謹賀新年

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新年明けまして
おめでとうございます

平成二十四年 壬辰年の始まりです。
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「龍」一字

皆様、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

昨年は未曾有の大災害に堤講師の大病と、
まさに逆風の一年となりました。
被災者の方々はまだ
言語に絶する困難と直面しておられますし
堤講師もまだ次の手術を控えています。

新玉の年の初めとはいえ、胸のうちは

深草の野辺の桜し心あらば
今年ばかりは墨染めに咲け 
上野岑雄


という歌の心境ではあります。

しかし、こんなときだからこそ下を向かず
前を向いて歩いて参りたいと思います。
その意味を込めて冒頭に
ある方の、茶碗と龍の大字
の写真を掲載しました。
この豊かな彩りに満ちた作品と
躍動感溢れる書を
是非心の隅にお留め頂ければ幸いです。

むかし見し救世観音のほほ笑みを
年の初めにかへりみまつる
 吉井勇
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救世観音(資料画像)

京都・清遊の会では、昨年活動を休止した分を取り返すべく
本年は精力的に催しを行っていきたいと思っています。

状況次第ではありますが、
本年は今月七日の堤講師の特別講座を皮切りに
中断していた世界遺産講座は三月から再開予定、
五月には大河ドラマにちなんで
清盛と中世芸能の世界

をテーマに堤講師と井上講師の対談と
井上講師による白拍子舞
さらには吉例の季節の和菓子講座も企画しています。

どうぞ、皆様には倍旧のご支援を賜り、一人でも多くの方が
ご参加下さいますよう、心よりお願い申し上げます。
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京都岡崎・須賀神社 手水鉢の龍

清遊クイズ

辰歳に寄せて 清遊クイズ!

平素より京都・清遊の会の催しにご参加頂き、有難うございます。
1月7日開催予定の堤講師の「続 堤流京都の学び方」の当ブログご案内に掲載した写真の場所はおわかりになりましたか?

①の寺院は「鹿王院」
②の神社は「藤森神社」
③の神社は「梅宮大社」でした。

いずれも堤講師お気に入りの社寺だそうです。
易しかったですか? 難しかったですか?
何気なく載せたのですが、結構好評でしたので、このような写真問題を適宜当ブログにて掲載しようと思います。
それぞれの解答は約半月からひと月後くらいに掲載します。

では問題。
来年は辰歳です。
初詣にはおそらく辰(龍)にゆかりの神社が賑わいをみせることと思われます。
そこで、辰にゆかりの神社や人物に関するクイズを出題します。
何も見ないで即答できた方は相当な京都通です。

神社編
辰の名を持つ神社です。
画像をみてどこの神社か当ててください。
次にその神社にゆかりの問題を出題します。

難易度レベル1
①どこの神社でしょう。
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関連問題
①の神社には「お辰きつね」という琴の得意なキツネが祀られているとされていますが、このお辰きつねと並んで「京の風流きつね」とされるのはなんというキツネでどこに祀られているでしょう。

 

難易度レベル2

②京には辰巳稲荷の名を持つ社がいくつかあります。
有名なのは祇園巽橋のたもとに鎮座する辰巳大明神ですが、写真の辰巳稲荷はどこの神社の境内に祀られているでしょう。
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関連問題
②の社が祀られている神社にはある有名な日本画家でもある文人が宮司を務めていました。さてその文人とは誰でしょう。

②の社が祀られている神社の境内には、ある有名な日本画家ゆかりの枝垂桜が見事な花を咲かせます。ではその日本画家とは誰でしょう。


辰といえば龍。
京都には龍の絵が描かれた禅寺の法堂や龍が描かれた襖絵を持つ寺社などが数多くありますが、なかでもとりわけその圧倒的な存在感で知られる拝殿をもつ神社があります。

難易度レベル3
③東山区にある神社の拝殿天井です。長さ8メートルという木彫りの龍が超弩級の迫力を見せています。辰歳に初詣で賑わいそうなこの神社とはどこでしょうか。
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関連問題
③の神社はある百貨店を創業した一族が代々深く信仰し、多くの援助を行ったことで知られています。現在の社殿の多くもこの一族の寄贈になります。この百貨店と一族の名前は何でしょう。一族名は○○家で結構です。
お分かりになりましたか? 易しかったですね(笑)
では、次に参りましょう。

