北野天満宮 連句の会など

いよいよ秋も深まってまいりました。

去る1029日、天神さんで知られる北野天満宮で国民文化祭2011・連句の祭典が催されました。

京都・清遊の会講師の井上由理子さんが「正式俳諧と白拍子舞のコラボ」に舞を披露されましたので、その模様をすこしご紹介いたします。
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北野天満宮は連歌と深いつながりがあるのだそうですが、当日は晴天に恵まれ、開催の挨拶に続いて正式俳諧(しょうしきはいかい)が神楽殿で奉納されました。
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掛物は「南無天満大自在天神」
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天満天神は菅原道真のこと。 それに融通無碍を意味する大自在が加わったのが天満大自在天神。それに南無する。つまりすべてを委ねて帰依する。
今日の場合は、わが国の文芸の神様である菅原道真の力にあやかってこの連句の会を成功させましょう、という願いを込めた掛物です。  


北野天満宮の総門の扁額は「文道大祖風月本主」と書かれていますが、これは道真公が日本文芸の守護神であることを意味し、後世ここで北野連歌や連句の会が開かれたのはすべて道真の力にあやかってのことだそうです。

なるほど!扁額をしっかり見ておかなくては。

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その連句の神様に献花が行われました。
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連歌の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、和歌の上の句
(五・七・五)と下の句(七・七)を多数の人々が交互に詠み継いでいくものですが、連句は「俳諧の連歌」ともいい、連歌よりくだけたものです。

江戸時代中期以降、それまでの連歌に、風刺や諧謔味を取り入れた俳諧の連歌が盛んになり、百句を詠み継いでいくものから三十六句を詠み継いでいくものへと変化していったそうです。


正式俳諧の配役…正面向かって右から、宗匠、執筆
(しゅひつ)、脇宗匠がおられます。

左右に連衆(れんじゅう)や貴賓(きひん)が着座され、楽師が龍笛を奏され、座の文芸のはじまりです。
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懐紙を綴じる水引をしごく作法などいろいろあるのですね。
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細かな決まりごとがたくさんあって今日は初めて尽くしの見学です。

三十六句のうち、すでに三十句まで作られていて、今日は会場で残り六句を作ります。
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観客の方々からも付け句を募ります。熱心に作っておられる方も…。
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句ができたら「ツケ!」と声をあげ、短冊に記し提出し、吟味ののち良しとみなされれば採用されます。
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三十四句まですんだところで、巫女が玉串を宗匠に手渡します。花の句
(三十五句)の前という意味だそうです。

今日は白拍子の井上由理子さんが務められました。
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最後の三十六句目が挙句(あげく)
「挙句の果て」とはここからきた言葉だそうです。

三十五句、三十六句目は宗匠と執筆が詠まれます。

「ほのぼのと明るき闇の花篝 笙横笛の音色のどけし」

これで無事三十六句が巻き終わりました。


つづいて白拍子舞が奉納されました。

井上さんと二人の楽師の方は、今日の表六句(初めの六句)を歌と楽と舞で披露されました。

「連歌鎮め北野天神秋深し 梅ももみじに匂う有明……」
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いつ拝見してもその舞姿に見とれてしまいます。

澄みきった美しさとでもいうのでしょうか。
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いつの間にか神楽殿の前ではたくさんの人びとが足をとめ、皆さんが熱心に見入っておられました。


この日、北野天満宮は余香祭
(よこうさい)の日でもありました。

余香祭とは─

菅原道真公は右大臣の位にあった昌泰3(900年)9月、清涼殿において「重陽の宴」に召され詩を詠じ、その詩に感銘された醍醐天皇より着衣(おんぞ)を授けられました。

そして一年後、道真は配流地の大宰府で栄華の頃を追想し、「去年の今夜」にはじまる「重陽後一日」の詩篇を作りました。

大正81029(旧暦99)に、久しく絶えていた旧儀を余香祭と名付けて再興し、以後余香祭は毎年1029日に行われるようになったそうです。
当日のお供えには黄菊,白菊を飾り、斎主、祭員も小菊をかざして奉仕されるそうです。

