清遊ブログ 宮島紀行

ようやく桜の便りが聞かれる頃となりました。
京の遅い春を待ちかねて、でもないのですが、瀬戸内、安芸の宮島へでかけました。
宮島は日本三景の一つ。
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島には平清盛と平家一門の崇敬をうけた厳島神社があり、清盛が納めた「平家納経」でも知られています。

広島から宮島口まで移動し、宮島口からフェリーで宮島へ。
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                        宮島口の蘭陵王像

快晴。暖かい風に吹かれ船上は快適です。

ほどなく大鳥居とそして背後に山々が見えてきました。
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この姿、観音様の横顔に見えるのです。
左から額、くぼんだ所が目、そして鼻…。おわかりいただけたでしょうか?
堤先生に教えていただいた折りにはよくわからず出かけたのですが、帰って写真を見て理解できました(笑)
湾の入り江にそびえる朱塗りの大鳥居、その奥に海にうかぶ朱色の社殿が見えてきました。
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厳島は、「神を斎(いつ)きまつる島」として「厳島」と呼ばれるようになったといいます。
古くから島そのものが神聖化されてきました。
島の最高峰である弥山(みせん)は標高530m。
弘法大師が開いたと伝承のある山岳信仰の霊地で、原生林におおわれ、弥山本堂三鬼堂(さんきどう)のほか御山(みやま)神社大日堂などが建っています。

厳島神社は、広島湾の入り口にうかぶ宮島(厳島)の海岸に建ち、平安時代の寝殿造りを神社に取り入れた建築美で知られ、古来、安芸の国一宮として尊崇されてきました。
創建は推古元年(593)、佐伯鞍職(さえきくらもと)によると伝わりますが、平安末期の久安2年(1146)、清盛が安芸の守に任ぜられ、平家一門の崇敬が始まって以来、現在のような壮麗な社殿が営まれるようになりました。
御祭神は宗像三女神(むなかたさんじょしん)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)。

天照大神と須佐之男命の誓約(うけひ)の際に誕生した神々。
宗像三女神は海上交通を司る海の神々として信仰されてきました。
また御祭神のうち市杵島姫命はいつしか弁財天と習合し、日本三弁天の一つと称されるようになりました。

さて、大鳥居です。
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宮島のシンボルで、両部鳥居と呼ばれる独特の姿。
写真は満潮から1時間ほど経った頃の姿です。

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現在の「伊都岐島神社」の扁額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の御染筆。
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海側の扁額は「厳嶋神社」。

参詣の人々で賑わっている様子が見えます。
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船を降り海岸を歩きます。
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空も海も澄んで美しい景色です。

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 二位殿灯籠 壇ノ浦の合戦で、安徳天皇とともに入水した
平清盛の妻、時子の供養のため建てられた灯籠。

いよいよ厳島神社へ。
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東廻廊(国宝)を進みます。
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蟇股(かえるまた)にも古様を感じつつ…

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まずは摂社の客(まろうど)神社。
「まろうど」とは…海を越えて寄りくる神。
講座で先生から教わったばかりです。
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正面は祓殿(はらいでん)。その後ろが拝殿、そして本殿となります。
檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が美しいですね。
客社の造りは本社と同様の構成になっています。

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           反対側から見て。両流造りの客神社本殿。

客社は摂社のなかで最も大きく、厳島神社の祭典はすべてここから始まるならわしです。

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                客社の祓殿、拝殿、本殿とも国宝。

御祭神は五柱の男神。やはり天照大神13_R.JPGと須佐之男命の誓約の際、さきの宗像三女神のあとに誕生した神々。
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は天孫ニニギノミコトの父神にあたります。

ちなみに厳島神社の神紋は三つ盛亀甲に剣花菱。出雲大社と同じです…
客神社の背後にみえるのは五重塔

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そして秀吉が建てた大経堂・豊国神社(千畳閣)です。
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秀吉が没したため、完成をみないまま現在に至っています。

五重塔と千畳閣は厳島神社の東の丘に建ち、客神社の借景になっています。

─さて社殿にもどり、

宮島八景のひとつ、鏡の池
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左手の円形のところ。たえず清水が湧き出ています。
回廊の釣灯籠は毛利輝元が寄進したのが始まりだそうです。

朝座屋(あさざや) 神職が参集するところで、朝の祭典の前に使われることが多かったためこの名があります。
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寝殿造りの対屋(たいのや)の特徴を持ちます。
こちら側(東側)は切妻屋根、反対側の屋根は入母屋造りです。
向こうに見えるのは本社本殿の屋根。


桝形(ますがた) 
廻廊と祓殿で囲まれたところ。
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旧暦617日に行われる管絃際には管絃船が楽を奏し、この桝形に入ってくるのだそうです。

卒塔婆石(そとばいし)と康頼(やすより)灯籠

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鹿ヶ谷の謀議により僧俊寛、藤原成経らと喜界ヶ島に流された平康頼が、母をしのんで二首の和歌を千本の卒塔婆に書いて流し、そのなかの一本が流れ着いた石という伝承があります。
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灯籠は許されて都に帰ってきた康頼が御礼のために奉納した灯籠。