人物編
次は名前に「辰」の字を持つ京都ゆかりの人物に関する問題です。
肖像写真を見てその人の名前を答えましょう。
各人物につき、その人を象徴する画像を二枚つけていますので、ヒントにしてください。

難易度レベル1
④この人物は誰でしょう? 建築家です。
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ヒント1 旧日本銀行京都支店
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ヒント2 旧第一銀行京都支店
関連問題
④の人物に薫陶を受けた人物で、平安神宮や祇園閣を設計したことで知られる建築家は誰でしょう。

難易度レベル2
⑤この人物は誰でしょう? 工芸作家です。
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ヒント1 耀貝螺鈿蒔絵箱
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ヒント2 カフェ進々堂
関連問題
⑤の人物が柳宗悦の呼びかけに応じて、浜田庄司、青田五良らと設立し、京都における民芸運動の拠点となった団体の名称は何でしょう?

難易度レベル3
⑥この人物は誰でしょう? 歴史学者です。
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ヒント1 嵯峨本(謡本)
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ヒント2 祇園祭
関連問題
⑥の人物は日本史研究に多大な貢献を果たしましたが、とくに芸能史研究に顕著な足跡を残しました。では彼が芸能史研究を行う上で三つの柱とした研究とは、部落史研究、地方史研究ともう一つは何の研究でしょう。
如何でしたか?
年末も押し迫ったこの時期にまた頭の痛いこと!
と思っておられる方もおられるでしょうか(笑)
この答えは1月7日の特別講座でも
講師からお答えと解説があるとは思いますが
このブログでも来月半ばには解答を掲載する予定です。
当初は清遊検定といったものにしようか
とも思いましたが、あまりハードルを上げると
自分の首を絞めそうなので(汗、汗)
清遊クイズ、としてとりあえずスタートすることにします。
皆様、年末年始のひととき。
当クイズでしばし京都に思いを馳せていただき、
また新たな京都の魅力発見の旅に
京都・清遊の会の催しとともに出かけましょう!
今年一年間本当にお世話になりました。
また、皆様にはご迷惑をおかけし
申し訳ございませんでした。
来年こそは素晴らしい年になりますよう
心より祈念いたしております。
どうぞ、どうぞ、皆様良いお年をお迎え下さいませ。

鷹ヶ峰界隈を歩く 報告

11月19日、鷹ヶ峰の三つの寺院を訪ねました。
鷹ヶ峰は、京都市内の北方に位置し、三ヶ峰(天ヶ峰・鷲ヶ峰・鷹ヶ峰)を望む静かな土地。
江戸の始め、本阿弥光悦が徳川家康から土地を与えられ、一族・縁者ともに移り住み、芸術村をつくったといわれますが、
光悦をはじめ、ここに住んだ人々は皆、熱心な法華宗の信者であり、信仰によって深く結びついておりました。
鷹ヶ峰街道の坂道を上ると、突き当たりが「源光庵」。この一角に、今回訪ねるお寺群が並んでいます。
(当日も含めて写真の撮影日はさまざまです。)
まずは、圓成寺(えんじょうじ)へ。
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通称を岩戸妙見宮(いわとみょうけんぐう)といい、目の神様である妙見様をお祀りされていますが、
山号を清雲山、寺号を圓成寺という日蓮宗の寺院でもあります。

当日は朝からあいにくの雨。
午後になり、妙見さんに着く頃にはすこし明るくなってきました。
妙見宮は古代の古墳をそのまま利用したもので、前室が拝殿、玄室が本殿となっている見るからに不思議な建物です。
本尊は妙見大菩薩。妙見大菩薩とは北極星と北斗七星を神格化した菩薩のこと。
その姿は亀の背に乗り、右手に剣、左手に蛇を持ち、頭上に北斗星を戴いておられます。
眼光は鋭く、犯しがたい厳しさのなかにも慈愛に満ちておられます。
妙見大菩薩は別名、玄武神とも、また道教にいう泰山府君の別名として鎮宅霊符神とも呼ばれます。
妙見宮の歴史は桓武天皇による平安遷都に遡ります。
遷都にさいして、内裏の四方に妙見大菩薩を祀り、王城鎮護を祈願する官寺が建てられました。
それが霊巌寺というお寺で、現在の五山の送り火の一つ、舟形で有名な船山の南麓に
あったと伝えられています。