  去年の今夜 清涼に侍す 秋思の 詩篇 独り腸を断つ

  恩賜の御衣 今 茲に在り 捧持して 毎日 余香を拝す

そういえば「北野天神縁起絵巻」には有名な「恩賜の御衣」の場面があります。現在のこの余香祭につながっているのですね。


またこの日は、連句の会によせて境内の明月舎で掛釜がありました。
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床には裏千家十世認得斎筆連句画賛が掛かっていました。お仲間が集い、連句の会を催された様子がうかがえます。

チベット製の扁壺(へんこ)を花入に、嵯峨菊とつるうめもどきが生けられています。香合は夕顔で菊の置上。
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主茶碗は玉水焼。予楽院好みの茶器は菊と木賊の蒔絵であったように記憶しています。

大切なお茶杓については教えていただいたのに帰ってくるともう忘れてしまって残念でした…。

夕方近くなった静かな茶席で、至福の一服をいただきました。
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井上由理子さんは「白拍子」を舞、歌、語りで表現されていますが、いずれ清遊の会でも披露していただきたいと思います。

和菓子の世界に、古典芸能にとマルチな才能を発揮されている井上さんには教えていただきたいことがたくさんあります。

来る123日には「京都顔見世講座」で南座のお話や今年の顔見世の楽しみ方について解説していただきますので、そちらもどうぞお楽しみになさってください。
それではまた。


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              秋明菊 妙覚寺にて

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和菓子の会を終えて

 

1013日、京都・清遊の会では和菓子の会を開きました。

講師は和菓子研究家の井上由理子さんです。

井上先生による和菓子の会も早5回目を迎えましたが、
今回のテーマは「京の行事と和菓子」。


まず前半は行事にちなんだ和菓子の数々を、画像を見ながら解説していただきました。

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京の和菓子はお祭りや行事のなかで、宮中や社寺、あるいは茶家と深いかかわりを持ちつつ育まれてきました。

たくさんのお菓子を挙げていただきました中から一部をご紹介いたします。


平安時代より、禁裏では陰暦十月の亥の日に御玄猪
(おげんちょ)の儀式が行われていました。

写真は川端道喜に伝わるその御玄猪の餅の復元。餅は宮中に仕える人に下賜されましたが、官位によって餅の色や数が決められていたそうです。

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十月の亥の日の亥の刻に餅を食べると息災に過ごせると言われたとか。

これから迎える冬にそなえて、猪を食していたのが餅に替わったという説もあり、猪は多産であることから子孫繁栄への願いにもつながるようです。


写真は現在の川端道喜の「亥の子餅」。亥の子餅は、五節句と同様、宮中の年中行事が都の人々の歳時に取り入れられてできた菓子のひとつ。
茶道では炉開きのお菓子となり、町衆の生活のなかでは炬燵開きの頃に食べるようになりました。

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当日は、左京区山端
(やまばな)の双鳩堂の「亥の子餅」をいただきました。双鳩堂は三宅八幡宮に鳩餅を調進しているので知られます。

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この亥の子餅は、京都にたくさんあるいわゆる「おまんやさん」のお菓子ですが、黒胡麻や松の実が入っていて、肉桂(にっき)の風味がきいて、やわらかく、本当においしいです!