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いよいよ本社です。宗像三女神のほかに30柱が相祀されています。
前方の祓殿は、客社と同様、三方に庇をつけた特徴ある建物でその後ろが拝殿です。
拝殿の屋根は入母屋造り。下から見上げると棟が二つ見え、その上を一つの棟で覆っていて、三棟(みつむね)造りというのだそうです。
本殿の屋根は見えにくいのですが、切妻両流造り。檜皮葺に瓦を積んだ化粧棟で寝殿造りの様式を伝えています。 
水平に広がる屋根の姿が優雅です。
高欄で囲まれているのは高舞台(たかぶたい)
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         本社祓殿から高舞台、大鳥居を見たところ。
祓殿は折上げ小組格天井で、
勅使が参詣されるなど特別なときに使われます。

拝殿前の高舞台(国宝)では舞楽が舞われます。
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舞楽は清盛が四天王寺から伝えたといわれ、
陵王・振鉾・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なおこの厳島神社で舞われます。
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見えにくいのですが、平舞台(ひらぶたい)の突き出ているところ、突端が
火焼前(ひたさき)。 ともに国宝です。
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         手前が右楽房。その右にあるのが右門客神社

そして平舞台の前、両側に門客(かどまろうど)神社と楽房があります。

門客神社は門をつかさどる豊磐窓神(とよいわまどのかみ)、櫛磐窓神(くしいわどのかみ)をお祀りします。

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楽房は舞楽のさい雅楽を奏するところ。

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手前が右楽房。 向こう側が左楽房。これらもみな国宝です。

インド・唐から伝わったものを左舞(さまい)といい、左舞を舞うときは左楽房で奏し、   満州・朝鮮半島から伝わったものを右舞(うまい)といい、右楽房で奏するのだそうです。
いつかここで舞楽を見てみたいものです。

天神社(てんじんしゃ)

菅原道真を祀る。古くは連歌堂といい、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていました。
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大国社(だいこくしゃ)
写真がないのですが、本殿の西側にあり、ご祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)が、本社御祭神のうちの田心姫命と結婚していますので、本社に近い場所にお祀りされているということかもしれません。

能舞台
永禄年間に毛利氏によって寄進されました。
日本で唯一、海に浮かぶ能舞台。
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切妻造り。立派な大瓶束(たいへいづか)。


反橋(そりばし) 
別名勅使橋といい、昔、勅使が参拝されるときに渡られたそうです。
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ひとまわり見学し終えました。
向こう岸をぼんやり眺めていると、
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鹿が境内を悠々散歩しています。ここではふつうに見られる光景?


下は、西方の多宝塔の辺りから眺めた神社です。
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まるで模型のように見えますが本物です(笑)。よく見ると手前の
西廻廊側が出口になっています。
ここから出てきたのです。
こちら側はごらんのとおり唐破風屋根です。入口は切妻屋根でした。


海上に浮かぶ鮮やかな朱色、水平に広がる社殿の美しさ、屋根も左右で異なる繊細な造り、取り合いの変化と調和。細やかな美意識が感じられます。
まさに清盛が実現した龍宮城であると先生からお聞きしたとおりです。

清盛が厳島神社を信仰した背景には、清盛が瀬戸内海を中心に勢力をのばしていったことがあげられます。

瀬戸内海は九州と近畿を結ぶ重要な交通路であり、清盛は博多から瀬戸内海をとおって大輪田泊(おおわだのとまり)までを結ぶ日宋貿易のルートをひらきました。
海を基盤として勢力をのばした清盛は、瀬戸内海の守り神としてうやまわれていた厳島神社を平氏一族の守護神としたのです。
清盛は福原に住むようになってより、たびたび千僧供養を行っています。
法華経の読経によって、海神、すなわち龍神が怒り風波が起こらぬよう、海路の安全を守る願いが込められていたのでしょう。

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六波羅蜜寺の清盛像 出家して後の法名は静海。
その信仰の深さは清盛が奉納した「平家納経」(国宝)からも知られます。長寛2年(1164)、清盛と平氏一族が神への感謝と来世の幸福を祈って厳島神社に納めた33巻のお経。
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その奉納内容と過程にはいくつかの疑問が残りますが、金銀をちりばめた料紙に書かれ、美しい絵と相俟って平安時代の美術作品のなかでも最高傑作のひとつとされています。

─大河ドラマではなかなか理解できない清盛像やその信仰について、ぜひとも堤先生の講座で、より深いお話をお聞きしたいと思います─
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     宝物殿
 当の「平家納経」はただいま出張中でした。

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    宝蔵
 宝物館や収蔵庫ができるまでは「平家納経」も
この宝蔵に納められていました。

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  三翁神社(さんのうじんじゃ)
  厳島神社の創建にかかわる佐伯鞍職が祀られています。


厳島神社のすぐ近くに大願寺(だいがんじ)35_R.JPGがあります。

大願寺は真言宗高野山派で、厳島神社の修理造営を司ってきた寺院。
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ここに祀られている弁財天は、江の島、竹生島とならび日本三弁財天の一つです。

一方、明治の神仏分離まで厳島神社の別当職であったのが、
弥山の麓にある真言宗御室派に属する大聖院(だいしょういん)。
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本尊は波切(なみきり)不動明王をお祀りしています。
本堂、魔尼殿(まにでん)をはじめ、随所にみられる彫り物や複雑な建築様式が見られます。
石段を上り、かなりくたびれていたのですが、いちめんに彫刻された玉眼の龍や獅子にゾクッとして目が覚めました。

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  魔尼殿 弥山三鬼神を祀る。圧倒されるような建築です!
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魔尼殿二階から
大聖院から弥山への登山道が見えます。
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さて、大聖院をあとに─

多宝塔
を経て、
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大元(おおもと)公園
へ。

大元神社 本殿は三間社流造り。
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     こけら葺が六枚重三段葺きの日本で唯一の建造物。

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夕暮れ時の静かな公園を散策し、
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清盛神社にお参りし…

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清盛神社 昭和29年に清盛のの遺徳をたたえ建てられた神社


大鳥居を見ると…干潮になっています。
あの大鳥居まで歩いていけるんですね!
たくさんの人がどんどん集まってきます。

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鳥居まで来て社殿が正面に見えると不思議な感じがします。
社殿までも歩いて行けます。
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満潮時とは水深2メートル弱くらいの差でしょうか。
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この大鳥居は島木のなかに石が入れられて重石となっているそうで、自重で立っています。
大鳥居に始まり、大鳥居で終わった一日。

明日はいよいよ弥山に登ります!

