聖護院の節分会

ことしは、各地とも賑やかに節分行事が行われましたね。
修験道の寺として知られる左京区の聖護院(しょうごいん)門跡では、節分の三日、山伏追儺式(やまぶしついなしき)や採燈大護摩供(さいとうおおごまく)などが行われました。




聖護院門跡

寛治4年(1090)、白河上皇の護持僧であった増誉(ぞうよ)大僧正により開創。上皇の熊野御幸の先達(案内役)を勤めた功績により、「聖体護持」より二文字をとった「聖護院」という寺を賜ったのが始まりで、最盛期には二万余の末寺をかかえる一大修験集団となりました。
聖護院には後白河天皇の皇子、静恵法親王が入寺したのをはじめ、明治になるまで天皇家や摂関家の方が相次いで入寺しています。

境内は、参拝してお加持をしてもらう人、無料接待の甘酒をいただく人などで賑わっています。

鈴懸(すずかけ)の衣に結袈裟(ゆいげさ)を掛けた山伏の装束。
梵天(ぼんてん)は前に4つ、後ろに2つで「六波羅蜜」を表わします。「六波羅蜜」は彼岸(ひがん)に至るための六つの修行徳目だそう。梵天の色は赤や緑、紫色など多種で、赤色は最も長い経験を積まれた色と伺いました。


お加持の錫杖(しゃくじょう)も六輪の輪でした。同じく「六波羅蜜」を示しています。

修験道

古来「山には神々が宿る」と考えられ、山をご神体として崇拝してきた「山岳信仰」に、仏教や道教が結びつき生まれた日本独特の宗教。

約1400年前の役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖と仰ぎ、神仏そのものである山を歩き、礼拝し、滝に打たれるといった修行で得た験力を使い、加持祈祷などを行うのが修験者。
山に伏し野に伏すゆえ「山伏」とも呼ばれてきました。


宸殿前の庭には護摩壇がしつらえられ、準備が進んでいました。護摩壇は青々とした檜葉で覆われています。

いよいよ開始時刻。




「山伏問答」で、たしかに聖護院の山伏と証明され、結界の中に入られます。力強く法螺貝を鳴らし入場。

聖護院の厄除開運採燈大護摩供では、「法弓(ほうきゅう)の儀」・「法剣の儀」・「法斧(ほうふ)の儀」が行われます。


法弓の儀 弓矢を東西南北と鬼門、護摩壇に向かって放ち邪気を祓う。

法剣の儀 剣で魔を断ち切り、護摩壇を清める。

法斧の儀 斧で木を切り出し護摩壇をつくる様子を表わす。

門主が願文を奏上されます。

いよいよ松明が灯されます。山伏の方々の読経が響きます。


瞬く間に白い煙が上りました。



参列者も皆、真っ白な煙のなかに包み込まれていきます。

この煙が穢れを祓い、身を清め、私たちをあるべき方向に導いてくれるのですね。
太鼓の音。最多角(いらたか)念珠をすり合わせる音。真言を唱える声。



祈りが天に届きますように。


供養の閼伽(あか)水をさかんに護摩壇に掛けておられます。火の勢いが増すと護摩壇が崩れてしまうので、煙が立ち上るように案配し、取り仕切る力量がいるそうです。


護摩木が投入されます。


皆の願いが届きますように。思いは同じ。

燃え盛る炎に見入るうち、やがて護摩供は無事終了しました。



法螺貝を鳴らし退出されていきます。



参列の方々も晴れ晴れとしたお顔で帰っていかれます。

先日は大雪に見舞われ、しばらく寒さの底のような京の町でしたが、節分の翌日は陽光ふりそそぐ立春となりました。

そして待ちに待った春本番へ。
暖かくなるまで、もう少しの辛抱です。


 

送り火、高野山の風景

昨日は三年ぶりに五山の送り火が全面点火されました。
直前の激しい雷雨で実施が危ぶまれましたが、雨はあがり、西賀茂の舟形も山の稜線の合間からくっきり浮かび上がりました。
この船山の麓に眠っておられる堤先生が亡くなって初めての送り火。送る炎に懐かしい思い出が甦りました。

お盆を前に、和歌山の高野山を訪ねましたのでご覧ください。
高野山は1200年前に弘法大師空海によって開かれた真言密教の道場で、高野山真言宗の総本山。大師信仰の聖地ともいえるところ。

