船岡妙見社 船岡玄武神社 本殿と拝殿.JPG
駒札には「今から千二百年の昔、平安建都に際し、風水が相される。船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の起点として平安京が造営された」と書かれています。


これこそが都の北を守る神としての鍵を握っているところだと、昨年、堤先生の現地案内で教わりました。

妙見は北極星を表わし、北を示すシンボル。

そしてこの社殿もそして玄武神社も南…都を向いています。都を守るために!


ちょっとゾクゾクしてきました…。

「船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられている」とあります。

船岡山の玄武大神と町のなかの玄武神社。後者は船岡山のこの妙見さんに登れないときにお参りするところだったのでしょうか。


さて、頂上まで登ると市内が一望できます。
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この眺め、南を望んでいます。本当に気持ちがいいです。

桓武天皇(50)自らがここで地割をおこなったと言われています。同じ地に立っていると思うとまた興奮します!ここが平安京の北の起点だったんですね!ここから朱雀大路が南に延びて…。


船岡山について

高さ112メートル、東西200メートル、南北100メートルの丘陵。

山頂には古代の祭祀跡と思われる盤座(いわくら)があります。
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山の東麓に六兵衛池という大池があり、山の東端が池中に突き出し海に浮かぶ大船のようであったところから船岡と呼ばれたそうです。


清少納言は『枕草子』で「岡は船岡、片岡…」と称賛し、のち円融天皇
(64)が譲位後、この山麓で「子の日の遊び」をされたことから大宮人が小松を引き、若菜を摘んで宴遊する行楽の地ともなりました。

しかし、後冷泉天皇(70)以降、多くの后妃がこの船岡周辺に埋葬されることが多くなり、船岡は葬送の地へと変わってゆきます。

中世になると戦略的要衝の地となり、応仁の乱で西軍の陣地が築かれたことは周知のとおりです。


そして紫野

この船岡山から大徳寺周辺一帯が「紫野」と呼ばれるところ。平安前期には天皇の遊猟地となり、桓武天皇が狩猟されて以来嵯峨天皇(52)、淳和天皇(53)も来遊されたと伝わります。船岡山で「子の日の遊び」がおこなわれてよりは紫野は和歌に詠まれ、歌枕の地として知られましたが、鎌倉時代に至り、大徳寺が創建されました。


ふたたび玄武神社へ

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玄武神社本殿の後ろ、北側に建物が見えていますが、このマンションが建設される際、発掘調査がおこなわれました。
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2000年ですからまだ記憶に新しいところです。
発掘調査で、「雲林院」跡の苑池や建物跡、井戸跡が発見されました。


雲林院とは?

いまは小さな堂宇となり大徳寺の境外塔頭となっていますが、
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雲林院は淳和天皇が紫野に造営された離宮「紫野院」のあとを寺院として継いだところ。

淳和天皇はしばしばこの紫野院に行幸し、釣台に御して遊魚をご覧になったり文人に詩を賦さしめたりして遊宴されたと記録にあります。
やがて仁明天皇(54)の第七皇子、常康親王に伝領されましたが、
親王は即位できず出家、僧正遍照によって寺院となり、雲林院と称したそうです。

僧正遍照は惟喬親王をとりまく六歌仙のひとり。惟喬親王の寵臣でした。「あまつかぜ雲のかよいぢ吹とじよ…」の和歌で知られていますね。

常康親王から雲林院を託された遍照は、境内の鎮守であった玄武大神を祀る社に惟喬親王を合祀し、生涯、親王への追慕に生きました。常康親王惟喬親王の母はともに紀名虎の娘、つまり従兄弟であり叔父甥の間柄でした。そして母が藤原氏ではなく紀氏の出であったがゆえに即位できなかった失意の親王たちなのです。


雲林院の木のかげに、たたずみてよめる

  侘び人の別きて立ちよる木の下は

  頼む陰なく紅葉散りけり   僧正遍照


雲林院は千手観音を本尊とした本堂をはじめ多くの堂舎が建てられ、さまざまの法会が催され、なかでも寺内の念仏寺の菩提講は、極楽往生へ導く法華経の説教会として、今日の彼岸会のように多くの善男善女が参集したところと伝わります。

平安文学の一つ「大鏡」は、この菩提講で落ち合った旧知の老翁(大宅世継190歳と夏山繁樹180歳)が昔語りをするという趣向で記述されています。


雲林院はまた花の名所としても知られ、咲き誇る花の美しさは雲の林と称えられました。
王朝時代、歌人の諷詠地となり、謡曲「雲林院」の題材ともなった和歌文学の名所でありました。
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やすらい祭について

いま雲林院という町名としてのこっていますが、この雲林院地区、もと雲林院村のお祭りとして伝承されているのが玄武神社のやすらい祭。
玄武神社によりますと、康保二年
(965)の大水害のあと疫病が蔓延したため、玄武神社において祭りをおこなったのが京都の鎮花祭のはじめとされています。


当時、疫病が流行るのは恨みをのんで亡くなっていった人の怨霊の仕業と考えられ、霊を鎮めるための御霊会が催されました。紫野御霊会、船岡御霊会といった御霊会も知られています。