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翌日も天候に恵まれました。宮島へわたります。
いよいよ弥山(みせん)へ─
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バスと
ロープウェイで途中の獅子岩駅まで行くことができます。
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いい眺めです。怖いくらい……
獅子岩駅からは歩いて、まず弥山本堂を目指します。
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ところどころで休憩しながら、木の間から見える眺めに励まされつつ…
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本堂に近づくにつれて、巨岩がみられるようになってきます。
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太古の昔、ここが海の底であった証拠だそうです。
弥山本堂に到着です。
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弘法大師が弥山山上で護摩を焚き、百日間の求聞持(ぐ8_R.JPGもんじ)の修法を行ったところと伝わります。本尊は虚空蔵菩薩が祀られています。
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            清盛の三男、宗盛が寄進したという梵鐘。
本堂と向かい合う霊火堂(れいかどう)
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弘法大師が修法された当時から燃え続けているという聖火。その上に大茶釜が懸けられ、釜の湯を飲むと万病にきくといわれています。

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ここは日本で唯一、鬼神を祀るという三鬼堂(さんきどう)。
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主神は追帳鬼神(ついちょうきじん)で知恵の徳を司り、他は福徳の徳を司る時媚鬼神(じびきじん)、降伏(ごうぶく)の徳を司る摩羅鬼神(まらきじん)。
三鬼大権現(さんきだいごんげん)は大聖院の魔尼殿(まにでん)にも祀られています。大小の天狗を眷属に従え、強大な神通力で衆生を救うとされるのだそうです。
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      奉納された天狗の額がたくさん掲げられています。

追帳鬼神の本地仏は虚空蔵菩薩ですが、弥山本堂の本尊は虚空蔵菩薩でした。
初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれ、扁額は伊藤博文の字です。
やはり山岳信仰の色濃いところですね。
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さて、また出発。 巨岩、奇岩を通り抜け、
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くぐり岩
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やっと頂上にたどり着きました!

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目の前に瀬戸内の景観が広がっています。
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まるで雲の上から見おろしているような美しさ─。

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静かでおおらかで、遠い昔、神々が降り立ったであろうと思える風景。
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厳島に詣で、弥山に登り、海と山に囲まれたこの自然の中にさまざまの信仰の姿を見たような気がいたします。


               

京都・世界遺産講座 ご案内

京都・清遊の会
京都 世界遺産講座(京都会場)

第二期シリーズ開催のご案内!
京都の世界遺産を紹介する好評の京都・世界遺産講座。
待望の第二期シリーズを再開いたします
広い視野と深い知識でどこよりも面白く、
臨場感あふれるビジュアルを駆使した立体講座です。

第一期以上に
パワーアップした極上の京都案内を是非、ご堪能下さい。 
第二期 平成24年(2012
1回 3月18日(日) 醍醐寺    北文化会館
2回 4月21日(土) 上賀茂神社  職員会館かもがわ
3回 5月13日(日) 高山寺    職員会館かもがわ
4回 6月10日(日) 龍安寺    未定
5回 7月28日(土) 銀閣寺    未定
6回 8月18日(土) 下鴨神社   未定
(※午後130分~430分頃を予定しています。)
醍醐寺
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   幾多の勧進能が行われた下醍醐・清瀧宮
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       上醍醐山頂に建つ如意輪堂の雄姿

上賀茂神社
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上賀茂神社 優雅で気品あふれる賀茂人形

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何のための建物でしょう?
高山寺
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石水院ばかりが注目されますが、
高山寺の本堂はこちらです。P1070396.JPG
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土宜法龍に南方熊楠、
高山寺の隠れた一面もご紹介します。

龍安寺
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意外に知られていない垣根・龍安寺垣
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有名な石庭を囲む土塀。
ここでしか聞けない話満載の講座です。

銀閣寺
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将軍義政は果たしてどんな気持ちで
この景色を眺めたことでしょう。
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一色に万色を見、一音に万音を聴く。
下鴨神社
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水の神が降臨するという磐座・橋。
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目玉のまっちゃんこと尾上松之助。

