世界遺産講座

 

京都・清遊の会主催 第三期シリーズ

 

京都・世界遺産講座
のご案内!

 

残暑のうちにも朝夕は少し秋の気配が感じられる頃となりました。
皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
京都・清遊の会が、足掛け三年にわたって行ってまいりました京都の世界遺産講座もあと六社寺となりました。

 

残すは下記の寺々、京都を代表する巨刹、名刹ばかりです。

 

本講座は時宜に応じた話題を盛り込みながら、画像を駆使して立体的に、そしてどこよりも深く、広く、楽しく解説します。

 

講師はハイレベルな京都案内で定評のある堤勇二講師です。

 

従来の京都案内では決して得られない本物の京都、
驚きと興奮のあっという間の3時間をぜひご堪能下さい。

初めての方、大歓迎です。
皆さまのお越しをお待ちしています!!



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    言わずと知れた京都のシンボルタワー
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              本願寺門主の数寄の結晶 飛雲閣
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             夢窓疎石庭園の極意 西芳寺黄金池
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                      極楽いぶかしくば……

 

京都会場

 

講義予定 平成24年(2012)~平成25年(2013) 

 

●時間は午後130分~430分を予定しています。

 


1回 9月9日(日) 天龍寺    職員会館かもがわ

 

2回 10月7日(日) 東 寺   職員会館かもがわ

 

3回 1111日(日) 清水寺   京都市北文化会館

 

4回 12月22日(土) 西本願寺  職員会館かもがわ(予定)

 

5回 1月19日(土) 平等院   職員会館かもがわ(予定)

 

6回 2月16日(土) 西芳寺   職員会館かもがわ(予定)

 


会場
原則として職員会館かもがわ京都市中京区土手町通夷川上ル末丸町284
TEL075-256-1307
市バス「河原町丸太町」徒歩五分 京阪電鉄「神宮丸太町」駅徒歩五分)
を予定していますが、
北文化会館(北大路タウン内)および京都アスニ―等も使用いたします。
変更の場合は適宜ご連絡いたします。

 


東京会場

世界遺産講座 東京開催 日程  

          ●時間は午後130分~430分を予定しています。

回数   日時       内容        場所

 


第1
回  923日(日)  天龍寺    きゅりあん 大会議室

 

第2回  1028日(日)  東寺     きゅりあん 第二講習室 

 

第3回  1123日(金祝) 清水寺    きゅりあん 第二講習室 

 

第4回  1224日(月祝) 西本願寺   きゅりあん 第二講習室   

 

第5回  127日(日)  平等院     江戸東京博物館 第一・第二学習室

 

第6回  224日(日)  西芳寺    江戸東京博物館 会議室

 


会場 

 

きゅりあん(品川区立総合区民会館)
JR京浜東北線、東急大井町線、りんかい線各線「大井町」下車徒歩1分。
電話1(プッシュホン)
03-5479-4100 

 

 江戸東京博物館
JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分。
都営地下鉄大江戸線
両国駅(江戸東京博物館前) A4出口 徒歩1分。
電話1(プッシュホン)
03-3626-9974
変更の場合はご連絡いたします。

 


ご参加費



各回お一人
3000です。

お申し込みの場合、6回分一括ご入金の方は、
合計
18000円を15000円に割引させて頂きます。

 

各回ごとのお振込みか、各期ご参加回一括でのお振込みかどちらかをご選択下さい。

 

各回振込の方は、開催日の一週間前までにご入金下さい。

 


申し込み要領



住所、氏名、電話番号ならびに必要事項をご明記のうえ、
右上のお申込みフォームからお申込み下さい。
メールアドレスは
PCか携帯か、また全回振込か各回振込かをご記入ください。

FAX
もしくはメールでもお申し込みいただけます。
お申し込みの後、参加費をご入金下さい
恐れ入りますが、振り込み手数料はご負担下さい。
ご入金確認後、事務局より参加証を送付致します。
講義当日にご持参、ご提示下さい。