亥の子餅は猪の子の瓜坊の姿を表わしています。いまでは亥の子餅はポピュラーなものになりましたが、考えてみると動物の形を和菓子に映すという珍しい意匠ですね。


次は菊のお菓子を。
九月九日の重陽
(ちょうよう)の節句には、菊花に前夜から綿を被せて菊の香りと露を含ませ、その綿で身を拭うと不老長寿を得られるという言い伝えがありました。
菊の色と上に被せる綿の色には決まりがあります。

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この時分のお茶会によく出される「着せ綿」
(きせわた・二条若狭屋)

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京都では月見に供えられる「月見だんご」は小芋
(里芋)を模したもの。餡は小芋の皮に見立てています。

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秋の豊作に感謝するお火焚き祭の菓子「お火焚き饅頭」は商売繁盛や家内安全の願いも込められます。
後ろは節分の頃の「大豆餅」(ともに出町ふたば)

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七夕につくられるお菓子「星のたむけ」
(亀末廣)

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節分にのみつくられる「法螺貝餅」
(柏屋光貞)

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行事ではありませんが、婚礼のお菓子。

昔は引き出物には「お嫁さんのおまん」と言って大きな薯蕷饅頭などが普通でしたが今はその風習もほとんどなくなりました。

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お正月や初釜に出される薯蕷饅頭。
写真は「根引きの松」
(花子)

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お正月といえばお話は来年のお菓子にも及びました。来年の干支は「辰」御題は「岸」。和菓子屋さんにとって干支菓子や御題菓子を創作するのは大切な仕事だそうです。

今頃は来年のお菓子を思案しておられる頃だそう。来年どんなお菓子が私たちの前に登場するのか楽しみですね。


席を移して、後半にいただいたのは、白からほのかなピンク色
へと染められたういろう生地の「まさり草」。まさり草は菊の異名です。

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先ほどの亥の子餅の粒餡に対して、こちらは珍しい白小豆の粒餡。

さすがに井上先生が紫野源水の御主人と相談して注文下さったお菓子です。

美味!だったのですが、こんなに美しいお菓子、もったいなくてすぐには食べられませんとお持ち帰りになる方もありました。


今回は、井上先生からみなさんに楽しいクイズが出されました。

その一つ、次の写真は京都のある菊をイメージしてつくられたものですが、なに菊でしょうか?地名が入ります、というもの。

答えは「嵯峨菊」(鶴屋吉信)でした。

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他に、今宮神社のあぶり餅のタレのポイントとなる調味料は?など、皆さんには5つの問いに答えていただきました。

そして全問正解者のなかからじゃんけんで勝った2名の方に井上先生から素敵なプレゼントがありました。

皆さん真剣にクイズに取り組んでいただいたり、回答時には歓声が上がったり、今回はとても賑やかな和菓子の会となりました。
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井上先生、まさに他では聞けない和菓子のお話の数々をありがとうございました。

また次回はどんな趣向となりますか、皆さま、どうかお楽しみに!

紫野・西陣界隈散歩報告

10月1日、「紫野・西陣散歩」を行いました。

昨日の雨はやみ、風はまだ強かったのですが、どうやら晴れて散歩日和となりました。

今日の資料は堤先生が準備してくださったものです。

皆さんにちゃんとお伝えできますかどうか不安ですが…。


まずは大徳寺前の雲林院境内で、今日のルートの略図を見ながら、紫野、船岡山について簡単にお話しました。

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           史跡ウォーク「紫野」より


紫野とは─

洛北七野の一つ。船岡山から大徳寺周辺一帯を指します。

延暦14(795)10月、桓武天皇がはじめて紫野で狩猟を行われて以来、天皇の遊猟地となり、やがてこの地に離宮・紫野院を構えられたのが淳和天皇

そして堤講師より、この紫野こそが「山紫水明」の原点であるとご教示いただきました。
「山」は比叡山、その比叡山が紫色に見える所がこの紫野であると。淳和院はこの聖なる山を仰ぎ見つつ、この紫野で遊興に過ごされたのだそうです。
写真は船岡山の公園から望む比叡山です。

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船岡山(ふなおかやま)

紫野の広野(こうや)に横たわる高さ112メートルの丘陵。いまでは想像もつかないことですが、山の東麓に大池があり、山の東端が岬のように池中に突き出し、あたかも海に浮かぶ大船のようであったことから船岡山と名付けられました。