高田保馬に吉見昭一などなど、
これも下鴨神社の光彩です。

第三期講義内容予定(第二期5回以降にお知らせいたします)
第三期
9月 天龍寺   10月 東寺

11月 清水寺   
12月 西本願寺
1月 平等院   2月 西芳寺
会場
原則として京都市北文化会館(北大路ビブレ内)および
職員会館かもがわ
中京区土手町通夷川上ル末丸町284
TEL 075-256-1307  
市バス「河原町丸太町」徒歩5分
京阪電鉄「神宮丸太町」駅 徒歩5分)を使用いたします。
変更の場合はその都度告知致します。
ご参加費
各回お一人3000です。
第二期シリーズ以降お申し込みの場合、
6回分一括ご入金の方は、合計
18000円を15000円に割引させて頂きます。
各回ごとのお振込みか、各期ご参加回一括でのお振込みかどちらかをご選択下さい。
各回ごとのお申し込みの場合、各回開催時に次回のご案内を配布致しますので、その都度お申し込み、お振込み下さい。
各回振込の方は、開催日の一週間前までにご入金下さい。
申し込み要領
① 本ホームページ右肩の「京都・清遊の会 参加お申し込みはこちらから」より必要事項をご明記のうえ、お申し込みください。
② お申し込みの後、参加費をご入金下さい。恐れ入りますが、振り込み手数料はご負担下さい。③ 入金確認後、講座当日の1週間前に事務局より参加証を送付致します。当日ご持参、ご提示下さい。
○お振込先  みずほ銀行   出町(でまち)支店(587) 普通 1161285
名義  京都 清遊の会 

申し込み〆切
お申し込みは随時受け付けております。
ただしレジュメ作成の都合上、事前申込制とさせていただきますので、ご参加回の一週間前までにお申し込み下さい。
世界遺産現地案内について
各世界遺産の座学と連動し、実際に各社寺を訪れて行う現地案内は講師の体調と相談で順次開催いたします。現地案内の参加費用につきましては、拝観料や交通費などの都合で変動しますので、その都度別途ご案内致します。
講師紹介 堤 勇二
1958年生まれ。同志社大学文学部卒業。京都学園大学非常勤講師。京都の出版社で京都検定公式テキストの編集を始め、京都関係、日本の伝統文化・芸能書籍の編集を経て、現在フリーの京都学講師。京都商工会議所の京都検定講座や各新聞社主催の文化センター京都関係講座などを行う傍らさまざまなテーマで京都の奥深さを発信する。主著に「京都・祇園祭手帳」「京都・世界遺産手帳」など。
  皆様のご参加をお待ちしております!
京都・清遊の会 事務局  

6038341 京都市北区小松原北町13530108
TEL&FAX 075-465-9096     e-mail: info@kyo-seiyu.net
URL
http://www.kyo-seiyu.net

節分ご案内 報告

23日、節分案内を行いました。
雪が舞う底冷えの前日とはうってかわり、すっきり晴れて暖かい日になりました。

聖護院で集合し、まずは須賀神社へ。
この聖護院から吉田神社辺りにかけてはたくさんの人で賑わっています。
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須賀神社では今はもう有名になった烏帽子に水干姿の「懸想文(けそうぶみ)売り」
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梅の枝に懸想文を結んでいます。
 
本殿にお参りします。
右が須賀神社。左は交通神社です。
 
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須賀神社は、鳥羽上皇の中宮・美福門院得子の御願寺、歓喜光院の鎮守社として創祀され、
東天王社にたいして西天王社と称した歴史があり、須佐之男命、櫛稲田比売命が祀られています。
そして昭和39年に須賀神社から分祀し、創祀されたのが、左の交通神社。
久那斗神(くなどのかみ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)の御祭神は道が八つにわかれる衢(ちまた)の神で交通の要衝を守るとされます。

堤先生に昨秋の講座で教わったとおり、今年は、『古事記』が成立して
1300年とのことから、この三座のお話をさせていただきました。

もともと当社は旧聖護院村の産土神(うぶすながみ)。
毎年510日に行われていた「角豆祭り(ささげまつり)」は、角豆に多くのさや豆が生まれるごとく子孫繁栄を願っての祭りでしたが、今は節分の「懸想文売り」にとってかわりました。

長い時間を経て、土地の産土神を祀る神社から、季節を司る祭りや、祭神を分祀し本来の祭神を祀る神社への移行には、現代に適った役目を負う決意が表れているといえます。


懸想文売りが覆面をしているわけを聴いたり、懸想文は鏡台や箪笥にしまっておくと美人になるとか良縁がくると聞きました…。
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数年前から売られているという須賀多餅もおいしそうです…。

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求肥にくるまれた柚子風味と梅風味
そしてこの木が角豆(ささげ)の木です。
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さて須賀神社を出てお辰稲荷へ。
お辰稲荷神社は、江戸時代、東山天皇の女御・新崇賢門院(しんすうけんもんいん)の霊夢によって創祀された神社。
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宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、猿田彦神、天宇受売神を御祭神としています。
琴の上手なお辰狐を祀るといわれ、江戸庶民の信仰を集めたお社。

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さて、歩道橋を上り、丸太町通りをわたりました。
(誰かさんなら上れなかったでしょう。でも全然怖くないですよね!)