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江戸時代になり、本満寺の日任(にっとう)上人がこの地に復興、妙見霊場とされました。
妙見宮では毎月、一日と十五日に開扉され、ご本尊を拝むことができます。

境内をまわり、住職の代替わりに際して姿を現すという白蛇を祀る白雲弁財天、
痔の神様として著名な秋山自雲霊神(しゅうざんじうんれいしん)、
この寺が修行の寺であることを示す巌門(いわと)の滝、
築城の達人として知られる加藤清正公が勧請したという大黒天像、
さらに江戸時代の儒者で千宗旦四天王と呼ばれる弟子のひとりである三宅亡羊(みやけぼうよう)の墓などを見学しました。
今年は暖冬の影響で京都の紅葉はいまひとつ見どころに乏しいなか、ここの境内は見事な色づきを見せており、
境内の緑の苔に映え、雨の滴がしたたり、実に素晴らしい佇まいでした。これは実際に行った方でないと味わえないものです。

圓成寺の本堂では、本尊日蓮上人像と両側に鬼子母神尊像、大黒天尊像が祀られています。
ここは本当に不思議なところなのですが、皆さんが一番驚かれたのは
実は山門をはいってすぐ目にする「絵馬」でした。
長い年月のなかで完全に剥落し判別できなかった絵馬が、二条城の障壁画修復にも携わっておられる日本画家の大野俊明氏が修復を依頼され、
調査の結果苦労して復元した新しい絵馬を掲げると、なんと隣に掲げられていた古い絵馬に七福神が描かれた当時の姿が浮かび上がるという奇瑞が起こりました。
当時新聞にも紹介され話題を呼んだ出来事に皆さん興味津々のご様子でした。


その後、山門入口の台杉の話などしながら一行は圓成寺を後にし、源光庵へと向かいました。
圓成寺境内の写真撮影はできませんので、じっくり拝観されることをお勧めします。
妙見宮の北極星・北斗七星をかたどった紋をご覧ください。

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源光庵のお向かいにはナマコ壁が見事な遣迎院があります。
廬山寺、二尊院、般舟院と並んで御所の仏事を司った黒戸四ヶ院の一つで、
もともとは伏見にあり、京都御所の東、現在京都府立医科大学の図書館がある場所に移りましたが
明治四年の上地令により京都の著名な道具商土橋嘉兵衛の別荘地であった現在地に建物ごと買い取って移転しました。

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ここは浄土真宗遣迎院派の本山となっていますが、いわゆる本願寺系の浄土真宗ではなく比叡山延暦寺の天台浄土宗系のお寺です。
このお寺の末寺に血天井で知られる、今年の大河ドラマの主人公お江ゆかりの養源院があります。境内の雰囲気が似てますね。
建物は由緒あるもので、本堂は岡山藩の家老であり茶人でもあった伊木三猿斎(いきさんえんさい)の屋敷でした。
本能寺の変に際して播州三木の高松城を攻めていた秀吉が、報せを聞いて毛利輝元と和睦を行った由緒ある建物です。

本尊は発遣(ほっけん)の釈迦と来迎(らいごう)の弥陀を祀る、いわゆる二尊本尊で、二河白道の教えを説くものです。
このうち阿弥陀如来像は近年の修復に際して大発見がなされた仏像で、台座に嵌める臍(ほぞ)の墨書きから「安阿弥」の名が見つかり、この仏像が快慶作であることが判明したのみならず、残された胎内文書73枚には合計1万2千人におよぶ人名が記され、それらが源平の合戦で亡くなった武者たちの名前であることがわかりました。中には栄西や慈円などの著名な僧侶の名も記されており、源平合戦の戦死者を供養するために造られたことがわかったのです。
通りに面して何気なく佇むお寺ですが、京都のお寺は侮れない! のです。