山の東端は、岬をあらわす唐崎の転訛から「からすき」、また鼻は端をあらわすとし、古来「唐鋤鼻(からすきのはな)」と呼ばれたそうです。

淳和天皇の紫野院はこの船岡山の東の池を景として取り入れたものでした。

ちなみに昭和初期まで「六兵衛池」と称する古池が残っていたそうです。


なにより今日の案内で忘れてはならないことは、
この船岡山には玄武大神が祀られており、平安京造営にあたり、起点とされたということです。

雲林院についてはブログ「紫野で」をご参照ください。


ここで、時代は飛んで中世へ。

弁慶の腰掛け石、常盤井、若宮八幡宮を訪ねます。


若宮八幡宮
は、土蜘蛛退治の話で知られる源頼光の屋敷址と伝わります。源頼光は日本における武士の祖とされる多田満仲(ただのみつなか)の子。それゆえここが源氏ゆかりの地とされ、清和源氏の祖である清和天皇を祀り、源氏の棟梁となった源義経の故地とされ、その母常盤御前の伝承地となったものと思われます。

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               若宮八幡宮 外観

常盤は近衛天皇の雑仕女を決める際、全国から選ばれた美女千人の中からさらに選ばれた美女。古来この地に住んだという伝承があり、付近には写真の
常盤井や常盤地蔵、あるいは牛若井や牛若町など常盤や義経ゆかりの遺物が残っています。

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              常盤井

とくに牛若丸と弁慶が出会った五条の橋は「御所の橋=護浄の橋」という説があり、この御所は淳和天皇の離宮であった紫野院であり、その橋こそ現在の大徳寺東南角にあったとされ
鞍馬山で修行した牛若丸は、山を降りたとき、母に会うためこの地を訪れ、ここで弁慶と出会ったといいます。このとき橋を渡る牛若を腰かけて待っていたのが弁慶腰掛けの石というわけです

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弁慶の腰掛け石 船岡山の岩盤と同じチャート岩。

太古の昔ここが海の底であったことが知られます。

 

さて、いよいよ
玄武神社へ来ました。


現在は
惟喬親王(これたかしんのう)を祀っています。
しかし、もともとは王城鎮護の北の守り神・
玄武大神を祀ったもの。玄武神社の鳥居は南に、つまり御所に向いています。船岡山にやはり南向きに祀られている船岡妙見社こそ、この玄武大神の原形なのですね。堤先生からでなければ教われなかった貴重なお話です。


かつて行われていた紫野御霊会は、ここで現在四月に行われている
「やすらい祭」へとつながっています。

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                玄武神社 外観

                  

この近くにある、小野篁と紫式部の墓所について─。


惟喬親王はのちに洛北大原の里・小野に隠棲されたと伝わりますが、その地は近江の小野へと続く小野氏本貫の地でありました。京都には小野という地名が他にもあり、雲ヶ畑や大森などに惟喬親王の伝承が残っています。


小野宮と称されたという惟喬親王を祀るこの玄武神社の近くに小野篁の墓があることもやはり関わりのあることであろうと先生はおっしゃっていました。


惟喬親王に仕えたのが後世、僧正遍照ら六歌仙と呼ばれる人々。惟喬親王の無念をおさめるために歌仙として祀られた人々です。そのなかには小野篁の子孫の小野小町や在原業平も名を連ねています。


紫式部のお墓の横に小野篁のお墓が祀られている理由については皆さんよくご存じでしたが、
南北朝時代に著された源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」巻一によれば、「式部の墓所は雲林院の白毫院(びゃくごういん)の南にあり。小野篁の墓の西なり」(原漢文)とあって、比較的古くからの言い伝えであったようです

