特別コラム 「ちょっと拝読」

 

 こんにちは。
 暑いさなか、皆様には健やかにお過ごしでしょうか?

 このたび、堤先生が「ぎをん」誌に一文を寄せられたことはみなさまご承知のことと存じます。

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 実は掲載された文章は、かなり縮小されたものでした。

 そこで、その元となった原稿を先生よりいただきましたので、こっそり掲載します。(笑)

清盛と鬼太郎と ―六波羅地名考―

 「祇園の近くにいい下宿が見つかった。」

 京都での住まいの斡旋を頼んでいた知人にそう告げられ、期待に胸を躍らせてこの地に移り住んだのは今から三十数年も前のことである。大学から京都に住むことになった田舎者に、「祇園」という地名はひと時甘美な幻想に浸らせるに充分な響きを持っていた。

 「京都では祇園に住むんだ」 友達に誇らしげに語っていた過ぎし日の記憶が今も鮮やかによみがえる。

 学生にあるまじき、いささか不届きな想いを抱いて上京した私が住んだのが六波羅だった。


 確かに祇園の近くであった。知人は何もうそはいっていない。

 これも何かの縁であったのだろうか。千年の歴史、悠久の時の上にたつ都。それに花街というプレミアまでついてはちきれんばかりの幻想に導かれてやってきた不埒な若造に、しかしこの町は期待通りの、いや期待以上の凄みを与えてくれた。

 下宿のすぐ裏に六波羅蜜寺があった。

 そこにはあの教科書で見た平清盛像と、口から六体の小仏を出した空也上人の像があった。そのことにも素直に感動したが、しかし何よりも驚かされたのは町名であった。六波羅蜜寺に隣接する六原小学校の前に貼られた仁丹の看板をみて愕然としたのである。そこには

 「轆轤町」

と書かれていた。多少陶芸に興味があった私はそれを「ろくろ」と読むことは知っていた。驚いたのはそのことではない。隣の学校に通う小学生たちはこの字が当たり前に書けるのだ、という思い込みだった。

 都の子供、恐るべし!

 その後、この名はもとからの名前ではなく、以前は「髑髏町」と呼ばれていたことを知って二度驚いた。しかもそこは六道の辻であり、三途の川だったという。

 しかもしかもここは化野、蓮台野と並ぶ京都の三大葬送地の一つ、鳥辺野の一角なのであった。かつて藤原道長のライバル藤原実資が、疫痢で亡くなった六歳の娘の遺骸を葬り行ったものの、悲しみのあまり埋葬するに忍びずそのまま放置し、翌朝思い直して再び訪れたときには、すでに娘の体は影も形もなくなっていたといういわく付きの一帯なのだ。

 さらにいえば、その近くには死んで葬られた母の体から生まれ、その子の成長を願う母の一念が霊となって現れ、夜な夜な飴を買いに来たという「幽霊子育て飴」なるものまで売られていた。

 さらにさらに、少し東にあがればそこには死者の霊を迎える鐘で有名な六道珍皇寺があり、ご丁寧にも小野篁が地獄に通ったという井戸まで残されていたのである。

 この、世の中の怪奇という怪奇をまとめて引き受け、ゲゲゲの鬼太郎のふるさとのような地に私はこれから住むのだった。それを知ったとき、別の意味で背筋が凍りついた。

 「ぎをん」という甘い響きに胸を膨らませていた若者の期待はものの見事に吹き飛んだ。

 しかし、その落胆もそう長くは続かなかった。たまたま近くの古本屋で買った本に、建礼門院が安徳天皇をお産みになった時、産湯に使った井戸があるという寺が紹介されていたのである。

 まるで『平家物語』じゃないか。面白い。
 にわかに興味が涌いた。

 妙順寺という名のその寺は私の下宿から息を止めたままで行ける場所にあった。確か山崎昭見というお名前であったと記憶しているが、その本の著者がその寺のご住職だった。私が住んでいた町名は山崎町という。その寺がある隣町は池殿町といった。

 そのとき、突然私の中で、六波羅という地名と平清盛像が重なった。ついでにこっそり鬼太郎も。

 今を遡ることおよそ九百年前、京都に進出してきた平正盛が土地を借り受けて住んだのが六道珍皇寺の一郭であった。この不気味な伝承を持つ地獄の片隅にその男は平然と住み続け、息子忠盛、孫清盛の時代にこの地は「平家にあらざれば人にあらず」とまで言わしめ、栄華を極めた一族の住処となったのである。

 現在、六波羅の地に平家とのゆかりを示すものは六波羅蜜寺の遺物を除きあまり残っていない。
 しかし、モノこそないが、ここにはっきりとその歴史の足跡を残し続けるものがある。それが町名なのだ。

 池殿町という名が残るその地は、池大納言と呼ばれた清盛の兄弟、平頼盛の邸宅趾。その北には三盛(みつもり)町がある。ここに住んだ頼盛の子、通盛(みちもり)の名の転化であろう。さらに隣接する門脇町は、門脇宰相と称された平教盛の邸宅趾を示す。確証こそないものの、北御門町、西御門町、多門町、弓矢町なども平家の関連を示唆する。

 地名は言葉の化石といわれる。そこから我々は一気に数百年の時を遡ることができるのだ。

 この国は平成の大合併をはじめとして多くの歴史ある名前を失くしてしまった。このことは自らの歴史を否定し、捨て去ることに等しい。時の流れもある。時代の趨勢もある。やむを得ず変えられ、淘汰されていく名前もあるだろう。

 しかし、かつて私が「祇園」という名に甘い幻想を抱き、「六波羅」という名に恐怖を抱いたのは、その名前にその地が越してきた時の流れが生きているからである。その長さゆえ、その名に歴史が重なるのである。

 私の中で清盛と鬼太郎が同居しても私には何の違和感もない。

 祇園はずっと花街であり続けたわけではない、同じように六波羅もずっと地獄ではなかった。時代とともに変化し、その都度新たな意味が加えられてきたのである。その重層性と複合性こそが千年の都を支えているといえよう。
 一つの地名、一つの町名に込められた意味は深い。それゆえにその名を残す意味は大きいのだ。

 私が愛して已まない京都は、だからこそ私の誇りであり続けるのである。

 
 
                                    ―完―


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