○お振込先


みずほ銀行 出町(でまち)支店(587)  普通 1161285   名義  京都  清遊の会


申し込み〆切

 


お申し込みは随時受け付けております。ただしレジュメ作成の都合上、事前申込制とさせていただきますので、ご参加回の一週間前までにお申し込み下さい。

 


世界遺産現地案内について

 


今後、世界遺産の各社寺を実際に訪れて行う現地案内も開催する予定です。参加費用は、拝観料や交通費などの都合で変動しますので、その都度ご案内致します。

 


講師紹介 堤 勇二

 

1958年生まれ。同志社大学文学部卒業。京都学園大学非常勤講師。京都の出版社で京都検定公式テキストの編集を始め、京都関係、日本の伝統文化・芸能書籍の編集を経て、現在フリーの京都学講師。京都商工会議所の京都検定講座や各新聞社の文化センター講座などを行い京都の奥深さを発信する。主著に「京都・祇園祭手帳」「京都・世界遺産手帳」(河原書店)、共著に「京都 観光文化への招待」(ミネルヴァ書房)など。

★京都・清遊の会へのご意見、ご感想を募集しています!
ぜひともご感想、ご意見、ご希望をお寄せください。
当ホームページのコメント欄に投稿いただくか、あるいはメール・ファクスでも結構です。
お待ちしています!

 

 

京都・清遊の会 事務局   6038341 京都市北区小松原北町13530108

 

TEL&FAX 075-465-9096 
e-mail:
info@kyo-seiyu.net
URL: http://www.kyo-seiyu.net

 

 

 

特別コラム 「ちょっと拝読」

 

 こんにちは。
 暑いさなか、皆様には健やかにお過ごしでしょうか?

 このたび、堤先生が「ぎをん」誌に一文を寄せられたことはみなさまご承知のことと存じます。

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 実は掲載された文章は、かなり縮小されたものでした。

 そこで、その元となった原稿を先生よりいただきましたので、こっそり掲載します。(笑)

清盛と鬼太郎と ―六波羅地名考―

 「祇園の近くにいい下宿が見つかった。」

 京都での住まいの斡旋を頼んでいた知人にそう告げられ、期待に胸を躍らせてこの地に移り住んだのは今から三十数年も前のことである。大学から京都に住むことになった田舎者に、「祇園」という地名はひと時甘美な幻想に浸らせるに充分な響きを持っていた。

 「京都では祇園に住むんだ」 友達に誇らしげに語っていた過ぎし日の記憶が今も鮮やかによみがえる。

 学生にあるまじき、いささか不届きな想いを抱いて上京した私が住んだのが六波羅だった。


 確かに祇園の近くであった。知人は何もうそはいっていない。

 これも何かの縁であったのだろうか。千年の歴史、悠久の時の上にたつ都。それに花街というプレミアまでついてはちきれんばかりの幻想に導かれてやってきた不埒な若造に、しかしこの町は期待通りの、いや期待以上の凄みを与えてくれた。

 下宿のすぐ裏に六波羅蜜寺があった。

 そこにはあの教科書で見た平清盛像と、口から六体の小仏を出した空也上人の像があった。そのことにも素直に感動したが、しかし何よりも驚かされたのは町名であった。六波羅蜜寺に隣接する六原小学校の前に貼られた仁丹の看板をみて愕然としたのである。そこには

 「轆轤町」

と書かれていた。多少陶芸に興味があった私はそれを「ろくろ」と読むことは知っていた。驚いたのはそのことではない。隣の学校に通う小学生たちはこの字が当たり前に書けるのだ、という思い込みだった。

 都の子供、恐るべし!