さて源光庵に入ります。
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                          (12月2日撮影)

このお寺は日蓮宗の寺院が立ち並ぶ鷹ヶ峰の中にあって、禅宗、しかも京都では珍しい曹洞宗の寺院です。
しかし元々は大徳寺派の臨済宗寺院でした。それがなぜ今、曹洞宗になったのでしょう。

このお寺は血天井と丸と四角の二つの窓が観光の目玉となっていますが、お寺の本当の姿は決してそれだけではありません。
京都・清遊の会では、見逃されがちなお寺の歴史や魅力を紹介することを第一に考えています。そのためには是非ご参加いただき、実際にその場に立っていただきたいと願っています。
こうしたブログでは決して紹介できない素晴らしさと京都の奥深さを存分に味わっていただきたいのです。

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さて、このお寺が臨済宗から曹洞宗に代わったのは、中興といわれる卍山道白(まんざんどうはく)が入寺したおりに、ときの宗門の決まりに逆らってまで自分が受け継いだ道元の法を伝えなければという強い決意を表わしたからなのです。
当時は寺に伝わる「伽藍法」と人に伝わる「人法」の二つがあり、曹洞宗は伽藍法を採っていました。このお寺は臨済宗のお寺ですから、卍山がここに入るには曹洞宗を棄てて臨済宗に改宗しなければならなかったのですが、卍山は自分が受けた道元の禅こそ至高の禅という自負があり、宗門の慣習を破って自分が継いだ「人法」を採ったのです。山門に刻まれた「復古禅林」の由来です。

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現在、本堂裏に隣接する開山堂に座す卍山の像は、何者にも惑わされない不退転の決意を秘めた鋭い眼光を見せています。

さて、一行は二つの窓の前で、窓の説明もさることながら、脇床に置かれた卍山の偉業を顕彰する石碑を乗せた龍が生んだ九匹の子供(龍生九子)の一つ、「贔屓(ひいき)」の話を聞きました。
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亀だとばかり思っていたのに、立派な耳を持つこの奇妙な生き物が「贔屓役者」の語源になったと知りましたね。
その後、書院の襖絵の作者、山口雪渓についての話を聞き、その名前の由来に驚くとともに、先ほどの卍山顕彰碑の本歌が置かれた庭の素晴らしさを堪能しました。

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この頃になると雨も上がり、一行は常照寺へと坂道を下りました。
寂光山常照寺。立本寺派の日蓮宗寺院です。
このお寺も吉野太夫という世紀の芸妓の陰に隠れ、また花供養で知られる春の桜ばかりが有名ですが、深い樹木に覆われた見事な境内や、日蓮宗寺院ならではの刹堂など見どころ溢れる魅力寺院です。

まず参道入り口で説明です。
ほとんどの方が見逃して通り過ぎる石碑の台座に「檀林」のニ文字が。
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                 (12月2日撮影)

ここはかつて山城六檀林と呼ばれた日蓮宗の僧侶育成機関である檀林のひとつ、鷹ヶ峰檀林の地なのです。山城六檀林の場所や内容など詳しいレジュメをもとにひとしきり説明を聞いた一行は、吉野太夫寄進とされる朱塗りの門をくぐって境内へ。

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                          (12月2日撮影)

吉野が名妓であったことにちなみ、女性の帯を供養する中根金作氏作庭による「帯塚」や京都の日蓮宗寺院にはお馴染み、見事に咲いた「お会式桜」の可憐な花びらなどを愛でつつ、
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日蓮宗寺院独特の鬼子母神堂(もちろん鬼の字は上の角がありませんね)、
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地主神を祀る常富堂と順に見学し、吉野ゆかりの茶室「遺芳庵」、日乾上人を祀る開山堂、その裏に今も香華が絶えない吉野の墓を拝観しました。
遺芳庵は当日は閉められていましたので写真でご覧ください。
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  釜には富岡鉄斎筆「遺芳庵」の文字が鋳込まれています
「都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山にうつして」とまで慟哭し、妻の死を悼んだ夫・灰屋紹益の墓に入らず、敬愛する日乾上人の側に眠る吉野。
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夫の墓は本寺である立本寺にあります。
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立本寺 灰屋一族の墓
そんな二人の隔てを惜しんだ比翼塚など近年建てられた新たな見どころを回り、本堂にお参りしました。
ご本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏と十界曼荼羅。

