清遊ブログ  清閑寺 小督のゆかりを訪ねて

今月の世界遺産講座は、清水寺。
先日の京都の講座では、「観音力」というスケールが大きく、とても興味深いお話を聴くことができました。
やはり人気ナンバーワンの名所だけあって、境内や清水近辺の賑わいは今も昔も変わらぬようです。
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ところで、境内の子安の塔から清閑寺(せいかんじ)につづく道があるのをごぞんじでしょうか。
「清閑寺」と矢印が示された標を見つけました。
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一瞬ある思い出がよぎり、どうしても清閑寺を訪ねてみたくなりました。
参詣の賑わいからはすっかり離れて、通る人もなく、静かな山路。
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15くらいも歩いたでしょうか。
(女性ひとりでは決して歩かないでくださいね。)

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「左 清閑寺、右 大津へ」。下は国道
1号線が走っています。
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高倉天皇陵、六条天皇陵参道の碑と清閑寺の標。

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さらに進むと、左手に高倉天皇陵とその上方の山手にあるのが六条天皇陵。

 


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後白河天皇の第一子が二条天皇。その子が六条天皇。皇統は第七十七代後白河天皇から二条─六条と続き、その後を継いだのが二条天皇の異母弟・高倉天皇でした。

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京都・清遊の会の事務局は衣笠の二条天皇陵のすぐそばにあり、いつも御陵を目にしていますから、この六条天皇と高倉天皇の御陵にもなにか縁を感じます。

先に見えているのが清閑寺の門。
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石段を上り、山門へ。向こうに見えるのは九条山。
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「歌の中山」は清閑寺の山号で、清閑寺から清水寺の間の山路をいいます。

「見るにだに まよふ心の はかなくて まことの道を いかでしるべき」
昔、清閑寺の僧が美しい人を見て愛しい心が起り、声を掛けると、女人はこの歌を詠んで姿を消したとか。


清閑寺山(歌の中山)は東山三十六峰のひとつに数えられ、花と紅葉の名所として知られたところ。

清閑寺の歴史は古く、延暦
11年(792)に紹継(じょうけい)法師の開基とされ、かつては清水寺と拮抗する大寺でありました。幾多の盛衰を経て、江戸時代に平等寺が兼帯し、現在に至ります。
真言宗智山派に属し、菅原道真自刻の梅樹十一面千手観音がご本尊として伝わります。

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門をくぐると、すぐ目に入るのが小督局(こごうのつぼね)の供養塔です。
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木陰の下、苔むした庭に。

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向かい側に九条山を望み、陽の射す周りの風景とは対照的に、境内は翳って静寂そのものです。

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小督の哀しい物語がこの清閑寺に伝わっています。

 


小督局は高倉天皇に寵愛された女性。
しかし天皇の中宮・徳子(建礼門院)の父は時の権力者、平清盛。清盛に疎まれた小督局は宮中から追放され、この清閑寺で尼にさせられました。
高倉天皇は深く心を痛められ、自分の亡きあとはこの清閑寺に葬ってほしいと遺言され、二十一歳の若さで亡くなったと。小督局もここで亡くなったといわれます。


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また「平家物語」では、次のような話が語られます。

小督は藤原通憲の子・桜町中納言藤原成範(しげのり)の娘で宮中第一の美人。しかも琴の名手。小督を見初めたのが冷泉大納言藤原隆房でした。
しかし隆房の恋人となっていた小督を高倉天皇が召し、小督は天皇の寵愛を受けるようになります。小督を天皇に奪われた隆房ですが、じつは隆房の正妻も清盛の娘でした。
清盛にしてみれば、小督は二人の娘婿を奪い、娘を悲しませた張本人。召し出して殺すことを決意します。
小督はそれを漏れ聞いて内裏を抜け出し行方知れずに。天皇は源仲国に命じ、小督を探させます。

八月十五夜、名月の嵯峨野を駈け、仲国が小督を探し当てるくだりは有名です。

「峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か楽か。……曲はなんぞとうかがえば、夫(つま)を想うて恋ふる名の想夫恋(そうふれん)なるぞ、嬉しき。」

 


小督は再び高倉帝の元に戻り、寵愛は以前にもまして強く、皇女が誕生。しかしそれを聞いた清盛の怒りは激しく、小督を捕えて出家させます。
小督二十三歳。嵯峨の辺りに住まいし、まもなく亡くなったといわれます。

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             小督の桜
じつは以前、小督局ゆかりの品を見たことがありました。

忘れもしない、平等寺(びょうどうじ)でのこと。


清閑寺の標を見て、とっさに清閑寺を訪ねたくなったのはそのときの光景が蘇ったからです。

何年前になるでしょうか、平等寺の縁日でした。平等寺は因幡薬師(いなばやくし)とも称し、松原通烏丸を東に入った、まさに京都の町の真ん中にあるお寺。
薬師如来の縁日が八日で、毎月八日にはこの因幡薬師で手作り市が開かれています。

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その日は香煙が立ち込めるなか、参拝の人や、手作り市の買い物客らで、境内は足の踏み場もないような賑わいを見せていました。

寺の他の行事とも重なり、その日はお寺の方もそれは忙しそうにされていました。

 