各地に伝承が残り、多くの人々に慕われたという悲劇の惟喬親王─。

いずれ堤先生にぜひ惟喬親王についてお話をしていただきたいと思います。


玄武神社をあとに、大宮通りを南へ下がります。


安居院
(あぐい)西法寺です

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もとは
比叡山延暦寺東塔竹林院の里坊。

安居院(あぐい)はこの付近一帯の呼び名、現在も残っています。


この寺に伝わるのが
人々を惑わす物語を書いた罪で地獄に堕ちた紫式部を供養するための文章「源氏物語表白(ひょうびゃく)」。安居院法印聖覚(あぐいほういんせいがく)の作になるもので、式部供養の詞が述べられています。やはり、この近くに式部の墓所があるゆえに伝えられたもののようです。


廬山寺通り、鉾参通りを過ぎて、寺之内通りの西陣織工芸美術館「
松翠閣」にやってきました。
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                 松翠閣 外観

ここは西陣織の技術を駆使して織られた作品が展示されている美術館。素晴らしいの一言です!

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とくに畜光糸(ちっこうし)という特殊な糸で織られた作品は、照明によって不思議な見え方をします。ぜひ一度ごらんください。
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松翠閣で超ゴージャスなものの数々を見て息抜きです。とってもいい気分になりました
(笑)。


ここで
寺之内通について少し─


豊臣秀吉は天正1819の両年、強権を発動して散在する寺院を洛中市街地からことごとく立ち退かせ、東京極通の東側と安居院の一帯に集め
ました。東京極通にできた寺院街が寺町で、安居院の寺院街が寺内。

一般町衆の強い信仰があった浄土宗寺院や時宗寺院を寺町に、商売を行っていた商人たちに圧倒的信仰を集めていた法華宗寺院を安居院の寺内に集めたのです


現在も寺
内地区には妙顕寺、妙覚寺をはじめ、本法寺、妙蓮寺、本隆寺など日蓮宗16本山の約半数がこの地区にあります。本阿弥光悦や長谷川等伯など名だたる芸術家もみな日蓮宗に帰依していました。
さて、寺之内通りを東に、妙蓮寺にやってきました。
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妙蓮寺
は、永仁2(1294)年、造り酒屋の柳屋仲興(やなぎやなかおき)が日像上人に帰依して自邸を寺に改め、柳寺と称したのが始まりとされる日蓮宗の本山。

山号を卯木山(ぼうもくさん・うぼくさん)。柳の文字を木と卯に分解しての命名です。

仲興氏は京都の土蔵や酒屋といった富裕層のなかでも有数のお金持ち。当時、銘酒「柳酒」は京都一と言われました。

門をくぐると美しい袴腰の鐘楼。芙蓉の花が咲いていてきれいです!
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宗祖の命日にあたる法会を御会式(おえしき)と言いますが、その日蓮上人の命日1013日頃から咲き始める不思議な
御会式桜、室町時代から知られた妙蓮寺椿などをご紹介します。


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妙蓮寺椿 蕾をつけて花ももうすぐ咲きそうです。


妙蓮寺向かいの
灰屋の図子へ。この中に足抜き地蔵が祀られています。


灰屋図子
灰屋紹益を代表とする灰屋一族が住まいしたところ。


そこに
現在も鎮座する地蔵が「足抜き地蔵」。

この地蔵はもと島原の大門脇に鎮座し、島原から足抜けしようとする女郎たちを必ず足止めするとして「足止め地蔵」と呼ばれていましたが、西陣織の若い職人と恋に落ちた女郎が、この地蔵さえいなければ逃げることができるかもしれないと、ある日この地蔵を背負って大門をくぐり、逃げ出し、ここで急に重くなり、重さに耐えられなくなって地蔵を降ろしたのがこの灰屋図子。めでたく恋しい職人と出会い、幸せに添い遂げることができたといいます。以後、この地蔵は「足抜き地蔵」と呼ばれています