気持ちいいですね。前方は東山の山並み。右手の塀は平安神宮。
ちょうど、美福門院の歓喜光院があった辺りでしょうか。

丸太町通を南に折れ、岡崎道へ。

岡崎道西北の交差点には小沢蘆庵(江戸時代中期の歌人)旧宅で、また蒲生君平(江戸時代後期の儒学者。寛政の三奇人のひとり)の旧宅でもあった碑が建っています。
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岡崎道から平安神宮の塀に沿って西へ。
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向こう側中央に見えているのは京都市美術館。
手前のグラウンドは鳥羽天皇の御願寺、最勝寺の跡。そして美術館の辺りは鳥羽天皇中宮・待賢門院璋子の御願になる円勝寺があったところ。

平安時代末、この辺り一帯は、正確には北白河と呼ばれていました。
白川をはさんで南側は南白河と言ったのだそうです。
北白河は貴族が住み、六波羅を中心とした南白河は武士が住んだところであったそうです。
さて、平安神宮に着きました。
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ここで平安朝当時の「追儺式」が再現され、「大儺の儀」が執り行われます。

碧の瓦や社殿の朱色が鮮やかです。
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いよいよ大儺の儀(だいなのぎ)が始まります。


東の方から上卿(しょうけい)・殿上人(でじょうびと)が童(わらわ)をしたがえて入場し、五位・七位の儺人(なびと)が続きます。
西の方からは、陰陽師(おんみょうじ)が6人の斎郎(さいろう)をひきいて入場しました。
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儀式をつかさどる陰陽師が独特の歩き方で版の前に進み、祭文(さいもん)を奏上。
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文の途中で黄金4つ目の面をつけた大舎人(おおとねり)の方相氏(ほうそうし)がシンシ(子どもの所役)8人をひきいて入場。 

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上卿が中央に進み、北東と北西に向かい桃の弓で葦の矢を射ます。
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殿上人が同様に桃の杖で、北東・南東・南西・北西と四方を撃ちます。

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方相氏は常人の倍の眼力で睨み、矛と盾を打ち鳴らし「鬼やらう」と発声しながら、斎場の周囲を3度廻ります。
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後にはシンシと儺人(なびと)が「鬼やらう」と発声しながら続きます。
応天門でも同じ儀式が行われました。
 
つぎは鬼の舞です。

大蔵流、茂山社中扮する邪鬼たちが応天門より侵入してきました。


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境内をわが物顔で暴れます。
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大極殿まで占拠したようです。
ここで得意げに舞を舞っていますが…。
やがて市民代表の撒く打豆によって退散!


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そのあとは楽しい豆撒きが始まりました。
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みなさん、たくさんキャッチできたようです。
 
さて平安神宮を後にして─。
いつもは観光バスの駐車場ゆえ、バスに隠れてみなさんあまりご存じないですが…

京都守護職屋敷の門
にきました。

現在の京都府庁付近にあった京都守護職屋敷の門の一つを
明治32年(1899)前後に現在地の旧武徳殿前に移した立派な門です。
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旧武道専門学校最後の校長であった鈴鹿野風呂の句碑
「風薫る左文右武の学舎跡」

旧武徳殿は、桓武天皇が武技を奨励するために東西に置いた武徳殿に由来しています。

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いまは北側に武道センターが建っています。

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ちなみに京都府庁の敷地内には幕末におかれた京都守護職屋敷跡の碑が建っています。


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               京都府庁 上京区下立売通り釜座
疏水を西側にわたり、京漆器の老舗、象彦へ。

まずは代々伝わる雛人形や、それに付随する見事なミニチュアのお道具の数々を見学。豆粒ほどのお道具が実に精巧にできていました。

展示場では、漆の木地の薄さに驚いたり、塗りの種類を教えてもらったり、漆の意外な性質に耳を傾けました。日本古来のものですが、知らないことばかりです。
圧巻は蒔絵の筆の秘密でしたね! 

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あっというまに時間が過ぎ、節分案内は解散とさせていただきました。
節分を越えると、まだまだ寒さは厳しくとも一歩ずつ春に向かいます。


春にはまた皆様とご一緒に町を歩いてみたいと思います。

その折にはどうぞよろしく!
京都・清遊の会では皆様のご参加を心よりお待ちしております!
   

清遊ブログ  岡崎にて 六勝寺のことなど

今日は左京区岡崎にやってきました。
来月の節分案内の下見を兼ねて、細見美術館で展観中の「三井家と象彦漆器―華麗なる京蒔絵」展を見る目的もありました。
昨年には東京日本橋の三井記念美術館でこの展示をご覧になった方も多いのではないでしょうか。
三井家とその愛顧を受けて象彦が創り出した京蒔絵の数々は素晴らしく、近代京都の漆芸を見る絶好の機会といえそうです。


さて、細見美術館は東山二条から二条通りを東へ、ちょうど琵琶湖疏水と交差する北西角にあります。
屋上というのでしょうか、階上のお茶室の前からは辺り一帯が見渡せます。

二条通りを東に向かって眺めると、左手は京都会館。右手は手前から京都市勧業館、その向こうは京都府立図書館、そしてその向こうにわずかに市立美術館の屋根が見えます。
東山の連なりが屏風のように正面に見えています。
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岡崎と呼ばれるこの辺り一帯は、明治28年の内国勧業博覧会の敷地跡に整備されて以来、今や文化・芸術・音楽などの施設が集合した京都の文化的ゾーンとなっていますが、
もとは藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)の別業の地であったところです。
「白河」と呼ばれ、院政期において白河上皇の離宮・白河殿、得長寿院、またその東南は法勝寺を始め「勝」のついた6つの寺院・六勝寺などが建立された土地でありました。

堤先生からご教示を受けたことなどたどりつつお話をしてまいります。


六勝寺

平安時代末期、藤原師実(もろざね)からこの地を献上された白河天皇は法勝寺を創建。
そして堀河天皇御願の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、鳥羽天皇中宮待賢門院璋子(たまこ)の円勝寺など六つの寺院が次々に創建されました。