縁日には寺宝が公開されると聞いていましたので、尋ねてみました。すると門を入ってすぐのお蔵というか収蔵庫に案内されたのです。ここでした。なつかしい…。
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案内してくれたのは、なんと境内で焼きそばを焼いていたおじさん…。
その前掛けからはおいしそうな匂いがぷんぷんしていましたし、おじさんはまだ焼きかけの焼きそばが気になるようでしたが、お寺の方に頼まれて恥ずかしそうに中へ案内してくれました。
いいのかなあ、とおそるおそる後ろについて入りますと、なんだかすごい仏像やら美術品が並べられています。
そしておじさんは壁際にあるカセットデッキのスイッチをそっと押し、解説の音声を聴かせてくれました…。

 


そこで、初めて、この平等寺のご本尊で日本三如来のひとつ、「薬師如来」や、「如意輪観音」、清凉寺様式の「釈迦如来」を拝することができたのです。
その日は宝物館ではなく、たまたまこちらに展示されていたのでしょう。

今もあの焼きそばのおじさんなしに平等寺を思い出すことはできません(笑)
帰りに絵葉書を買うときもまたお寺の方ではなく、市で店を出していたおにいさんが応対してくれました。お寺と、商いする人との信頼関係には驚きましたが、昔は寺の行事には町の皆がお世話したものであったはず。
しかもここはもともと町堂といわれて人々が集ったところ。

取り澄ましたお寺の顔ではなく、いろんなものが綯い交ぜになったお寺の姿。京都という町が魅力的な町に思えたときでした。

 


さて、この出来事もそうですが、もっと驚いたのは寺宝の数々。

仏様のほかに見たものは─
小督局愛用と伝わる琴。そして蒔絵硯筥(すずりばこ)。
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さらに、小督が自らの髪の毛を織り込んで織られたと伝わる「光明真言」

それをみたときは息を呑みました。


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                (三点ともに平等寺 絵葉書より)

ガラス越しではなく、手が届くほど近くにあるのです。

髪の一本一本が確かに織り込まれているのがわかります。自分の髪を抜いて織るという想いの深さ。

 


高倉天皇との間には、のちに土御門天皇の准母となられた範子内親王も生まれていました。
おそらくそのわが子との別れもあったことでしょう。
凄絶ともいえる別離の感情がこの光明真言のなかに織り込まれている、そんな気がします。

 


この因幡堂平等寺は高倉天皇とのゆかりが深く、高倉天皇によって多くの堂舎が建てられ、因幡堂を平等寺と改めたのも高倉天皇だそうです。その縁から平等寺の住職が清閑寺の住職を兼ねるなど、清閑寺に伝えられたものがこの因幡堂に伝わる所以です。

平等寺を訪ねたこの日、いつか平等寺と縁の深い清閑寺を訪れることがあるだろうか、とふと思ったのでした。
話がずいぶん横道にそれてしまいました。

清閑寺の境内には要石(かなめいし)というのがあって、その前に立てば京都の町があたかも扇を開いたような角度で眺望できます。扇の要に当たることからこの名で呼ばれます。いい眺めです。
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昔は山科・大津方面からはこの寺に辿り着いて初めて京都が見えたようで、名所となっていたそうです。
そして、いつのころからかこの要石に誓いをたてると願いがかなうといわれるようになりました。

ここ清閑寺には、ほかにいくつもの歴史のできごとが刻まれています。

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幕末のころ、この上に、錦江湾に入水し果てた尊王攘夷派の僧侶で
清水寺成就院の住職・月照上人の隠棲の常居がありました。

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茶室「郭公亭」は西郷隆盛と都落ちの相談をしたところ。

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与謝野鉄幹の父で与謝野礼巌は妻を亡くした明治29年の冬、この寺に隠棲。
与謝野礼巌は「永観堂」の講座で、京都で初めて療病院を創ったうちの一人と教わりましたね。


鳥の声、風が渡り木の葉の擦れ合う音。自然の音が大きな響きにさえ感じられる境内です。

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山から眺める京都の景色もいいけれど…。


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帰り道。また御陵を通ります。

山手の御陵に葬られる六条天皇。
六条帝はわずか二歳で即位。在位三年で高倉天皇に皇位を譲り、元服を行うことなく十三歳で崩御。后もなく、子もなく。
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その下の高倉天皇の御陵のそばには小督局の墓塔があるといいます。意のままにならず短い生涯を終えた高倉天皇と小督局。静かに寄り添い眠っておられるのかもしれません。

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別離の哀しみを山ごと包みこみ、中腹にひっそりと建つ清閑寺。


またここへ来ることがあるのだろうか、とそんなことを思いながら、清水のほうへ歩き出しました。
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清遊ブログ  古事記の切手 木華開耶媛からはじまる…

秋涼の候。 朝夕は涼しくとも日中のきびしい残暑には参ってしまいますね。
夏から秋への移りかわりはまだまだ行きつ戻りつしているよう。
そんな時季、芙蓉がふんわり花を咲かせています。
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先日切手を買いに郵便局に行ったときのこと。

「古事記編纂1300年」の記念切手が発売されているのを初めて知りました。
7月に発売されていたというのに。

 


ごらんください。
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上の二点は「木華開耶媛(コノハナサクヤヒメ)」、そして「火退(ほそけ)」。
明治から昭和にかけて京都画壇で活躍した堂本印象(どうもといんしょう)の画。

 

そして下の二点は「伝 素戔嗚尊(スサノオノミコト)」「伝 稲田姫命(イナダヒメノミコト)」。
島根の八重垣神社本殿の板戸絵に描かれた神像です。
まず
木華開耶媛(木花開耶姫)─

木華開耶媛はオオヤマツミの娘。桜の花にたとえられるように美しさとはかなさを象徴する姫神。


この姿を見てもおおどかな美しさが表れています。

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アマテラスオオミカミの孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と結ばれ、ホデリノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)、ホスセリノミコト(海幸彦・ホデリを海幸とする説もあります)など三神を生んだとされます。
ホオリノミコトの子がウガヤフキアへズノミコト。その子がカムヤマトイワレヒコノミコト、すなわち神武天皇。木華開耶媛は神武天皇へとつながる皇室の祖先神です!