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さて、大宮通りにもどり、南へ。


紋屋図子
(もんやのずし)にやってきました。

智恵光院通から入って行き止まりとなっていたのを、天正十五年(1587)、この図子に住んだ御寮織物司の井関七右衛門宗鱗が私財をもって図子の東を塞いでいた家屋を買い取り、大宮通まで行き抜けにしました
以来この功績を称えて井関宗鱗の屋号「紋屋」の名をとって「紋屋図子」と改称され
ました

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徳川五代将軍綱吉の生母・
桂昌院(けいしょういん)の生家と伝わるを通り、


いよいよ観世水(かんぜみず)まで来ました

現・西陣中央小学校の敷地の隅に飛び地として残るのが観世稲荷と観世井です

ここは能楽宗家の観世家が足利義満から拝領した屋敷地でしたが、西陣焼けのあと稲荷社と井戸だけが残されました。 

観世水の井戸は名水としても知られましたが、地下水の合流点であったために井戸の底にはいつも渦が巻いていたことから、この波紋を観世水といい、能楽観世流の紋様となりました。
井戸は格子で見られなくなっていますが稲荷は見ることができました。

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これで今日の紫野・西陣散歩は無事終了となりました。

時間をだいぶオーバーしてしまいました。


伝承のとおりに姿をとどめるものは少なくても、地名や町名にその名を残されて歴史の片鱗を垣間見ることができたものはたくさんありました。
歩いてみると、知識が体験となってくれるのですね。その場に立つことの大切さを学びました。

爽やかな風とともに空はすっかり秋の空になっています。

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ご案内を終えて─

ご参加いただいた皆さま、お越しいただき本当に有難うございました。

不十分な点が多々ありましたこと、なにとぞご容赦ください。

また天候による日程の変更で、今回ご参加いただけなかった方々に深くお詫び申し上げます。

最後に、貴重な資料を提供くださり、さまざまの御教示をいただきました堤先生、有難うございました!

            
             京都・清遊の会 主宰 中川祐子

 

紫野で

毎月朔日に氏神の玄武神社にお参りをします。

玄武神社は北区紫野雲林院町、大徳寺の南東にある小さな神社。

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まだ残暑の時期、町なかでは草花はみられませんが、ここはいつも丹精されていて、この日も凌霄花や虎の尾など夏から秋への花が咲いていました。
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今日はこの玄武神社からお話をさせていただこうと思います。

玄武神社の御祭神は惟喬(これたか)親王。別名、惟喬の社と呼ばれてきました。

玄武神社は、文徳天皇(55)の第一皇子でありながら不遇な生涯を送られた親王の御霊を慰めるため、末裔の星野茂光が親王の外祖父、紀名虎(きのなとら)所蔵の親王寵愛の剣を御霊代とし、併せて王城北方の鎮護を願い祀ったのが起こりとされています。


町の中の小さな神社ではありますが、社名の玄武は青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつ。

亀に蛇が巻きついた形で表わされ、玄武神社は一名「亀の宮」とも言われたそうです。
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摂社の三輪明神と玄武稲荷明神にもお参りします。

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あらためて境内から外を見ると、すぐ向かい側にはもう今宮神社のお旅所があり、向こうに船岡山が見えています。
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神社を出て歩いてみましょう。
通りに出ると船岡山に向かう道路は西へ、船岡山の建勲神社への参道となっていて、やがて鳥居に突き当ります。
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ここからはかなり急な階段を上って建勲神社に至ります。

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建勲神社は、秀吉が織田信長の廟所と定め祀って、のち大徳寺領となり、やがて明治になってその忠誠偉勲が追彰され神社となり現在に至っているのですが、
しかし、もともとここは船岡山の地の神「玄武大神」が祀られているところなのです。

現在も中腹に玄武大神を祀る「船岡妙見社」を見ることができます。
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船岡妙見社 船岡玄武神社 本殿と拝殿.JPG
駒札には「今から千二百年の昔、平安建都に際し、風水が相される。船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の起点として平安京が造営された」と書かれています。


これこそが都の北を守る神としての鍵を握っているところだと、昨年、堤先生の現地案内で教わりました。

妙見は北極星を表わし、北を示すシンボル。

そしてこの社殿もそして玄武神社も南…都を向いています。都を守るために!


