黒谷 栄摂院 紅葉の庭 

師走に入り、冷え込みが増してきました。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

先日、美しい紅葉に出会いました。
黒谷の金戒光明寺から真如堂への散策の道すがら。北門へ向かう参道沿い、真っ白い壁の向こうのあざやかな紅葉に魅かれました。



「栄摂院」とあります。
吸い込まれるように中へ。整然と手入れがされたアプローチ。色とりどりの楓。


中門を潜って、びっくり!
目の前に広がる景色に思わず立ち尽くしてしまいました。



苔むした石段の散紅葉。
山のような斜面の上には仏様。このお庭がいっそう崇高なものに感じられる所以です。



法要中の貼り紙のとおり、本堂からは読経の声が聞こえています。鳥のさえずり。朝の清浄な空気。こんな空間に誰もいません。もう夢見心地…。

中門を打ち返して見たり、

恐れるように、静かに静かに、とそっと歩きます。

ご志納入れがありましたが、参拝者まかせです。なんということ!

「栄摂院」(えいしょういん)は「黒谷さん」として知られる浄土宗大本山「金戒光明寺」の塔頭寺院。
1589年(天正17)、徳川家康の家臣・木俣守勝(きまたもりかつ 1555~1610)創建。木俣守勝は、三河の時代から家康に仕えたといい、晩年には彦根藩井伊家の家老を務めた武将で、楠木正成の嫡孫・楠木正勝の子孫であるとも伝わります。その守勝が、同郷の三河の松誉琴察を請じて創建したのが栄摂院で、本尊は阿弥陀如来。

奥に池があり、縁側から回り込んでみると、今度は紅葉と竹林が姿を現します。


先ほどの景色とはまたちがう趣。木々に風が渡り、サワサワ揺れるのも風雅です。
そして正面のお庭。


手前には池がありますが、書院前庭は白砂や刈込を巧みに配した枯山水庭園となっていて、九十九折れの石畳は奥へ奥へと誘われるよう。向こうに手入れをされている姿もありました。

紅葉と竹林の前に井戸がありました。

この井戸から引いた水は「黒谷明星水」と呼ばれ、黒谷八景のひとつに数えられたそうです。清水が湧き出し、空から明星が雨降って、菩薩様が現れたと。なんと美しい言い伝えでしょうか。


今日は、これから行く真如堂のお話をしたいと思っていたのですが、この不思議な美の世界に揺さぶられたのか、胸がいっぱいになってしまいました。

お庭は普段は非公開だそうですが、紅葉の時期のみ公開されるようです。
初めて知った栄摂院ですが、ここは、知る人ぞ知る紅葉の名所だったのかもしれません  !(^^)!

玄武神社 紫式部・小野篁 大森

9月に入りました。
日中の残暑は厳しいながらも、朝夕はしのぎやすくなりましたね。
いつのまにか陽ざしもやわらぎ、草木に花実がなり、どことなく秋の訪れが感じられるようになりました。

1日朝、北区にある玄武(げんんぶ)神社では宮司さんの姿がありました。地元の人たちが月参りに来られています。



芙蓉もよく咲いていました(^-^)

玄武神社は、ご存じのように、平安時代初期の文徳天皇第一皇子であった惟喬(これたか)親王(844~897)をお祀りし、別名惟喬社(これたかのやしろ)とも呼ばれています。
社名の玄武とは、青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつで、平安京の北にあることから北面の守護神として名付けられたものです。
(玄武神社HP)

10年前の2011年9月に、玄武神社から始まるブログ「紫野で」を書かせていただきました。
そしてブログの最後に、この近くに紫式部や小野篁(おののたかむら 802~853)のお墓もあるのです…と書いておりました。当時は考えが及ばず、そのままになっていました。

紫式部と小野篁の墓所は玄武神社から約300メートル、まさに目と鼻の先にあります。


ムラサキシキブが実をつけていました (^-^)

右が小野篁卿、左が紫式部のお墓。

さて今年の5月に、惟喬親王終焉の地と伝わる「大森」の地を訪ねる機会が何度かありました。大森は同じく北区ですが、ここから約20キロ離れた小野郷(おのごう)にあり、北区の最北端、清滝川の源流となるところです。

北区のエリア別図

二つの図を照合していただくと、
小野郷は、旧大森村と旧小野村をあわせた地域で、
現在の中川(旧真弓村、旧杉坂村、旧中川村)とともに5つの旧村の地域を「北山杉の里」と呼んでいます。この北山杉の里を清滝川が流れ、やがて保津川に合流します。

下は惟喬親王を祀る安楽寺や供養塔のある大森東町のエリア。お見づらく恐縮ですが、すぐ東は雲ヶ畑の志明院、さらに東へいくと貴船、鞍馬。貴船神社の名が見えています。
大森へは、町中からは国道162号線沿いに進み、岩戸落葉神社で北上します。

小野郷の辺り一帯は名の通り、名族小野氏の活躍したところで、小野篁もこの地の出身、そして篁の子、長友(ながとも)は惟喬親王に仕えた従者のひとりという伝承があります。
長友が実在の人物で、惟喬親王に仕えたかどうか、確証はありませんが、大原においても、雲ヶ畑においても、この大森でも、小野氏の一族が惟喬親王に仕えていたことは確かなようです。

以前に堤先生にいただいたレジュメに、紫野の辺りに小野氏の語り部集団がいたという伝承があるとありました。先生は惟喬親王をお祀りする玄武神社の周辺に篁の墓所があることは小野氏を通して関連があると考えられていたと思われます。

紫野におられた頃の惟喬親王のまわりには、雲林院(うりいん)という寺院を中心に六歌仙と呼ばれる人々が仕えていたといいます。そのなかには小野小町も数えられています。

大森を訪ね、小野氏が勢力を張った小野の地について学び、ようやくたどり着いた歴史の関わりに、堤先生はとうに考察されていたのだと気づきました。

第一皇子でありながら、藤原氏の権勢のため天皇になれず、都の北方の地を点々とされた惟喬親王。
昼は朝廷に仕え、夜は冥府で閻魔(えんま)様に仕えたという小野篁。
ひと世代ほどの時代の隔たりはあるけれど、平安の有名人ベスト10に入りそうな?この二人が、大森・小野の地で、そしてこの紫野で、ともに名を残しています。
大森は、親王の伝説や足跡が残っていて、特別な何かを感じる土地でした。
親王が、都への想いをはせたというあの桟敷ヶ岳を望む地。

再び大森を訪ねたくなりました。
              惟喬親王を祀る安楽寺

              大森 桟敷ヶ岳を望む