富士山のご神体としても崇敬され、各地の浅間(せんげん)神社の総本宮である富士本宮浅間大社にお祀りされているのがこの神様。

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木華開耶媛と瓊瓊杵尊の出会いは九州、薩摩半島の笠沙(かささ)。

木華開耶媛は「古事記」ではその名を神阿多都比売(カムアタツヒメ)。この「アタ」から九州、隼人族の阿多隼人の居たところと知れます。


薩摩半島と大隅半島に囲まれたあの「桜島」が、木華開耶媛をあらわす「桜」に由来するという説もあるのです。 なるほど!

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天皇と富士山と桜……。これってもしかしたら日本そのものじゃ?? 
木華開耶媛のことは、じつは知れば知るほど惹きつけられてゆく、ものすごい歴史の深みがあるのですが、今日はこの阿多の出身ということまでにとどめておくことにして―。

おおらかで美しい「木華開耶媛」は堂本印象美術館の所蔵です。
堂本印象について─
京都に生まれ、大学卒業後しばらく西陣織の図案を描いたのちに日本画を志して京都市立絵画専門学校に入学、戦後は社会風俗画の名手として知られ、画塾東丘社を主宰しましたが、六十歳を過ぎてから突然抽象画の世界に遊び、その華麗な転身は人を驚かせました。
しかし晩年に至って仏画に還り、数々の見事な神話や仏の世界を描き上げました。


堂本印象美術館は、印象自らが建築のデザインを手がけた美術館です。内部の装飾や置かれた椅子までも印象のデザインになるものが多く見られます。

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昭和41年に衣笠の地に建てられた当時、その斬新な建築はたいへんな注目を集めました。


いまは衣笠山を望むロケーションにぴったり溶け込んでいます。

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静かに印象の作品を鑑賞するのに素晴らしい環境ですから、いつか清遊の会で皆さまをご案内したいと思います。
ぜひ「木華開耶媛」が展示される折りに見に行きたいですね! おおらかな美しさにきっと圧倒されることでしょう。
おおらかといえば、先日東京に参りましたときに、浅草寺に行きました。
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浅草寺本堂外陣の天井画が印象筆でした!
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天井中央が川端龍子(かわばたりゅうし)の「龍之図」。その左右に印象の「天人之図」。
首が痛くなるほど見上げてその華やかさに見とれました。昭和31年の作だそうです。

包み込んでくれるような鮮やかな色彩の天人の姿は「木華開耶媛」に通じるように感じます。

 


浅草寺の境内からはスカイツリーが見えましたので日本の新しいシンボルとして、スカイツリーもこのブログに仲間入りさせておきましょう(笑)。

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下の二点は、スカイツリーに上って撮られた写真“スカイツリーと富士山と夕日”
A Tさんが投稿してくださいました。 壮観ですね!
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火退(ほそけ)は景行天皇の御子、ヤマトタケルノミコト(倭建命)を描いたもの。
宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵。

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ヤマトタケルノミコトは、父の命令で九州の熊襲を滅ぼしたのち、休む間もなく再び東国に遠征します。
その途中、焼津を訪れた際に、土地の豪族にだまされて野原に誘い出され周りから火を着けられます。困ったときに開けるよう叔母のヤマトヒメからもらった袋を開け、入っていた火打石を使い、とっさの判断で周囲の草をなぎ払い、「向かい火」を着けて難を逃れたと伝えられています。
その時に用いた剣が有名な草薙剣(くさなぎのつるぎ)なのでした。

雄々しい姿。日本神話の英雄ですね! 生き生きした姿で描かれています。

このヤマトタケルノミコトの子が仲哀天皇なのですね。奥さんは神功皇后。子は応神天皇。頭の中で神様がだんだんつながってきました。

 

そして「伝素戔嗚尊(すさのをのみこと)」「伝稲田姫命(いなだひめのみこと)」。
先日、京都国立博物館の「大出雲展」でお目にかかったばかりです。

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板戸絵にこんなに彩色が残っているなんてびっくりでした。室町時代と伝わり、この二神を描いたものとしては最古と言われているそうです。

切手でまた再会できたなんて…感激です!

頬にさした紅がなんともいえずいいですね。心なしかラブラブな感じが垣間見えたりして。

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大出雲展では古代の出雲大社復元模型が展示されていました。
階段の上方に点のような人形がみえるでしょうか。 巨大な神殿。
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出雲大社境内から出土の宇豆柱(うづばしら)。3本一組で神殿の1本の柱であったもの。
ガラスに神殿の階段が写ってしまって、見づらくてすみません。


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約1か月半にわたり開催された「大出雲展」。
10月からは東京国立博物館で「出雲展」が開催されます。

こちらは観覧料一般800円。京博では1300円だったのですよ!