標高およそ900メートルの山上に近づくにつれて急なカーブの連続。上へ上へ、山の景色が変わってゆきます。

「大門」 高野山の西の入り口に建つ正門。撮影時は雨で煙っていました。

地図では、一番左手が大門。右手の「奥の院」まで約4キロほどでしょうか。



奥之院は、弘法大師が入定し、のちに建立された大師の御廟(ごびょう)へ至る聖域。
一の橋から御廟までの約2キロの参道には、平安時代から、およそ20万基を超える墓所や、供養塔、慰霊碑の数々が杉木立の中に立ち並んでいます。

「中の橋」駐車場向かいからの参道

石段を上がり親鸞聖人の供養塔へ。


参拝して降りて参道にもどります。

鬱蒼とした大きな杉の木々の向こうは奥の院へ向かう道。

高野山に古くから伝わる高野槙(こうやまき)は、弘法大師が花の代わりに高野槙の枝葉を供えたといわれており、ここ高野山では、お供花は高野槙を添えるか、高野槙のみを供えるようです。
お寺の方でしょうか、深い墓所のなかを手分けしてお供えして回っておられました。

高野槙

法然上人の供養塔。ここにも高野槙が供えられています。

豊臣家の墓所、信長の供養塔など、知った名前のあまりの多さに圧倒されるように歩くとやがて御供所(ごくしょ)が見えてきます。


御供所は、毎朝6時と10時30分に燈籠堂に届けられるお大師様の食事、生身供(しょうじんく)が調進されるところ。大師入定後より欠かさず行われてきたそうです。
その傍らにたつ嘗試(あじみ)地蔵に一度味見をしていただいてから燈籠堂へ運ばれるのだそうです。
御供所から出てこられ、嘗試地蔵前で。

御廟橋をわたって燈籠堂へ向かわれます。

「御廟橋」
弘法大師の御廟へと向かう参道の最後の橋。御廟橋を渡ると御廟への霊域に入ります。ここからは聖域に足を踏み入れることになるため、橋の前で服装を正し、渡る際には、僧侶にならい礼拝して渡るのが作法になります。


御廟橋は、橋板36枚と橋全体を1として金剛界三十七尊を表し、橋板の裏面には諸仏に対応する梵字が記されているそうです。

燈籠堂とその奥の御廟には前日に参拝を済ませましたが、橋の手前には、前日にはなかった施餓鬼棚(せがきだな)がしつらえられていました。
この日は8月7日でした。京都でもお精霊さんをお迎えする日ですね。

この橋までで、これより先は撮影はできませんので、ここが最後の撮影ポイントです。燈籠堂へ粛々と上っていかれる姿が小さくなりました。

御廟橋のたもとには「水向け地蔵」が玉川を背にして並び、水を手向ける人々の回向が絶えません。

さて、奥の院から壇上伽藍のエリアに移動します。

「壇上伽藍」
弘法大師が構想した曼荼羅世界に基づき諸堂が配置されたといわれます。その中心にそびえるのが「根本大塔」。
内部は、16本の柱に描かれた仏像や壁に描かれた八祖像など、堂内が立体曼荼羅となっています。高野山といえば、この根本大塔の朱色がまず浮かんできますね。内も外も、その迫力に圧倒されました。

金堂(国宝)では、この日より「不断経(ふだんぎょう)」が厳修されていました。


金堂は、開創当時は「講堂」と呼ばれ、一山の総本堂であったそうです。
不断経は、寛治8年(1094)より始まったと伝え、滅罪生善(めつざいしょうぜん)のために僧侶方が1週間、金堂の中を理趣経に節を付けて堂内を廻られるそうです。見学させていただきましたが、非常に変わった声明です。

愛染堂、大会堂(だいえどう)、三昧堂など。一つ一つが時代を経た美しさに満ちています。

古びて静かな佇まいの不動堂(国宝)

奥まったところに建つ西塔。幽邃な雰囲気が漂います。

六角経蔵と山王院。その奥には御社(みやしろ)があります。

御社! 高野山の開創にもかかわる御社の話はさらに長くなりそうです。

下は、「高野山真言宗総本山 金剛峯寺」




今回は金剛峯寺のご紹介はできませんでした。

かねてから高野山へ行きたいと願っていましたが、今回それがかないました。
先だっての堤先生から示していただいた講座がなければ学べなかったことでもあります。導いてくださったことに感謝し、いつかの講座にお伝えできればと思います。長々ご覧いただき有難うございました。