高瀬川散策 七条から五条 ご報告

1116日、好天に恵まれ、堤講師の案内で高瀬川沿いの散策を行いました。

今年は角倉了以が高瀬川を開削して四百年。

かつて七条内浜と呼ばれた高瀬川の船溜まりがあったところからの出発。総勢30余名の大散策となりました。

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松明殿稲荷にて。木喰(もくじき)上人の事績を聴いてびっくり!

この木喰さんは養阿正禅(ようあしょうぜん)、一乗寺狸谷不動院や六阿弥陀詣りゆかりの僧でもあったのですね。

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「任天堂」創業の地。花札製造販売から始まった任天堂の社名は運を天に任せる、の意から。風格ある建物、装飾も独創的です。

近くには一世を風靡した手描き花札の名店、松井天狗堂もありました。

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「ひと・まち交流館」の東側はもと菊浜小学校の跡地。この付近は舟廻し場であったそうです。

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七条新地にはいまも趣ある建物がたくさんあります。

祇園新地に二条新地、京都の花街談義にしばし花が咲きました。それにしても遊所と日吉大社、思いもかけぬ関連に地名の不思議を思い知りました。

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木屋町五条下ルにひときわ目をひく榎の大樹、榎大明神。

平安時代、源融(みなもとのとおる)の河原院のいわれもさることながら、

堤講師でなければ聞けない話の連続!

大明神向こうのレストラン「efish」の店名まで読み解く講師に脱帽です。

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おなじみ五条大橋の弁慶と牛若像。弁慶がもう一人おられました(笑)。

町名、地名に残る歴史をひもとき充実の半日はあっという間に終了しました。

お越しいただきました皆さま、お疲れ様でした。

堤講師の現地案内、次回をおたのしみに!

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                       七条仏所跡の山茶花 

清遊ブログ  眞如寺 「半僧坊大権現」御開帳大祭にて

さわやかな季節となりました。

五月晴れの日曜日、衣笠にある眞如寺を訪ねました。

今日は約60年ぶりに「半僧坊(はんそうぼう)大権現御開帳大祭」が営まれるのです。

眞如寺さんは等持院の東にあり、清遊の会事務局からも徒歩5分という近さ!

門前に着くと幟が立ち、参拝の方がつぎつぎ入っていかれます。

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眞如寺の境内に入るのは初めてです。

ここ眞如寺は臨済宗相国寺派の寺院で、鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)とともに相国寺の山外塔頭の一つ。山号は萬年山。

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石畳を進むと、見事なかきつばたが見えてきました! 

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山門の手前、両側にかきつばたの群生。朝の光にまぶしげに咲いています。

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山門を潜ると受付があり、今日の次第を案内されています。

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                 半僧坊大権現がお祀りされる圓通殿

まずは法堂(大雄殿・だいおうでん)にお参りしましょう。

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この法堂は明暦2年(1656)後水尾天皇によって再興されました。

法堂は仏殿を兼ね、宝冠釈迦如来像、左右に勧請開山の無学祖元(むがくそげん)や、勧請開基の無外如大(むがいにょだい)尼など歴代の祖師像が安置されています。

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眞如寺は、弘安9年(1286)、無学祖元(仏光国師)の弟子で、京都尼五山筆頭の景愛寺住職であった、無外如大尼が、無学の遺爪髪を祀るための塔所として「正脈庵」(しょうみゃくあん)を築いたのを始まりとします。

無外如大尼の没後、康永元年(1342)に夢窓疎石が無学の師恩に報いるべく、執権高師直、足利直義の外護を受け整備し、眞如寺が開かれ、夢窓自身は二世となりました。

無学祖元は宋から渡来し鎌倉建長寺に入り、円覚寺の開山となった臨済僧。

その初住の中国浙江省台州眞如寺に倣い、寺号を眞如寺としたそうです。

そして弟子の無外如大尼は女性で初めて悟りの印可を受けた方。

眞如寺は正脈庵時代は尼僧が住持であったそうで、尼五山の第一とされた景愛寺の法統は、現在の大聖寺、宝鏡寺に継承されています。

宝鏡寺には無外如大尼にかかわるものが伝わり、その伝承を大切にされています。

ここ眞如寺は宝鏡寺宮歴代の菩提所でもあります。

ざっと知るだけでも驚きの由緒です。

定刻になり、ご住職の江上正道師はじめ僧侶方が「半僧坊大権現」がお祀りされている圓通殿に入られ、法要が始まりました。

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「半僧坊大権現」というのは、静岡県浜松市引佐(いなさ)町奥山にある臨済宗大本山方広寺の鎮守さま。