大出雲展を見る幾日か前には、京都造形芸大の春秋座にて「隠岐(おき)神楽と石見(いわみ)神楽」を見る機会がありました。

石見神楽「八岐大蛇(やまたのおろち)」はスサノヲによる大蛇退治の話です。

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足名椎(あしなづち)と手名椎(てなづち)、そしてその娘の稲田姫を救うため、スサノヲは激闘の末、大蛇を討ち果たします。スサノヲが一頭一頭斬りかかり倒すわ、大蛇は火炎を吐くし、もう大迫力!

石見神楽の大蛇は、蛇腹ならぬ「蛇胴(じゃどう)」と呼ばれる、竹の輪に石州半紙を貼って作られるもの。この伸縮自在の「蛇胴」を巧みに繰って大蛇がとぐろを巻き、動きまわるのが最大の魅力です。
スサノヲが最後の一頭を無事倒し、大蛇の尾から得たのが天の叢雲の剣(あめのむらくものつるぎ)。
そして二人は目出度く結ばれます。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」

あこがれの出雲! この舞台となったかの地をぜひ訪れてみたい…。

記念切手を掌中にして出雲熱は再びよみがえってしまったのです。


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        季節はちがえど、やはり桜は日本人の心のふるさと。

 

清遊ブログ  重陽のころ 琥珀の菓子など

九月に入り、あざやかな百日紅ばかりが目立っていた町中にもようやく萩の花など咲き始めました。
秋の到来が待たれる頃。

七日は暦では白露。九日は重陽(ちょうよう)。そして十日は二百二十日。稲の開花期ゆえ台風に警戒する頃だそうです。

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  こんな案山子に会いました! 広沢の池近くで。


ただ暦ではすっかり秋でも、九月の京都ときたら! 今日も予想気温は35℃となっていました。

このような時季、遠方の友人に持参するのに、はて、お菓子はなににしようかと迷いました。いただきたいお菓子、差し上げたいお菓子は何でしょう?


夏の棹物はもはや晩夏の気分にそぐわず、お饅頭や羊羹を味わうにはまだ早すぎます。
思いついた、というより思い出したのは「琥珀(こはく)」のお菓子。


早速、永楽屋さんへ向かいました。


本店は四条河原町の目印ともなるくらいですので皆さまよくご存じと思います。

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永楽屋さんといえば、「一と口椎茸」の佃煮で有名ですが、辛いものと甘いものの両方を製造販売しているお店としても知られています。


今日は、室町通り蛸薬師にある室町店のほうへ伺いました。

こちらも大きなお店です。広い間口のひんやりした店内へ。

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ありました!(笑) 

琥珀のお菓子がいろいろ。「柚子(ゆず)」に「橙(だいだい)」。それから「重陽」も。
琥珀は、寒天を使った錦玉(きんぎょく)をクチナシや和三盆で琥珀色に染めたものをいうことが多いのですが、永楽屋さんの「琥珀」といえば、寒天と砂糖でつくられたお菓子のことをいいます。
これこれ。以前はこの「柚子」をよく手土産にしていました。

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柚子の皮が入っているのが透けてごらんいただけるでしょうか。
柚子は、こだわりの徳島県木頭(きとう)村の柚子。


一口噛むと、外のコーティングされた砂糖がパリンと割れて、中のやわらかな寒天と柚子とが口の中で溶け合います。
柚子のさわやかなほろ苦さ、やさしい甘味は暑さ疲れの体をいたわってくれるようです。

暑い時分には先に少し冷やしてからいただくと、よりさわやか。
それにこの宝石のようなお菓子のかわいらしさにも和みます。

「柚子」や「橙」のこの一番小さい12個入りは手のひらサイズ。

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お菓子そのものはもちろん、包装にいたるまで上品。
きっちり入っていますから持ち運びにとてもいいのです。

ほかに「柚子」に粉糖を掛けた「柚子こゞり」もあり、これは抹茶に合いそうでした。
下の「橙」はグレープフルーツ。ほろ苦さのほうが勝ります。
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「重陽」は抹茶、小豆、紫蘇の三種。

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菊花をかたどり、気品が感じられるお菓子。それぞれの風味が主張しすぎない控えめな味。

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まだ蒸し暑い京の時候にぴったりの半生菓子ですが、他にも「栗」が、さらに秋になると、林檎風味の「紅玉」もできる由。紅玉なら甘酸っぱい味なのでしょうか。

室町店の齋田さんにお話をうかがってみると、「琥珀」は、製造過程でひびが入ることなどが多く、商品として完成、販売にいたるまでに非常にご苦労されたそうです。
なるほど、まさに完成されたお菓子だと感じる所以です。
室町通りは車の往来もひっきりなしですが、一足踏み入れるとほっこりして、落ち着いた佇まいのお店でした。

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重陽のことをすこし─
重陽とは最も大きい陽の数が重なる日。すなわち陽の気が極まり強すぎて人に厄をもたらすため、災いを払う日として節句とされたといいます。
重陽の節句は宮中の年中行事(ねんじゅうぎょうじ)で、前日から菊に真綿を被せ、菊の香りと露を綿に移す「菊の着せ綿」が行われました。
菊の節句に邪気を払い、長寿を願って菊酒を飲み、菊を飾ったのですね。


現在、上賀茂神社では重陽の日、古式にのっとり、烏相撲が行われています。

上賀茂神社の御祭神は賀茂別雷大神(カモワケイカヅチノオオカミ)。
その昔、カモの神様が八咫烏(やたがらす)の姿となって神武天皇の東征を助けたとのいわれから、カモ社は烏と深いつながりを持って知られます。
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禰宜方(ねぎかた)が「かあかあ」と鳴き、祝方(ほうりかた)は「こうこう」と鳴き…こうした烏神事のあとに相撲童子の取り組みが始まります。