──見渡してみますと、
この二条通り=二条大路は平安京において京都のメインストリートでした。
二条大路は上京と下京を分ける分岐でもあり、内裏を中心とした公家の屋敷が並んでいたといいます。
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──南側のこの一角は六勝寺のうち、最後6番目に営まれた近衛天皇の御願になる延勝寺があった辺りです。
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近衛天皇(第76代天皇)──
鳥羽天皇の第九皇子で、美福門院得子との間に生まれ幼名を体仁(なりひと)。
父である鳥羽天皇に寵愛されていたため、鳥羽は崇徳天皇を譲位させ、代わって二歳の体仁を即位させたが、生来病弱で、15歳の時には失明の危機に陥り、退位の意思を摂政である藤原忠通に告げたが慰留、しかし17歳で崩御。
近衛天皇には子がなく、鳥羽法皇が没すると崇徳院(すとくいん)側と後白河天皇側が帝位を巡って対立し、これが保元の乱の原因となりました。
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──写真右端のほう、見えづらいですが、二条通りが東大路通りと交差するところ(東山二条)、その東大路通り西側は、平清盛の父、平忠盛が備前守のとき鳥羽院に得長寿院を造営寄進し、三十三間のお堂に千躰仏を奉ったところです。
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このことで忠盛は昇殿を許され殿上人となり、やがてそれを憎んだ公卿たちが闇討ちを企てます。有名な『平家物語』「殿上の闇討ち」のお話です。
清盛が後白河天皇に造営したのが今の蓮華王院(三十三間堂)ですが、清盛より早く忠盛が三十三間堂を建てていたのですね。
南北に細長いこの得長寿院は残念ながら元暦2年(1185)の地震で倒壊しました。


そして得長寿院の向こう、西側に白河院の院御所・白河殿の南殿、北方には白河北殿がありました。
この白河北殿はのちに保元の乱のさい、崇徳院側の拠点となってゆくのですが…。
地図でおおよその寺域を囲みましたので、ご覧ください。
お見づらい点ご容赦ください。

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──さて、もとに戻って、写真左手、北側は京都会館の屋根が見えていますが、そのまた北側には堀河天皇の御願になる尊勝寺がありました。
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現在の旧武徳殿や京都市武道センター、平安神宮の一部の敷地がそうです。
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旧武徳殿は、桓武天皇が武技を奨励するために東西に置いた武徳殿に由来し、
明治32年、平安建都千百年記念事業として建てられました。

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重要文化財。堂々たる建築ですね。
尊勝寺は法勝寺の次、二番目に建てられました。

──さて、それではいよいよ二条通りを東へ進んでみましょう。

勧業館を過ぎて、右手(南側)が京都府立図書館。
ここは崇徳天皇の御願になる成勝寺があったところ。
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            京都の産業の近代化に貢献したドイツ人、
ワグネルの記念碑が建っています。


六勝寺は結果的には衰退、廃寺となりますが、この崇徳院の成勝寺は最後まで残っていたそうです。

──神宮道をわたると右側は市立美術館。
ここは鳥羽天皇中宮待賢門院璋子の円勝寺があったところ。
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そして左側(北側)は岡崎公園グラウンド。
ここは鳥羽天皇の御願による最勝寺のあったところとされています。
向こうに平安神宮が見えています。
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夫婦の御願寺が一応、向かい合って建っていました…。


鳥羽天皇(第74代天皇)──
堀河天皇と藤原い(草冠+以)子との間に生まれる。
生後まもなく母・い子が没し、祖父である白河天皇に引き取られ養育された。
父である堀河天皇崩御後、五歳で即位したが、政務は白河法皇が院政を行った。
白河天皇の養女である待賢門院璋子を中宮とし、璋子との間に出来た第一皇子・顕仁親王に譲位した。これが第75代崇徳天皇。
しかし、崇徳は実際には白河天皇と璋子との間にできた子で、鳥羽はそのことをうすうす知り、崇徳のことを「叔父子(おじご)」と呼んで疎んじた。
璋子は後宮のみならず朝政にも権力を持ったが、白河法皇没後後ろ盾を失い、鳥羽は退位後に入内させた藤原得子を寵愛し、得子は呪詛事件を理由に璋子の実権を奪い、美福門院として璋子に代わり絶大な権力を握ることになる。
鳥羽天皇は寵愛する得子との間に生まれた体仁(なりひと)親王を即位させるため崇徳天皇に譲位させた。これが第76代近衛天皇。

まさに不穏な様相を呈しています…。


法勝寺

──右手に動物園の看板が見えてきました。
しかし…二条大路はここで終わりです。
(今は道路が続いていますが。)
信号のあるところが突き当たり。
ここからが法勝寺です!


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これこそが平安末期に君臨し、院政を執り、その権力を誇った白河天皇の御願寺。
白河天皇が六勝寺のうち第1番目に創建した最初で最大の寺。
右手前方にはかの八角九重の塔がそびえ、威容を誇っていたことでしょう。

六勝寺の構想を仕組んだともいえる人物、白河天皇の法勝寺とはどんな寺だったのでしょう。

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                   法勝寺模型(京都アスニー)

南に回って、南大門を入ると池の中島の中央、真正面に高さ82メートルともいわれる八角九重の大塔がそびえ、
その向こうには金堂、講堂、薬師堂が南北一直線上に並び、西側に阿弥陀堂、その向こうに五大堂。北に法華堂があります。
金堂からは翼廊をめぐらし、経蔵と鐘楼につながり、前は南庭(だんてい)となっています。
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金堂の本尊は3丈2尺という毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。
講堂には釈迦如来像。阿弥陀堂に丈六の九体の阿弥陀如来像。五大堂には不動明王。