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その前に安置された日蓮上人の像はお会式(おえしき)中であり、真っ白な綿帽子を被っておられます。
この綿帽子は各寺院によって違いますが、小松原の法難の故事をもとに眉間を割られた血を意味する赤やオレンジの色を重ねるものもあれば、当寺のようにお寒くないようと老婆が差し出した真綿を示すものもあります。
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新しく作られた客殿にはここが檀林の地であることを示す本阿弥光悦による「学室」の扁額が飾られ、滅多に見られない文化財を拝見することができました。


朝から雨となり、傘をさしての見学と覚悟した出発でしたが、途中から雨があがり、常照寺を出た一行は、ここで一応解散とし、バスで帰る人、さらに鷹ヶ峰街道を下り、「しょうざん」庭園から金閣寺への道を同道する人など思い思いに分かれました。
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(12月2日撮影)
「しょうざん」への坂道から見る、雨上がりの霧に覆われた鷹ヶ峰の山容は紅葉の彩りに加え夕刻の幽邃な雰囲気をたたえてそれはそれは見事な景色です。本当に一人でも多くの方に見ていただきたかった光景でした。

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ここ、鷹ヶ峰の地は、冒頭にご紹介しましたように本阿弥光悦という稀代の文化人ゆかりの地です。今回は拝観しなかった光悦寺は光悦の屋敷跡であり、その位牌堂を没後に寺としたもの。光悦は江戸時代を通じてわが国を代表する芸術の巨人です。
この地は光悦を初めとする本阿弥一族が結集し、文化芸術活動を行うとともに、一族の宗旨である日蓮への憧憬、そして法華経への帰依に生きた信仰の地でもあります。
紅葉の鷹ヶ峰として有名な京都屈指の観光地ですが、ここの紅葉は単なる秋の彩りではなく、芸術一族本阿弥家の題目の声を聞いて育った信仰の紅葉でもあるのです。
当日は圓成寺のご住職、常照寺のご住職からもお話をうかがうことができ、やはりこの地が信仰の地であるという思いを強くいたしました。
清遊の会は今後も上質な京都のご案内を提供してまいります。ブログやレジュメだけでは決してお伝えできない、現地ならではの醍醐味を是非ご堪能ください。
最後に、今回の鷹ヶ峰訪問も堤先生から資料その他数々のご教示をいただきました。感謝してお礼申し上げます。

 

和菓子の会を終えて

 

1013日、京都・清遊の会では和菓子の会を開きました。

講師は和菓子研究家の井上由理子さんです。

井上先生による和菓子の会も早5回目を迎えましたが、
今回のテーマは「京の行事と和菓子」。


まず前半は行事にちなんだ和菓子の数々を、画像を見ながら解説していただきました。

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京の和菓子はお祭りや行事のなかで、宮中や社寺、あるいは茶家と深いかかわりを持ちつつ育まれてきました。

たくさんのお菓子を挙げていただきました中から一部をご紹介いたします。


平安時代より、禁裏では陰暦十月の亥の日に御玄猪
(おげんちょ)の儀式が行われていました。

写真は川端道喜に伝わるその御玄猪の餅の復元。餅は宮中に仕える人に下賜されましたが、官位によって餅の色や数が決められていたそうです。

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十月の亥の日の亥の刻に餅を食べると息災に過ごせると言われたとか。

これから迎える冬にそなえて、猪を食していたのが餅に替わったという説もあり、猪は多産であることから子孫繁栄への願いにもつながるようです。


写真は現在の川端道喜の「亥の子餅」。亥の子餅は、五節句と同様、宮中の年中行事が都の人々の歳時に取り入れられてできた菓子のひとつ。
茶道では炉開きのお菓子となり、町衆の生活のなかでは炬燵開きの頃に食べるようになりました。

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当日は、左京区山端
(やまばな)の双鳩堂の「亥の子餅」をいただきました。双鳩堂は三宅八幡宮に鳩餅を調進しているので知られます。

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この亥の子餅は、京都にたくさんあるいわゆる「おまんやさん」のお菓子ですが、黒胡麻や松の実が入っていて、肉桂(にっき)の風味がきいて、やわらかく、本当においしいです!