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相撲は子供たちが一生懸命で、見ている方も応援したくなるほど。
見物客も大勢で、勝ち負けが決まるごとにおおきな歓声があがります。


相撲の歴史をひもときますと─

建御雷神(タケミカヅチノカミ)と、父・大国主命の国譲りに異を唱えた建御名方神(タケミナカタノカミ)が対決した神々の相撲。建御雷神の圧勝で、負けた建御名方神は諏訪まで逃れ、諏訪大社に祀られたという話。


また野見宿禰(ノミノスクネ)と當麻蹶速(タイマノケハヤ)の人間同士の相撲も知られています。野見宿禰が勝ち、當麻蹶速を蹴殺(しゅうさつ)したと伝わります。前後のお話は堤先生から折に触れて講座でお聴きになったことと思います。

奈良・平安時代には「相撲節会(すまいのせちえ)」としての宮中の年中行事があり、力を奉納する神事でした。
さて、豆力士の取り組みが済むと、菊酒の振舞いがあります。

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美しい菊酒ですね。でも一杯だけです(笑)。

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さて、上賀茂神社を出て、賀茂川を向かいへ渡り、少し北に行きますと西賀茂になりますが、「霜月(そうげつ)」さんがあります。
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今の時季に作られている「琥珀」は二種。


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赤紫蘇を混ぜ込み、上に花紫蘇をあしらった「花紫蘇(はなしそ)」

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「柚子蓼(ゆずたで)」はまだ青い柚子を混ぜ込み、蓼をのせて天然塩をかけてあります。
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どちらもユニークな意匠で、どんな器に盛ろうかなど愉しみたくなります。
霜月さんは家族で営んでおられ、手作り感のあるお店でした。

来月はまた時季にかなった「琥珀」が登場するようです。

あと幾日で九月も中旬。夜になると虫の声も聞えてきます。
じきにお彼岸、名月…。また秋が一足近づいてくることでしょう。
それではまた。
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           妙顕寺の秋明菊(2011年秋)





清遊ブログ  磯良を訪ねて 安曇野への旅

早くも処暑となり、暦に暑の文字はなくなりますが…
皆様にはいかがおすごしでしょうか。


信州は安曇野にやってきました!

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龍神・安曇磯良(あづみのいそら)を訪ねて??

 


祇園祭は先月のことながらずいぶん日が経ったような気がしますが、
堤先生から山鉾のひとつ、船鉾のご神体人形のお話を聴いて以来、そのなかの安曇磯良のことが気になっていました。

 


祇園祭で船鉾の会所飾りは、龍神安曇磯良、鹿島明神、住吉明神、そして奥正面に神功皇后が飾られていました。

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前に座ると畏れおおいというか、独特の気配が感じられました。

 


そして山鉾巡行では、安曇磯良が皆を先導するかのように鉾の先頭に立っているのが見えました。
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龍神・安曇磯良とはいったい誰なのでしょうか?

そして4人のご神体はどのような関係なのでしょうか?

宵山講座、JYUGIAカルチャー京都の講座などでお話を聴かれた方もあると思いますが、すこし思い出してみましょう─

 


船鉾は神功皇后が三韓征伐に出かけてゆく出陣の船をあらわしています。

そのおり、神功皇后は無事に凱旋できるよう神々に祈願されました。
ですがただひとり安曇磯良は和布や貝殻のくっついた自分の姿を恥じて姿を見せません。
神功皇后は安曇磯良の持つ「あるもの」が無ければ出てゆくことができないので、安曇磯良を呼んでほしいと告げます。
そこで住吉明神が磯良の好きな楽を奏し安曇磯良を呼び出します。それが神楽歌「君が代(だい)」。
そして磯良は姿を現し神功皇后に二つの玉を捧げます。

「潮盈玉(しおみつたま)」と「潮干玉(しおひるたま)」といわれるもの。
海が荒れるときには「潮盈玉」を、凪いで風を起こしたいときには「潮干玉」を使って海水を自在に繰り、航海を安全に導くことができるのです。

まさに安曇磯良のご神体人形が手にしているものがそれです。

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そして神功皇后が神々を呼び出したのが、博多湾に浮かぶ志賀島。

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           海の中道からみた志賀島(穂高神社資料)

 

ここには志賀海(しかうみ)神社が祀られています。

ご祭神は、 底津綿津見神(ソコツワダツミノカミ)、仲津綿津見神(ナカツワダツミノカミ)、表津綿津見神(ウワツナカツミ)のワダツミ三神。


イザナギノミコトが黄泉の国から逃げ戻り、海に入って禊をしたときに生まれた六神のうちの三神。総称オオワダツミノカミ。


もうおわかりと思いますが、この御祭神のワダツミ三神…オオワダツミノカミが安曇磯良につながります。

安曇磯良とはオオワダツミノカミという説もあるのです。


「筑前国風土記」に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述があり、安曇(阿曇)氏の祖神である安曇磯良が舵取りを務めたとされています。

神功皇后は無事に凱旋を果たし、帰国するという結末。


志賀海神社の別名は龍の都。宮司さんは代々安曇氏なのだそうです…。

また、ここには安曇磯良が乗ってやってきたのが亀ということで亀石が奉納されているそうです。
龍と亀は安曇族を知る重要な鍵となるようです。


安曇一族は海を渡って九州の地に上陸してきた一族。ほかに薩摩一族、隼人一族、津守一族などがいました。

安曇一族は志賀島を拠点としていましたが、そこからさまざまなルートをたどって全国へ渡ってゆきました。


海から上陸したのが渥美半島。そして安曇野を経て穂高に達し、ここに鎮まった一族を祀ったのが穂高神社というわけです。

安曇野という地名は安曇磯良と関わりがあったのですね!