 その後、この名はもとからの名前ではなく、以前は「髑髏町」と呼ばれていたことを知って二度驚いた。しかもそこは六道の辻であり、三途の川だったという。

 しかもしかもここは化野、蓮台野と並ぶ京都の三大葬送地の一つ、鳥辺野の一角なのであった。かつて藤原道長のライバル藤原実資が、疫痢で亡くなった六歳の娘の遺骸を葬り行ったものの、悲しみのあまり埋葬するに忍びずそのまま放置し、翌朝思い直して再び訪れたときには、すでに娘の体は影も形もなくなっていたといういわく付きの一帯なのだ。

 さらにいえば、その近くには死んで葬られた母の体から生まれ、その子の成長を願う母の一念が霊となって現れ、夜な夜な飴を買いに来たという「幽霊子育て飴」なるものまで売られていた。

 さらにさらに、少し東にあがればそこには死者の霊を迎える鐘で有名な六道珍皇寺があり、ご丁寧にも小野篁が地獄に通ったという井戸まで残されていたのである。

 この、世の中の怪奇という怪奇をまとめて引き受け、ゲゲゲの鬼太郎のふるさとのような地に私はこれから住むのだった。それを知ったとき、別の意味で背筋が凍りついた。

 「ぎをん」という甘い響きに胸を膨らませていた若者の期待はものの見事に吹き飛んだ。

 しかし、その落胆もそう長くは続かなかった。たまたま近くの古本屋で買った本に、建礼門院が安徳天皇をお産みになった時、産湯に使った井戸があるという寺が紹介されていたのである。

 まるで『平家物語』じゃないか。面白い。
 にわかに興味が涌いた。

 妙順寺という名のその寺は私の下宿から息を止めたままで行ける場所にあった。確か山崎昭見というお名前であったと記憶しているが、その本の著者がその寺のご住職だった。私が住んでいた町名は山崎町という。その寺がある隣町は池殿町といった。

 そのとき、突然私の中で、六波羅という地名と平清盛像が重なった。ついでにこっそり鬼太郎も。

 今を遡ることおよそ九百年前、京都に進出してきた平正盛が土地を借り受けて住んだのが六道珍皇寺の一郭であった。この不気味な伝承を持つ地獄の片隅にその男は平然と住み続け、息子忠盛、孫清盛の時代にこの地は「平家にあらざれば人にあらず」とまで言わしめ、栄華を極めた一族の住処となったのである。

 現在、六波羅の地に平家とのゆかりを示すものは六波羅蜜寺の遺物を除きあまり残っていない。
 しかし、モノこそないが、ここにはっきりとその歴史の足跡を残し続けるものがある。それが町名なのだ。

 池殿町という名が残るその地は、池大納言と呼ばれた清盛の兄弟、平頼盛の邸宅趾。その北には三盛(みつもり)町がある。ここに住んだ頼盛の子、通盛(みちもり)の名の転化であろう。さらに隣接する門脇町は、門脇宰相と称された平教盛の邸宅趾を示す。確証こそないものの、北御門町、西御門町、多門町、弓矢町なども平家の関連を示唆する。

 地名は言葉の化石といわれる。そこから我々は一気に数百年の時を遡ることができるのだ。

 この国は平成の大合併をはじめとして多くの歴史ある名前を失くしてしまった。このことは自らの歴史を否定し、捨て去ることに等しい。時の流れもある。時代の趨勢もある。やむを得ず変えられ、淘汰されていく名前もあるだろう。

 しかし、かつて私が「祇園」という名に甘い幻想を抱き、「六波羅」という名に恐怖を抱いたのは、その名前にその地が越してきた時の流れが生きているからである。その長さゆえ、その名に歴史が重なるのである。

 私の中で清盛と鬼太郎が同居しても私には何の違和感もない。

 祇園はずっと花街であり続けたわけではない、同じように六波羅もずっと地獄ではなかった。時代とともに変化し、その都度新たな意味が加えられてきたのである。その重層性と複合性こそが千年の都を支えているといえよう。
 一つの地名、一つの町名に込められた意味は深い。それゆえにその名を残す意味は大きいのだ。

 私が愛して已まない京都は、だからこそ私の誇りであり続けるのである。

 
 
                                    ―完―