白河天皇の造仏は大きさ、種類、数において並はずれていたそうで、
法勝寺と尊勝寺の造仏を、のちに最勝寺となる白河仏所で行っていたのだそうです。

毘盧遮那仏を安置する金堂は奈良仏教を、五大堂は平安の密教を、阿弥陀堂は浄土信仰をうけついだもの。
法勝寺はそれまでの仏教を総合した寺ということになります。
のちに慈円が『愚管抄』で「国王の氏寺」と称したとおりです。


白河天皇(第71代天皇)──
後三条天皇の第一皇子。
白河天皇は中宮賢子を溺愛し、賢子が重態となっても慣例に反して宮中からの退出を許さず、没すると亡骸を抱いて号泣し、食事も摂らなかった。
そのため権中納言源俊明が天皇は死穢に触れてはいけないと進言すると、「(宮中の前)例はこれから始まる」と言い放った逸話は有名。
賢子は摂政藤原師実の養子。白河天皇が即位三年目に建立を始める法勝寺の地は先述のとおり師実から献上されたもの。
祇園女御という妾を寵愛。さらに祇園女御の妹も愛し、この妹はのちに平忠盛の妻となるが、すでに白河院の子を宿しており、これが清盛という通説が生まれた。

──法勝寺の寺域をどんどん進みます。
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白河院の看板が。
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ここは名前も白河院という宿泊施設ですが、この庭園が法勝寺の釣殿あたりになりそうです。
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法勝寺のみでも広大な寺域ということがよくわかりました。
六勝寺となるとほんとうにその規模の凄さに驚いてしまいます。


法勝寺の「法」とは仏の教え。現世のしがらみに勝って、来世の成仏を願う意ゆえ。
また、「法」は「水(サンズイ)」を「去る」の意。鴨川や白河の近くゆえに、水害に遭わないようにと。


白河の地は平安末期に君臨した白河院が、みずからの後生と一族の菩提を弔い、また皇統の弥栄を願ってつくったまさに宗教王国、仏国土でありました。
内裏では政治に現世への執着を、白河の地では仏に来世への願いをこめ、鴨川を挟んで洛中と洛外、西と東に白河院の政治的、宗教的…野望、おん念が渦巻いていたといえましょうか。


昼と夜の両方で政治を牛耳ろうとした白河院が、自らが集めた権力と財力の限りを使って、自分の、そして自分たちの一族のためだけの来世での繁栄を願って建てたこの仏国土は、やがてはそのあまりにもさもしい心根のために一炊の夢と消えたのです。

そして、まもなく襲ってくる時代…
戦乱の都

保元元年(1156)、京都を戦乱の渦に巻き込んだ「保元の乱」、それに続く「平治の乱」、時代は「武者の世」へと変貌してゆきます。

崇徳天皇(第75代天皇)──
鳥羽天皇と待賢門院璋子との間に生まれた鳥羽天皇の第一皇子。実際には白河天皇と璋子との間に生まれた子。
そのため父の鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、崇徳の次の天皇に鳥羽と美福門院得子との間に生まれた体仁親王(=近衛天皇)を立てることを強要。
自分の子供のままでは皇子・重仁を即位させることはできないと感じた崇徳天皇は重仁を得子のもとに養子にいれ、養育させる。
これで近衛の次の天皇は自分の子である重仁となると思っていた崇徳天皇であったが、近衛天皇が死去すると、宮中では崇徳天皇が藤原頼長と結んで近衛天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに不快感を示した鳥羽上皇は重仁の即位を取りやめ、崇徳の弟である雅仁(まさひと)親王を即位させた。これが後白河天皇。
この後白河天皇の即位、そして院政を敷くこともできなくなった崇徳院を強く恨ませ、保元の乱へと突き進んでいくことになります。


鳥羽上皇が亡くなるや、この皇位継承争いは摂関家内部の争いを巻き込んで、武士の手を借り、白河北殿に立てこもる崇徳側と高松殿を陣所とする後白河側との戦いとなりました。
鴨川を挟んで、京の市街ははじめて戦さに巻き込まれたのです。
勝負は後白河側の勝利。
崇徳は讃岐に流され、かの地で亡くなります。

みずから舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」としたためた話は崇徳院が怨霊と化してゆく話として知られています。
以後、恨みをのんで亡くなった崇徳院は怨霊と怖れられ、明治天皇は1868年に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、その御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建しました。
そしてようやく明治と改元されたのでした。

後白河天皇の御所・高松殿跡は中京区姉小路釜座東入ル。
いま高松神明神社としてその名を伝えています。

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崇徳院の立てこもったという白河北殿跡は石碑が寂しく建っているのみです。
京都大学医学部付属病院の南側に位置します。
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この一角はずいぶん以前からこのように空地のような寂しいところです。黙して語らずのごとく…。
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おわりに


このブログを書くにあたり、堤先生からさまざまのご教示をいただきましたが、最後に先生のおっしゃったことが響きます。


「どんなに立派な建物であっても、私利私欲の気持ちが入って建てられた建物は今残っていません。自然にしろ、火災にしろ、破却されたにしろすべて失せてしまっています。しかし、私利私欲がなく万民のために建てられたものは残り、その役割を伝えてくれている」と。