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                      (穂高神社資料)

この図を見ると、こんなに安曇族が全国に広がっていったのかと驚きます。
安曇磯良、神功皇后、住吉明神のつながりがだいぶわかってきました。

残るは鹿島明神ですが、これには鹿島の神使いの鹿によって志賀海神社との関係が知られます。
志賀海神社には1万本もの鹿の角がその名も鹿角堂(ろっかくどう)に奉納されているのだそうです。
鹿の角が角が英語でアントラーだと聞きましたよね。鹿島アントラーズ。

また、志賀島といえば、「漢の倭の奴の国王」の金印が出土されたところとして知られています。

安曇(阿曇)は「アマツミ」つまり「海人津見」の転訛だそうで、「ツミ」は綿津見神と同じで、「住み」の意味であるとか。


さていよいよ穂高神社です─


JR
大糸線「穂高」駅のすぐ近くにこの穂高神社本宮があります。
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そして上高地には奥宮(おくみや)が、奥穂高山頂に嶺宮(みねみや)が祀られています。

 

社伝によれば─
太古、穂高岳に天降(あまくだ)ったと伝えられる穂高見命(ホダカミノミコト)は、海神・綿津見神の御子神(みこがみ)で、海神の宗族として遠く北九州に栄え、信濃の開発に功を樹てた安曇族の祖神(おやがみ)として、ここ穂高の里に本宮を、穂高岳山頂に嶺宮、そしてその麓の明神池の畔(ほとり)に奥宮が奉斎されているのだそうです。

鳥居をくぐり、
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神楽殿、拝殿、本殿。 りっぱな社殿です。
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拝殿の妻飾りはなんと亀です!
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龍神・安曇磯良が亀に乗ってやってきたという話を彷彿させます。

中殿に穂高見命、左殿に綿津見神(ワダツミノカミ)、右殿に瓊瓊杵神(ニニギノカミ)、
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別殿に天照大神(アマテラスオオミカミ)が祀られています。

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境内には摂社がたくさんあります。
神社にどんな神様が祀られているかは重要なことだと先生がおっしゃっていました。
見てゆきましょう─

 


向かって右から─鹿島社(武甕槌命・タケミカヅチノミコト)、八幡社(誉田別尊・ホンダワケノミコト)、秋葉社(軻遇突知命・カグツチノミコト)、疫(やく)神社(素戔嗚尊・スサノオノミコト)。

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そして若宮には安曇比羅夫命(アヅミヒラフノミコト)、相殿に信濃中将が祀られています。

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狛犬の顔がユーモラスです!

安曇比羅夫命は天智天皇の命を受けて百済の王・豊璋…
訓で読むとなんと「とよたま」!「豊玉姫」を連想するのは私だけでしょうか?)…を助け、白村江(はくそんこう)の戦いで戦死した安曇野の英雄。

信濃中将は御伽草子の「ものぐさ太郎」の伝説で知られています。

 


四神社には少彦名命(スクナヒコナノミコト)、八意思兼命(ヤオオモイカネノミコト)、蛭子神(ヒルコノカミ)、猿田比古命(サルタヒコノミコト)。


保食社(宇気母智神・ウケモチノカミ)、子安社(木花開耶姫比売命・コノハナサクヤヒメノミコト)、事比羅社(大物主神・オオモノヌシノカミ)、八坂社(素戔嗚尊)。

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天孫降臨から神武天皇へとつながる系譜にみられる重要な神々。
誉田別尊は応神天皇ともされます。

また、若宮に祀られている安曇比羅夫命は穂高神社のお祭り、御船祭りの起こりの一つと伝えられています。

 


境内の御船会館にはその御船祭りに関する展示がされていました。

これがその御船です。

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これは山幸彦(火遠理命・ホオリノミコト)が、兄の海幸彦(火照命・ホデリノミコト。火須勢命・ホスセリノミコトに比定されることもあります)から借りた釣り針をなくし、塩土翁(シオツチノオジ)の教えによって海へ行き、湯津杜樹(ゆつかつらのき。神聖な桂の木という意味だそう)に登ったところに、水を汲みに来た侍女の報せでオオワダツミノカミの娘、豊玉姫がやってきた二人の出会いの場面。

 


やがてこの龍宮に時を過ごし、山幸彦と豊玉姫との間にできたのが、ウガヤフキアへズノミコト。
そしてウガヤフキアへズノミコトと豊玉姫の妹の玉依姫(タマヨリヒメ)の間に生まれたのが神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)、すなわち神武天皇とされています。

下は曳くことのできるように車輪がついています。
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他にも、日光泉小太郎の伝説─犀龍に乗り、太古は湖であった湖水を落とし、安曇野の平野をつくり上げた─をテーマにした船など。

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以下は御船祭りのビデオ映像からですので、お見づらいですが少しご紹介しましょう。

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船を作っているところ。大がかりですね。船上には毎年異なる人形を飾るのだそうです。

船はおとな船が二艘、子供船が三艘あり、囃子衆も乗る曳船。

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例大祭当日、町々を回り、
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境内に入ると神楽殿の周りを三周し、お布令神事(ふれしんじ)
が行われます。


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                             御布令の図

そして拝殿の前で船同士のぶつかり合いが演じられます。
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これがかなりな激突でちょっとびっくりするくらいです。


お囃子衆が乗ったり、終わると分解して格納するところなどは、祇園祭の山鉾と共通しています。

松本から大町にいたる神社の祭りにはこのような穂高神社に類した御船が出るそうで、秋たけなわの穂高神社のお祭りはそのハイライトです。

穂高のような山地に船のお祭りが伝承されているのは本当に驚きです!