亥の子餅は猪の子の瓜坊の姿を表わしています。いまでは亥の子餅はポピュラーなものになりましたが、考えてみると動物の形を和菓子に映すという珍しい意匠ですね。


次は菊のお菓子を。
九月九日の重陽
(ちょうよう)の節句には、菊花に前夜から綿を被せて菊の香りと露を含ませ、その綿で身を拭うと不老長寿を得られるという言い伝えがありました。
菊の色と上に被せる綿の色には決まりがあります。

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この時分のお茶会によく出される「着せ綿」
(きせわた・二条若狭屋)

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京都では月見に供えられる「月見だんご」は小芋
(里芋)を模したもの。餡は小芋の皮に見立てています。

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秋の豊作に感謝するお火焚き祭の菓子「お火焚き饅頭」は商売繁盛や家内安全の願いも込められます。
後ろは節分の頃の「大豆餅」(ともに出町ふたば)

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七夕につくられるお菓子「星のたむけ」
(亀末廣)

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節分にのみつくられる「法螺貝餅」
(柏屋光貞)

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行事ではありませんが、婚礼のお菓子。

昔は引き出物には「お嫁さんのおまん」と言って大きな薯蕷饅頭などが普通でしたが今はその風習もほとんどなくなりました。

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お正月や初釜に出される薯蕷饅頭。
写真は「根引きの松」
(花子)

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お正月といえばお話は来年のお菓子にも及びました。来年の干支は「辰」御題は「岸」。和菓子屋さんにとって干支菓子や御題菓子を創作するのは大切な仕事だそうです。

今頃は来年のお菓子を思案しておられる頃だそう。来年どんなお菓子が私たちの前に登場するのか楽しみですね。


席を移して、後半にいただいたのは、白からほのかなピンク色
へと染められたういろう生地の「まさり草」。まさり草は菊の異名です。

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先ほどの亥の子餅の粒餡に対して、こちらは珍しい白小豆の粒餡。

さすがに井上先生が紫野源水の御主人と相談して注文下さったお菓子です。

美味!だったのですが、こんなに美しいお菓子、もったいなくてすぐには食べられませんとお持ち帰りになる方もありました。


今回は、井上先生からみなさんに楽しいクイズが出されました。

その一つ、次の写真は京都のある菊をイメージしてつくられたものですが、なに菊でしょうか?地名が入ります、というもの。

答えは「嵯峨菊」(鶴屋吉信)でした。

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他に、今宮神社のあぶり餅のタレのポイントとなる調味料は?など、皆さんには5つの問いに答えていただきました。

そして全問正解者のなかからじゃんけんで勝った2名の方に井上先生から素敵なプレゼントがありました。

皆さん真剣にクイズに取り組んでいただいたり、回答時には歓声が上がったり、今回はとても賑やかな和菓子の会となりました。
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井上先生、まさに他では聞けない和菓子のお話の数々をありがとうございました。

また次回はどんな趣向となりますか、皆さま、どうかお楽しみに!