そして先に書きました常康親王も惟喬親王も即位できなかった無念の親王たちです。常康親王を慰める御霊会はやがて惟喬親王の霊を慰める御霊会になっていったようです。


玄武神社には背中に「雲」と染め抜いた素襖が伝世しており、雲林院の御霊会が玄武神社と今宮神社に引き継がれたのが現在のやすらい祭のようです。
そして北の御霊会はやすらい祭り、東の御霊会は祇園祭となってゆきます。


4月の第二日曜には玄武神社、今宮神社、川上大神宮でやすらい祭がおこなわれています。

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赤熊
(しゃぐま)をつけた鬼や小鬼が鉦や太鼓を叩き、氏子地域を練り歩きます。

玄武神社は「玄武やすらい花」と呼ばれ、風流傘に入ると一年間無病息災で過ごせると言われ、行列が来るとみな競って傘の下に入ります。
「富草の 花や とみよせば なまえ 御倉の 山に 余るまで なまえ……」


最後に…やすらい祭が京都三大奇祭のひとつとされているのはなぜなのでしょうか?

祭りは本来神社のもの。それが雲林院という寺院に端を発することが「奇」なることだ!と…講座で先生から教わりました。


いつの間にかとんだ長話になってしまいました。

ここはめったに観光客が訪れることもなく、地域の氏神さまとして尊崇されている神社です。

でもこんな歴史を秘めているなんて驚きですね。

玉垣のそばに色づき始めた紫式部を見つけました。
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そういえばこの近くに式部のお墓もあるのです。小野篁も並んで…。

紫の縁からこの地にあるのでしょうか?

そのお話はいずれまた─。

なにより来月は紫の実がたくさん見られそうです。

地蔵盆に

朝夕にすこし涼しさを感じるようになる頃、暦では処暑の頃にあたるでしょうか、地蔵盆がおこなわれます。

関西では広くおこなわれているようですが、最も盛んなのは京都かもしれません。京都ではポピュラーな夏の年中行事です。


地蔵盆は子供たちのためのお祭り。

地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日(毎月24)の、お盆の期間である旧暦724日の前日(宵縁日)を中心とした三日間を言い、823日前後におこなわれるところが多いようです。

地蔵菩薩は自ら出向いて地獄の責め苦から人々を救ってくれる有難い仏さまですが、

親より先に亡くなった子供が賽の河原で苦しんでいるのを救うという伝説から中世以降、子供の守り神として信仰されるようになりました。

そして町内に祀られたお地蔵さまが祠から出て子供たちと過ごす?のが地蔵盆。

地蔵盆を「お地蔵さん」と呼び、昔はたいてい二日間おこなわれていました。

地蔵盆が近づくと、町内ではお地蔵さまを洗い清め、前垂れを着せ、お化粧を施して準備をします。
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子供の名前が書かれた提灯を飾り、大人たちは会場の設営にも大わらわとなります。

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当日はご詠歌の奉納や数珠回しの他に、おやつや福引き、金魚すくいなど楽しいプログラムが目白押し、お地蔵さんは子供たちの天国です。


子供の頃、地蔵盆はもう夏休みも残りわずかとなった、夏の最後の楽しみでした。

紫野の大徳寺の門前で育ちましたので、その地蔵盆の話を少し。


門前の町内では大徳寺の境内に地蔵盆が設けられていました。

この地蔵盆はちょっと他にはないような地蔵盆で、と言いますのは、当時、三門「金毛閣」の下が地蔵盆の会場となっていましたので。
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あの三門の下で、昼は数珠回しやスイカ割り、夜は六斎念仏に興じていました。

六斎念仏は「獅子と土蜘蛛」。蜘蛛の糸が投げられるのが見事でいつも見入っていました。

毎日お地蔵さんに入り浸り、ただもう遊ぶことに夢中の二日間。

三門の下で遊んでいたとはいま思うとなんと恐れ多いこと…。


そして大徳寺では現在も823日の夕刻に、山内の僧侶方や修行僧がお地蔵さまにお参りされます。

まず「千躰地蔵塚」に。
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列をつくり、読経しながら回り礼拝されます。

こんなに多くの僧侶方が揃われての行道は開山忌の時くらいしか見たことがありません。
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そしてつぎは、総門を入って正面の「平康頼之塔」の前に移動しての諷経
(ふぎん)

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平康頼とは、あの鹿ヶ谷の陰謀で鬼界が島に流された後白河上皇の寵臣。なぜそのお墓?がここにあるのかはさておき、よく見るとなかなか古びて趣のある仏さまです。

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そしていよいよ、いまは地蔵盆のお地蔵さまが祀られていますお茶所でのお経。

ここはいつもは大黒天が祀られているのですが、地蔵盆には脇にお地蔵さまがお祀りされます。

赤ん坊を抱いた彩色も美しいお地蔵さま。

ふだんは拝むことができません。この地蔵盆の時だけです。
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このお地蔵さまはもと托鉢の僧が背負っていたもので、いつしか門前の者がお世話するようになったとか。

慈愛に満ちたこのお姿も来年まで拝むことができません。
よく目に焼きつけておきたいと思います。

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お経が終わる頃、日はすっかり暮れていました。

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暗くなった境内で町内の人たちだけが見守る、静かな地蔵盆の行事。
もう夏の終わりの気配がただよっています。