秋の散策 Ⅱ 寺之内界隈の寺院 ご報告

11月19日、22日の両日は、ともに天候に恵まれ、深まりゆく秋の散策となりました。
尼門跡寺院の大聖寺(だいしょうじ)からスタートしました。


「花の御所」の碑。室町三代将軍義満の邸宅があったところ。邸内にあった岡松殿が、いまは大聖寺という尼門跡寺院となっています。(非公開)
尼門跡は皇女や公家、将軍家の息女が入寺した寺院。御所の文化をいまも伝える寺院です。
向こうに見える屋根の同志社大学寒梅館と、こちらの大聖寺辺りがその「花の御所」跡。



校内に室町時代の石敷の遺構も残されています。

この界隈には尼門跡が多く、同じく室町時代に創建の光照院(持明院跡)にも立ち寄り、寺之内通に入りました。


妙顕寺の塔頭・泉妙院。
美術史上、たぐいまれな芸術家兄弟の光琳、乾山を輩出した尾形家の菩提寺。

妙顕寺に着きました。




妙顕寺(みょうけんじ)──

京都における日蓮宗最初の寺院。大本山。
日蓮宗の宗祖・日蓮上人(1222~1282)の孫弟子にあたる日像(にちぞう)上人が開いたお寺。1321年の開創で、700年を迎えたことになります。
日像が龍華樹院(りゅうげじゅいん)と号したため、寺は「龍華」の名でも呼ばれてきました。


本堂に掲げられる「十界曼荼羅」の額。
中央に「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれ、ひげのように見えるところから「ひげ題目」とも呼ばれます。周囲には諸尊の名が書かれます。

「三菩薩堂」
1358年、大旱魃の年、妙顕寺二世の大覚が、雨乞いの祈祷で龍神を呼び雨を降らせた功績により、時の天皇から、大覚から遡って、日蓮、日朗、日像に菩薩号を、大覚に大僧正の号が贈られたといいます。

「勅賜三菩薩」の額

本堂に参拝し、「鬼子母神堂」へ。

鬼子母神は、もともとインドの神さま。
多くの子供を持っておりましたが、巷に出ては人間の子供をさらい、食べて、命を奪っていました。そこでお釈迦様がこの悪事を憂いて鬼子母神の子を隠されました。鬼子母神は自分の子がいなくなった悲しみに、今まで犯してきた自分の罪に気づき、お釈迦様に帰依し法華経の行者を守ることを誓ったそうです。
鬼子母神はそれからは柘榴を食べるようになったといいます。
現在では安産・子育ての神様となって祀られています。

鬼子母神が悔い改めたゆえに、鬼の角が取れたという謂れもあります。
散策日は堂内にいて提灯の文字が見えなかったのですが、後日、お庭から見ますと、「鬼」の字に角はありませんでした。


鬼子母善神。鬼が善神になったのですねー。
お堂の前、柘榴の木と教えていただきました。

はらはらと落葉が散る渡り廊下から、紅葉の美しい「四海唱導」の庭へ。


そして「孟宗竹の坪庭」

「光琳曲水の庭」

丸窓から眺めるとまた趣が変わります。

向こうには樹齢400年の赤松。りっぱでしたね。

書院をはさんでつながる「抱一曲水の庭」

水琴窟の音色を聴いたり…
四つのお庭を堪能しました。

次に妙覚寺へ。

妙覚寺──
妙顕寺と同じ日蓮宗の寺院。今日訪ねる三つの寺院はみな日蓮宗です。
妙覚寺は美濃国の戦国大名・斎藤道三とも関係が深いお寺。道三の四男は当寺十九世の日饒(にちじょう)
道三の娘・濃姫(帰蝶)が織田信長に嫁していたことなどからも、信長は本能寺とともに妙覚寺をよく宿所としました。当時の妙覚寺の場所はここではありませんが、本能寺の変の際には、信長の嫡男・信忠が妙覚寺に滞在しており、本能寺の信長、信忠ともに自刃した話は有名です。

歴史のお話より、とにかくこちらのお庭「法姿園」(ほっしえん)の紅葉は絶品です。


紅葉と杉苔だけのお庭。廊下におかれた机に映して眺める「机紅葉」!(^^)!

そしてお庭の奥には大切な場所が。

「華芳宝塔」(かほうほうとう)
日蓮が比叡山で学んでいた時代に書写した法華経が納められている石塔。
信長の叡山焼き討ち(1571)を逃れて今日ここに伝わっています。

さらに見どころ満載の妙覚寺。

どこからも眺めてみる価値あり、です。

額縁の松がここからも見られます。

時間があっという間に経ちます。
日が暮れてしまわないうちに本法寺へ。

本法寺──
本阿弥光悦や長谷川等伯ゆかりの寺。
本阿弥家は光悦の曽祖父が、この寺を開いた日親上人に出会い、信者となって以来、菩提寺として本法寺を支えてきたといいます。
等伯の「涅槃図」は京都三大涅槃図のひとつ、涅槃会の時期に掛けられます。

下は「十(つなし)の庭」

光悦の作庭と伝わる「巴の庭」へ。

経年によりわかりづらくなってはいますが、巴の形の築山が三か所あり、「三巴の庭」と呼ばれています。侘びたたたずまいのお庭でした。



庭の中、手前の円形の石が「日」を、向こうの十角形の蓮池が「蓮」を表わします。(10月撮影)


見学も終わりに近づき、縁側でくつろぎのひととき。

本法寺を後に、堀川通の慈受院でごあいさつ、解散とさせていただきました。
長時間の散策、お疲れ様でした。
またの機会、お越しくださいますようお待ちしております <(_ _)>

 

 

秋の散策  萩の花と念仏と

9月24日、10月1日は、夏を思わせる気候となりましたが、ともに好天に恵まれ、散策は無事終了しました。
両日と下見の折の写真などとりまぜ、ご報告いたします !(^^)!