海人の氏族、安曇族がこの地に達し、土着の民となった証しではないでしょうか。

 

もう夕方になり、静かな境内を回ってみました。

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                      若宮の後ろにあるご神木

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手水舎と龍。迫力です。

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安曇の銘水 清冽! 地下30メートルから汲み上げられています。

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御手洗川に架かる石橋。雲龍が彫られ神橋とも呼ばれます。

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    塩の道の道祖神も並んでいます。亀甲の通路わきに。

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翌日、明け方に
激しい雨が降りましたが、天候は徐々に回復し、待望の上高地、穂高神社の奥宮に出かけることにしました。
松本ICから沢渡(さわんど)まで約1時間。マイカー規制となっていますので、ここからはバスかタクシーです。

山また山を抜けて…
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梓川に沿ったり、トンネルに入ったり。
大きなダムも通りました。
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通過したトンネルはなんと20。

30分くらいかかったでしょうか、上高地のバスターミナルに到着です。



雨が降ったせいでまだ水は少し濁っていましたが、

だんだん霧が晴れて山と川の織りなす風景が見えてきました。
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標高1,500メートル。梓川上流の景勝地。

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涼しいです!

爽やかな山の空気を吸って。
河童橋です。

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ここからさらに梓川左岸道を歩きます。こちら側は森の中を歩くことになります。
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ヤチトリカブト トリカブト! でもきれいな紫色。


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なかなか先は長いようです…

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             ヤマホタルブクロ かわいい花ですね。

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何の実でしょう?

こんな木もありましたよ。
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道はときに河原に出たりもしますが…
見えました!

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あの山が明神岳! 屹立した美しい姿です。2931メートル!
その向こう、奥穂高の山頂に嶺宮がお祀りされています。


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さらに進み、河童橋から3キロ、約1時間で明神に着きました!

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もともとこの明神は上高地の中心で、上高地は「神垣内」と言ったそうです。

神垣内とは穂高見命が穂高岳奥宮と嶺宮にお祀りされていることに由来します。


また「神河内」とも「神降地」とも。

明神池に穂高の神様が祀られ、上高地が神垣内と呼ばれることなど、今回はじめて知ったことです…。 

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明神から梓川に架かる明神橋を渡ると鳥居があり、
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池畔の穂高神社奥宮に到着します。

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木々のせいで見えにくいのですが、この奥宮の真正面に先ほど河原から見えたあの明神岳がそびえています。

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お参りし、池の畔にでました。

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明神池は一之池と二之池からなる池で、穂高神命が鎮座する神域。
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別名「鏡池」「神池」とも呼ばれます。

 


池は神韻縹渺として深く、静かに水を湛えています。

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ずーんと重い静けさとでもいうのでしょうか、神秘的で、この池に龍神が棲んでいても不思議ではないように思えます。


毎年108日にはここに龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の御船を浮かべ、一年の山の安全を祈願する御船神事が行われるそうです。そんな風景を見てみたいですね。

奥宮の御船神事 _R.jpeg

 


帰りは右岸道を取りましたので、その景色をご覧ください。

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こちら側は木の橋を渡ったり、川の流れを見ながら歩くことになります。
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こんなにも美しい流れが存在するなんて感激です! 


それだけでも来た甲斐がありました。
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立ち枯れの木も雰囲気を醸し出しています。
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河童橋近くまで戻ると、いつのまにか青空が見え、梓川は出発のころより澄んできていました。
初秋の風景。

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今回の旅では、先生が、地名は大切なのです、地名には歴史が秘められているから、といつもおっしゃっていたその意味を実感しました。

安曇野はもとより、上高地も住所は松本市安曇…でした。安曇の地名はたくさん残っています。
梓川のあづの音も安曇からきているとも言われます。

 


海人(あま)として生きた人々は何代もの世代を経て、この地で山を切り拓き、たくましく生きる山の住人となっていったのでしょう。彼らの祖先は穂高の地で山を守る神となりました。

海の神が歳月を経て、やがて山の神へと変容してゆく不思議。


安曇磯良を訪ねてやってきた彼の地は、「安曇」の歴史とともに穂高の美しい自然を存分に見せてくれました。

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特別コラム 「ちょっと拝読」

 

 こんにちは。
 暑いさなか、皆様には健やかにお過ごしでしょうか?