紫野で

毎月朔日に氏神の玄武神社にお参りをします。

玄武神社は北区紫野雲林院町、大徳寺の南東にある小さな神社。

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まだ残暑の時期、町なかでは草花はみられませんが、ここはいつも丹精されていて、この日も凌霄花や虎の尾など夏から秋への花が咲いていました。
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今日はこの玄武神社からお話をさせていただこうと思います。

玄武神社の御祭神は惟喬(これたか)親王。別名、惟喬の社と呼ばれてきました。

玄武神社は、文徳天皇(55)の第一皇子でありながら不遇な生涯を送られた親王の御霊を慰めるため、末裔の星野茂光が親王の外祖父、紀名虎(きのなとら)所蔵の親王寵愛の剣を御霊代とし、併せて王城北方の鎮護を願い祀ったのが起こりとされています。


町の中の小さな神社ではありますが、社名の玄武は青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつ。

亀に蛇が巻きついた形で表わされ、玄武神社は一名「亀の宮」とも言われたそうです。
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摂社の三輪明神と玄武稲荷明神にもお参りします。

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あらためて境内から外を見ると、すぐ向かい側にはもう今宮神社のお旅所があり、向こうに船岡山が見えています。
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神社を出て歩いてみましょう。
通りに出ると船岡山に向かう道路は西へ、船岡山の建勲神社への参道となっていて、やがて鳥居に突き当ります。
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ここからはかなり急な階段を上って建勲神社に至ります。

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建勲神社は、秀吉が織田信長の廟所と定め祀って、のち大徳寺領となり、やがて明治になってその忠誠偉勲が追彰され神社となり現在に至っているのですが、
しかし、もともとここは船岡山の地の神「玄武大神」が祀られているところなのです。

現在も中腹に玄武大神を祀る「船岡妙見社」を見ることができます。
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船岡妙見社 船岡玄武神社 本殿と拝殿.JPG
駒札には「今から千二百年の昔、平安建都に際し、風水が相される。船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の起点として平安京が造営された」と書かれています。


これこそが都の北を守る神としての鍵を握っているところだと、昨年、堤先生の現地案内で教わりました。

妙見は北極星を表わし、北を示すシンボル。

そしてこの社殿もそして玄武神社も南…都を向いています。都を守るために!


ちょっとゾクゾクしてきました…。

「船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられている」とあります。

船岡山の玄武大神と町のなかの玄武神社。後者は船岡山のこの妙見さんに登れないときにお参りするところだったのでしょうか。


さて、頂上まで登ると市内が一望できます。
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この眺め、南を望んでいます。本当に気持ちがいいです。

桓武天皇(50)自らがここで地割をおこなったと言われています。同じ地に立っていると思うとまた興奮します!ここが平安京の北の起点だったんですね!ここから朱雀大路が南に延びて…。


船岡山について

高さ112メートル、東西200メートル、南北100メートルの丘陵。

山頂には古代の祭祀跡と思われる盤座(いわくら)があります。
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山の東麓に六兵衛池という大池があり、山の東端が池中に突き出し海に浮かぶ大船のようであったところから船岡と呼ばれたそうです。


清少納言は『枕草子』で「岡は船岡、片岡…」と称賛し、のち円融天皇
(64)が譲位後、この山麓で「子の日の遊び」をされたことから大宮人が小松を引き、若菜を摘んで宴遊する行楽の地ともなりました。

しかし、後冷泉天皇(70)以降、多くの后妃がこの船岡周辺に埋葬されることが多くなり、船岡は葬送の地へと変わってゆきます。

中世になると戦略的要衝の地となり、応仁の乱で西軍の陣地が築かれたことは周知のとおりです。


そして紫野

この船岡山から大徳寺周辺一帯が「紫野」と呼ばれるところ。平安前期には天皇の遊猟地となり、桓武天皇が狩猟されて以来嵯峨天皇(52)、淳和天皇(53)も来遊されたと伝わります。船岡山で「子の日の遊び」がおこなわれてよりは紫野は和歌に詠まれ、歌枕の地として知られましたが、鎌倉時代に至り、大徳寺が創建されました。


ふたたび玄武神社へ

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玄武神社本殿の後ろ、北側に建物が見えていますが、このマンションが建設される際、発掘調査がおこなわれました。
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2000年ですからまだ記憶に新しいところです。
発掘調査で、「雲林院」跡の苑池や建物跡、井戸跡が発見されました。


雲林院とは?