14世紀半ば、後醍醐天皇の皇子・無文元選(むもんげんせん)禅師が留学先の中国から帰国する際、嵐に遭遇し、この危機から船を救い日本へ送り届けたのが鼻高く眼光鋭い異人の半僧坊。

そののち、禅師が方広寺を開いたときに再び現れ弟子となり、禅師の遷化後、寺門護持、衆生済度を誓って姿を消したと伝わります。

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方広寺では鎮守としてお祀りしましたが、明治14年に大火に遭い、再建のため各地に勧進を行ったことから「半僧坊大権現」として全国に広まりました。

この大火では本堂や庫裡は消失するも、開山堂や半僧坊大権現を祀るお堂は燃えなかったことから火除けの神様ともいわれます。

眞如寺の「半僧坊大権現」は、大正元年に相国寺山内に勧請され、大正7年(1918)に当寺に遷座されました。

寺門護持の鼻高く眼光鋭い半僧坊さまは天狗のような超人になぞらえられるのでしょうか、その紋は羽団扇(はうちわ)になっています。

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西陣の浄福寺を大火から護ったという鞍馬の天狗を思い出しますね(笑)

半僧坊大権現、さらに境内の豊川稲荷社、弁才尊天への読経と回向が続き、真言唱和。

さらにご住職により参拝の方々の肩を撫でていただけるとあって長い列ができました。

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御祈祷のお札をいただき、茶席へ向かいました。

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茶席は書院につづく客殿に設けられています。

書院にあがり、ひと休みさせていただきました。

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書院の襖絵は原在中(ざいちゅう)の西湖図。

原在中は応挙、伊藤若冲、与謝蕪村らとともに江戸後期の京都画壇で活躍した画家。

雄大な画の前で静かなひととき。

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今日のお茶席はたいへん盛会のようで、庭を散策しながら順番を待ちます。

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幽邃なたたずまい。池に映る木々が深遠な趣を醸し出しています。

この庭は昔、等持院の東の庭に続いていたのです。すなわち等持院、東の庭はここ眞如寺の庭だったのです。

驚きですね!

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さて、お茶席へまいりましょう。

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待合の床には半僧坊大権現の軸が掛かっていました。違い棚には舟の香合。

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いよいよ席入りです。

今日はうれしい驚きの連続なのですが、このお席にもびっくりしました。

長細い茶室で、二畳の床、さらにその向こうに一畳の床が設けてあります。

どんなふうに表現していいのかわかりません。写真をごらんください。

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点前が始まり、ご亭主が挨拶され、正客との会話がなごやかに流れてゆきます。

お菓子はなんと、羽団扇の紋です! 銘は「せいふう」とお聞ききしました。

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「青楓」ならお庭の新緑にぴったりですし、「清風」なら半僧坊さまの羽団扇が送るさわやかな風です。千本玉寿軒とのこと。

お茶は堀井七茗園。宇治七茗園と呼ばれる茶園の一つ、「奥の山」茶園で知られます。

しみとおるようなおいしいお茶でした!

そういえば半僧坊大権現がお祀りされているのは浜松市引佐町奥山でした。奥山つながりです。

風炉釜は富士釜に遠州の土風炉。

遠州といえば旧遠江(とおとうみ)国。昔は静岡の西部をそう呼んでいました。

やはり静岡浜松の方広寺とのゆかり。
遠州の風炉に据えられた富士釜は、遠江(浜名湖)から見える富士山の景色が連想されます。

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とすると…さきほど見た待合の舟香合は、無文禅師が嵐に遭遇したときの船!?

お棚に飾りのこされた蓋置の可愛らしい一閑人(いっかんじん)は無文禅師?

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流行りの「想像の翼を広げて」みましたがどうでしょう(笑)

格式あるなかにも今日の御開帳によせて取り合わされた趣向の茶会。ご亭主の細やかな心遣いが感じられます。

今日はこの眞如寺で、半僧坊大権現御開帳大祭やゆかりの茶席に参会し、境内をゆっくり散策、日が高くなる頃ようやくかきつばたの咲く参道をもどりました。

半僧坊大権現の御開帳は来年から五月の第三日曜に恒例として行われるそうです。

すばらしいところですので機会がありましたらぜひおでかけください!
それではまた。ごきげんよう。さようなら(笑)
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