散策は、出町柳駅近くの光福寺、通称「干菜寺」(ほしなでら)からスタートしました。

「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えながら鉦と太鼓を打つ「念仏六斎」の総本寺。

豊臣秀吉が鷹狩の際に立ち寄り、乾菜を献上したことで「干菜山光福寺」の名を与えられたそうです。


境内には浄土宗の開祖・法然上人の若き勢至丸の頃の像。今日は法然上人ゆかりの寺院を訪ねます。

百万遍知恩寺へ。

「賀茂のかわら屋」「今出川釈迦堂」などと称され、法然上人が念仏の道場とし、のちに高弟の勢観房源智(せいかんぼうげんち)が寺としました。
上人と源智の師弟の深さを知るお寺でもあります。
本堂には法然上人像、脇に源智像、そして法然上人の意を受けて快慶がつくったとされる阿弥陀如来像が祀られています。

境内には、宋から送られたという平重盛ゆかりの「阿弥陀経石」の写しが置かれています。重盛のひ孫は源智と伝わっています。




法然上人が、比叡山黒谷別所青龍寺で修行ののち人々を救うため浄土宗開宗にいたったお話、「聖」(
ひじり)や「別所」に関わるお話。いつか講座でもお話できればと思います。

今出川通を東へ。
堤先生のお気に入りだった「パティスリー タツヒトサトイ」をご紹介。
北白川の志賀越道(しがごえみち)に建つ二体の石仏も見学しました。

そしてこちらの大きな石仏は、白川女が町へ花を売りに出るときに必ずお参りしたそうです。

神楽岡通に入り、南へ。

ご存じ「茂庵」へ至る石段。


「茂庵」は茶人の谷川茂次郎がつくった茶庵の一つで、大正末期に建てられましたが、おなじく茂次郎が建てた住宅群が近くに並びます。



石段の山道から望む大文字山もいいですね。



一番上まで上った方から萩の写真をいただきました。

茂庵は、8月14日で、惜しまれつつ営業を終えましたが、来夏をめどにリニューアルオープンされるそうです。楽しみです。

神楽岡通に戻って。

右手は後一条天皇の菩提樹院陵。吉田、神楽岡界隈は天皇・皇族、貴族の陵墓の地でありました。

黎明教会の資料研修館で、琳派の美術品などを見てひと休み。
外はかなり暑いです!

「軒端の梅」で名高い「東北院」を通り、
「萩の寺」として知られる「迎称寺(こうしょうじ)」は時宗のお寺。

土塀のまわりに咲く紅白の萩。

ようやく「真如堂」に着きました!


山門には敷居がありません…。なぜでしょう? (^-^)


境内の緑は少し色づき始めています。初秋の色ですね。

真如堂は十夜(じゅうや)念仏発祥の寺。
法然上人、親鸞聖人も参籠し、不断念仏の道場として、念仏行者や庶民、特に女人からの信仰をあつめてきました。
11月5日~15日は「お十夜」の法要が盛大に営まれます。

「涼しさの 野山にみつる 念仏かな」 去来

手水はボタン操作で出ます。でもすぐ止まる。省エネです(笑)

三重塔は再建されてからでも二百年余り。風格ですね。


左手の大きな木は「花の木」。真如堂は三井家の菩提寺で、三井家より寄贈されたこの木は境内で一番に色づき始めるのだそうです。

「たてかわ桜」

春日局が父・斎藤利三(としみつ)の菩提を願って植えたという「たてかわ桜」。二代目ですが、お隣に三代目の若木も育っています。樹皮が縦目になっています。

光秀の家臣であった利三が六条河原で晒されているのを奪って、この真如堂に埋葬した、友人の絵師・海北友松の物語。また春日局の父を想う心情を、堤先生からお話しいただいたことがありました。
ここに皆さまをお連れするのが散策の目的だったかもしれません。
写真ではわかりにくいのですが、真如堂も萩がたくさん植えられています。



弁天池


本堂に参拝し、書院と庭へ。



夏には紫陽花でしたが、菊花が添えられていました。


こちらは「随縁(ずいえん)の庭」
三井家の家紋「四ツ目結文」をモチーフに作庭されています。

奥の「涅槃(ねはん)の庭」へつづく庭。

燈籠は「燈明寺灯籠」というのだそうで、枯山水庭に景を添えています。

「涅槃の庭」


お釈迦様が横たわり、入滅のときの情景。
参加の方から、周りの石たちがお釈迦様のほうに向いていますね、と教えていただき、よく見ると、なるほど!

大文字を借景にして閑かです。

ここで散策は終了となりました。長時間お疲れさまでした。

お越しいただきました皆さま、ありがとうございました。
今回ご参加いただけなかった皆さま、いつかの京都散策のご参考になれば幸いです。