 このたび、堤先生が「ぎをん」誌に一文を寄せられたことはみなさまご承知のことと存じます。

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 実は掲載された文章は、かなり縮小されたものでした。

 そこで、その元となった原稿を先生よりいただきましたので、こっそり掲載します。(笑)

清盛と鬼太郎と ―六波羅地名考―

 「祇園の近くにいい下宿が見つかった。」

 京都での住まいの斡旋を頼んでいた知人にそう告げられ、期待に胸を躍らせてこの地に移り住んだのは今から三十数年も前のことである。大学から京都に住むことになった田舎者に、「祇園」という地名はひと時甘美な幻想に浸らせるに充分な響きを持っていた。

 「京都では祇園に住むんだ」 友達に誇らしげに語っていた過ぎし日の記憶が今も鮮やかによみがえる。

 学生にあるまじき、いささか不届きな想いを抱いて上京した私が住んだのが六波羅だった。


 確かに祇園の近くであった。知人は何もうそはいっていない。

 これも何かの縁であったのだろうか。千年の歴史、悠久の時の上にたつ都。それに花街というプレミアまでついてはちきれんばかりの幻想に導かれてやってきた不埒な若造に、しかしこの町は期待通りの、いや期待以上の凄みを与えてくれた。

 下宿のすぐ裏に六波羅蜜寺があった。

 そこにはあの教科書で見た平清盛像と、口から六体の小仏を出した空也上人の像があった。そのことにも素直に感動したが、しかし何よりも驚かされたのは町名であった。六波羅蜜寺に隣接する六原小学校の前に貼られた仁丹の看板をみて愕然としたのである。そこには

 「轆轤町」

と書かれていた。多少陶芸に興味があった私はそれを「ろくろ」と読むことは知っていた。驚いたのはそのことではない。隣の学校に通う小学生たちはこの字が当たり前に書けるのだ、という思い込みだった。

 都の子供、恐るべし!

 その後、この名はもとからの名前ではなく、以前は「髑髏町」と呼ばれていたことを知って二度驚いた。しかもそこは六道の辻であり、三途の川だったという。

 しかもしかもここは化野、蓮台野と並ぶ京都の三大葬送地の一つ、鳥辺野の一角なのであった。かつて藤原道長のライバル藤原実資が、疫痢で亡くなった六歳の娘の遺骸を葬り行ったものの、悲しみのあまり埋葬するに忍びずそのまま放置し、翌朝思い直して再び訪れたときには、すでに娘の体は影も形もなくなっていたといういわく付きの一帯なのだ。

 さらにいえば、その近くには死んで葬られた母の体から生まれ、その子の成長を願う母の一念が霊となって現れ、夜な夜な飴を買いに来たという「幽霊子育て飴」なるものまで売られていた。

 さらにさらに、少し東にあがればそこには死者の霊を迎える鐘で有名な六道珍皇寺があり、ご丁寧にも小野篁が地獄に通ったという井戸まで残されていたのである。

 この、世の中の怪奇という怪奇をまとめて引き受け、ゲゲゲの鬼太郎のふるさとのような地に私はこれから住むのだった。それを知ったとき、別の意味で背筋が凍りついた。

 「ぎをん」という甘い響きに胸を膨らませていた若者の期待はものの見事に吹き飛んだ。

 しかし、その落胆もそう長くは続かなかった。たまたま近くの古本屋で買った本に、建礼門院が安徳天皇をお産みになった時、産湯に使った井戸があるという寺が紹介されていたのである。

 まるで『平家物語』じゃないか。面白い。
 にわかに興味が涌いた。

 妙順寺という名のその寺は私の下宿から息を止めたままで行ける場所にあった。確か山崎昭見というお名前であったと記憶しているが、その本の著者がその寺のご住職だった。私が住んでいた町名は山崎町という。その寺がある隣町は池殿町といった。

 そのとき、突然私の中で、六波羅という地名と平清盛像が重なった。ついでにこっそり鬼太郎も。

 今を遡ることおよそ九百年前、京都に進出してきた平正盛が土地を借り受けて住んだのが六道珍皇寺の一郭であった。この不気味な伝承を持つ地獄の片隅にその男は平然と住み続け、息子忠盛、孫清盛の時代にこの地は「平家にあらざれば人にあらず」とまで言わしめ、栄華を極めた一族の住処となったのである。

 現在、六波羅の地に平家とのゆかりを示すものは六波羅蜜寺の遺物を除きあまり残っていない。
 しかし、モノこそないが、ここにはっきりとその歴史の足跡を残し続けるものがある。それが町名なのだ。

 池殿町という名が残るその地は、池大納言と呼ばれた清盛の兄弟、平頼盛の邸宅趾。その北には三盛(みつもり)町がある。ここに住んだ頼盛の子、通盛(みちもり)の名の転化であろう。さらに隣接する門脇町は、門脇宰相と称された平教盛の邸宅趾を示す。確証こそないものの、北御門町、西御門町、多門町、弓矢町なども平家の関連を示唆する。

 地名は言葉の化石といわれる。そこから我々は一気に数百年の時を遡ることができるのだ。

 この国は平成の大合併をはじめとして多くの歴史ある名前を失くしてしまった。このことは自らの歴史を否定し、捨て去ることに等しい。時の流れもある。時代の趨勢もある。やむを得ず変えられ、淘汰されていく名前もあるだろう。

 しかし、かつて私が「祇園」という名に甘い幻想を抱き、「六波羅」という名に恐怖を抱いたのは、その名前にその地が越してきた時の流れが生きているからである。その長さゆえ、その名に歴史が重なるのである。

 私の中で清盛と鬼太郎が同居しても私には何の違和感もない。

 祇園はずっと花街であり続けたわけではない、同じように六波羅もずっと地獄ではなかった。時代とともに変化し、その都度新たな意味が加えられてきたのである。その重層性と複合性こそが千年の都を支えているといえよう。
 一つの地名、一つの町名に込められた意味は深い。それゆえにその名を残す意味は大きいのだ。

 私が愛して已まない京都は、だからこそ私の誇りであり続けるのである。

 
 
                                    ―完―