このブログでお伝えした往時の建物は今は何一つ残っていません。
その地を歩き、その地が語ってくれる、その声を聴きとるしか過去の歴史を偲ぶことはできません。

明治28年、平安建都千百年を記念して、この地に京都の精神的支柱というべき平安神宮が創建され、さらに武徳殿、図書館、美術館などが次々に建てられました。
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まさに万民のために建てられ、近代の文武両道を目指した施設の数々。これらは必ずや後世に引き継がれていくのでしょう。


武徳殿の正門東側の植え込みに鈴鹿野風呂の句碑があります。

 風薫る左文右武の学舎跡


この白河の歴史もまたこの地が語る声を聴いていただけたなら幸いです。

 

清遊ブログ  辰歳はじめ 雪の朝に

新しい年が明け、初めての雪が降りました。
雪は吉兆のしるし。
ことしが佳き年となりますように願い、折々に再びブログを書かせていただきたいと思います。
相も変わらず拙いものですがご覧いただければ幸いです。

うっすら雪化粧した町の風景。
朝方はかなり降っていたようですが、だんだんやんできました。じきに融けてしまうかもしれません。
まずお山(比叡山)を見たいと思って出てきたのですが…。
北山通りを賀茂川に出て、加茂街道を南へ。
残念ながら曇っていて見えません。代わりに薄化粧した大文字山の姿が。これは京都に住んでいると馴染みの風景かもしれませんけれど。
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やはりホームグラウンド?の大徳寺山内に戻って来ました(笑)。
高桐院の石畳。翠の松が雪を被って新年にふさわしい趣。
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そういえば、お気づきかもしれませんが、このホームページの表紙デザインも高桐院の雪景色です。

北側に回って竹林を見上げるとしんとして澄んだ空気。
粉雪が舞っています。
耳を澄ますと鳥のさえずり。
風が吹いて竹がざわざわ鳴る音。
聞こえるのは自然の音だけです。
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向かい側の龍翔寺。龍翔寺は修行道場ですが、そのせいでしょうか、やはりピンと張りつめた空気を感じます。
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ここはいつ来ても静かで清々しいところです。

大徳寺は龍宝山の山号を持ちますが、山内の塔頭も龍の名を冠するところがいくつかあります。
この龍翔寺もそうですし、龍光院、龍源院、龍泉庵なども。
大徳寺の近くの船岡山には東麓に大池があり、山の東端が池中に突き出し、それが海に浮かぶ大船のようであったところから船岡と呼ばれたと堤講師から教わりました。
その大池に棲む龍という意から大徳寺を龍宝山と名付けたのだそうです。

さて、新年も5日ともなれば町の中は日常の顔に戻っています。
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なにやら面白そうなものを見つけました。

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ここは堀川今出川の交差点。和菓子の鶴屋吉信さん。
表のディスプレイは「嵯峨面」と餅花のお飾りでした。
嵯峨面は十二支のお面が並んでいます。
(子、丑、)寅、卯…。
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ありました!辰…お隣は来年の干支・巳さんですね。
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午、未…。
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嵯峨釈迦堂(清涼寺)では古くから大念仏狂言が行われていますが、この大念仏狂言で使われる面を模して作られたのが嵯峨面だそうです。
江戸時代以降、厄除けや魔除けとして寺社の門前で売られていましたが、戦時中に完全に途絶え、復興したのが、初代藤原孚石氏。
赤鬼、青鬼、お多福、ひょっとこ、武悪面、不動明王などあり、それぞれに素朴で味わい深いものです。「張り子」といわれる手法で、古書をさばいて面型に張り込んで作られているのだそうです。
 餅花にも辰が飾られて、愉快そうに空中でゆらゆら踊っています。
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嵯峨面に誘われて広々した店内へ。
ウインドウを覗きこみ…いろいろと迷いながらも、辰()の意匠から主菓子と干菓子を選びました。
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主菓子のじょうよ饅頭は龍頭の宝船。
龍頭というと大沢の池、観月の風景を連想してしまいますが、宝船となるといっそう豪華ですね。
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お干菓子は辰車。かわいらしい辰です。
 
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こんなものもありました。この本店だけで販売されている「観世井」のお菓子。
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すぐ近くの西陣中央小学校に、足利義満から観阿弥清次が拝領したと伝わる屋敷地があり、観世水
(かんぜみず)と呼ばれる井戸跡があります。

この井戸の渦を巻いて湧く波紋が観世流の紋様である水巻模様のもとになったといわれ、井戸の脇にある観世稲荷社には観世龍王と一足稲荷が祀られています。
昨秋、紫野・西陣案内で訪ねたばかりですが、「観世井」のお菓子を見て思い出してしまいました。
この鶴屋吉信本店の前には「舟橋」の石碑が建っています。

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古くから舟橋と呼ばれ、堀川が氾濫すると舟をつないだところからそう呼ばれた由。
また「京町鑑」では足利尊氏の執事・高師直の邸があり、泉殿の下に舟橋をうかべて結構をつくしたのが地名になったと記されている等。
ご存じのとおり、なによりここは応仁の乱で西軍の山名宗全らの陣がおかれたところ。もう少し西に行くと今出川通りに「西陣」の碑が建っています。
またまたローカルなご紹介になってしまいました。
ローカルついでに、昨秋のご案内の折にはまだ咲いていませんでしたので、
妙蓮寺椿と、同じく妙蓮寺のお会式桜をご覧ください。
いずれも年末に撮ったものです。
 


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すこし華やいだ気分になっていただけたでしょうか。
このブログでは季節の風景、風物といったものをご紹介したいと思っておりますが、どうなりますことやら…。
どうか気長にお付き合いください。それではまた。