いまは小さな堂宇となり大徳寺の境外塔頭となっていますが、
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雲林院は淳和天皇が紫野に造営された離宮「紫野院」のあとを寺院として継いだところ。

淳和天皇はしばしばこの紫野院に行幸し、釣台に御して遊魚をご覧になったり文人に詩を賦さしめたりして遊宴されたと記録にあります。
やがて仁明天皇(54)の第七皇子、常康親王に伝領されましたが、
親王は即位できず出家、僧正遍照によって寺院となり、雲林院と称したそうです。

僧正遍照は惟喬親王をとりまく六歌仙のひとり。惟喬親王の寵臣でした。「あまつかぜ雲のかよいぢ吹とじよ…」の和歌で知られていますね。

常康親王から雲林院を託された遍照は、境内の鎮守であった玄武大神を祀る社に惟喬親王を合祀し、生涯、親王への追慕に生きました。常康親王惟喬親王の母はともに紀名虎の娘、つまり従兄弟であり叔父甥の間柄でした。そして母が藤原氏ではなく紀氏の出であったがゆえに即位できなかった失意の親王たちなのです。


雲林院の木のかげに、たたずみてよめる

  侘び人の別きて立ちよる木の下は

  頼む陰なく紅葉散りけり   僧正遍照


雲林院は千手観音を本尊とした本堂をはじめ多くの堂舎が建てられ、さまざまの法会が催され、なかでも寺内の念仏寺の菩提講は、極楽往生へ導く法華経の説教会として、今日の彼岸会のように多くの善男善女が参集したところと伝わります。

平安文学の一つ「大鏡」は、この菩提講で落ち合った旧知の老翁(大宅世継190歳と夏山繁樹180歳)が昔語りをするという趣向で記述されています。


雲林院はまた花の名所としても知られ、咲き誇る花の美しさは雲の林と称えられました。
王朝時代、歌人の諷詠地となり、謡曲「雲林院」の題材ともなった和歌文学の名所でありました。
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やすらい祭について

いま雲林院という町名としてのこっていますが、この雲林院地区、もと雲林院村のお祭りとして伝承されているのが玄武神社のやすらい祭。
玄武神社によりますと、康保二年
(965)の大水害のあと疫病が蔓延したため、玄武神社において祭りをおこなったのが京都の鎮花祭のはじめとされています。


当時、疫病が流行るのは恨みをのんで亡くなっていった人の怨霊の仕業と考えられ、霊を鎮めるための御霊会が催されました。紫野御霊会、船岡御霊会といった御霊会も知られています。


そして先に書きました常康親王も惟喬親王も即位できなかった無念の親王たちです。常康親王を慰める御霊会はやがて惟喬親王の霊を慰める御霊会になっていったようです。


玄武神社には背中に「雲」と染め抜いた素襖が伝世しており、雲林院の御霊会が玄武神社と今宮神社に引き継がれたのが現在のやすらい祭のようです。
そして北の御霊会はやすらい祭り、東の御霊会は祇園祭となってゆきます。


4月の第二日曜には玄武神社、今宮神社、川上大神宮でやすらい祭がおこなわれています。

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赤熊
(しゃぐま)をつけた鬼や小鬼が鉦や太鼓を叩き、氏子地域を練り歩きます。

玄武神社は「玄武やすらい花」と呼ばれ、風流傘に入ると一年間無病息災で過ごせると言われ、行列が来るとみな競って傘の下に入ります。
「富草の 花や とみよせば なまえ 御倉の 山に 余るまで なまえ……」


最後に…やすらい祭が京都三大奇祭のひとつとされているのはなぜなのでしょうか?

祭りは本来神社のもの。それが雲林院という寺院に端を発することが「奇」なることだ!と…講座で先生から教わりました。


いつの間にかとんだ長話になってしまいました。

ここはめったに観光客が訪れることもなく、地域の氏神さまとして尊崇されている神社です。

でもこんな歴史を秘めているなんて驚きですね。

玉垣のそばに色づき始めた紫式部を見つけました。
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そういえばこの近くに式部のお墓もあるのです。小野篁も並んで…。

紫の縁からこの地にあるのでしょうか?

そのお話はいずれまた─。

なにより来月は紫の実がたくさん見られそうです。