ちょっとゾクゾクしてきました…。

「船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられている」とあります。

船岡山の玄武大神と町のなかの玄武神社。後者は船岡山のこの妙見さんに登れないときにお参りするところだったのでしょうか。


さて、頂上まで登ると市内が一望できます。
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この眺め、南を望んでいます。本当に気持ちがいいです。

桓武天皇(50)自らがここで地割をおこなったと言われています。同じ地に立っていると思うとまた興奮します!ここが平安京の北の起点だったんですね!ここから朱雀大路が南に延びて…。


船岡山について

高さ112メートル、東西200メートル、南北100メートルの丘陵。

山頂には古代の祭祀跡と思われる盤座(いわくら)があります。
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山の東麓に六兵衛池という大池があり、山の東端が池中に突き出し海に浮かぶ大船のようであったところから船岡と呼ばれたそうです。


清少納言は『枕草子』で「岡は船岡、片岡…」と称賛し、のち円融天皇
(64)が譲位後、この山麓で「子の日の遊び」をされたことから大宮人が小松を引き、若菜を摘んで宴遊する行楽の地ともなりました。

しかし、後冷泉天皇(70)以降、多くの后妃がこの船岡周辺に埋葬されることが多くなり、船岡は葬送の地へと変わってゆきます。

中世になると戦略的要衝の地となり、応仁の乱で西軍の陣地が築かれたことは周知のとおりです。


そして紫野

この船岡山から大徳寺周辺一帯が「紫野」と呼ばれるところ。平安前期には天皇の遊猟地となり、桓武天皇が狩猟されて以来嵯峨天皇(52)、淳和天皇(53)も来遊されたと伝わります。船岡山で「子の日の遊び」がおこなわれてよりは紫野は和歌に詠まれ、歌枕の地として知られましたが、鎌倉時代に至り、大徳寺が創建されました。


ふたたび玄武神社へ

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玄武神社本殿の後ろ、北側に建物が見えていますが、このマンションが建設される際、発掘調査がおこなわれました。
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2000年ですからまだ記憶に新しいところです。
発掘調査で、「雲林院」跡の苑池や建物跡、井戸跡が発見されました。


雲林院とは?

いまは小さな堂宇となり大徳寺の境外塔頭となっていますが、
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雲林院は淳和天皇が紫野に造営された離宮「紫野院」のあとを寺院として継いだところ。

淳和天皇はしばしばこの紫野院に行幸し、釣台に御して遊魚をご覧になったり文人に詩を賦さしめたりして遊宴されたと記録にあります。
やがて仁明天皇(54)の第七皇子、常康親王に伝領されましたが、
親王は即位できず出家、僧正遍照によって寺院となり、雲林院と称したそうです。

僧正遍照は惟喬親王をとりまく六歌仙のひとり。惟喬親王の寵臣でした。「あまつかぜ雲のかよいぢ吹とじよ…」の和歌で知られていますね。

常康親王から雲林院を託された遍照は、境内の鎮守であった玄武大神を祀る社に惟喬親王を合祀し、生涯、親王への追慕に生きました。常康親王惟喬親王の母はともに紀名虎の娘、つまり従兄弟であり叔父甥の間柄でした。そして母が藤原氏ではなく紀氏の出であったがゆえに即位できなかった失意の親王たちなのです。


雲林院の木のかげに、たたずみてよめる

  侘び人の別きて立ちよる木の下は

  頼む陰なく紅葉散りけり   僧正遍照


雲林院は千手観音を本尊とした本堂をはじめ多くの堂舎が建てられ、さまざまの法会が催され、なかでも寺内の念仏寺の菩提講は、極楽往生へ導く法華経の説教会として、今日の彼岸会のように多くの善男善女が参集したところと伝わります。

平安文学の一つ「大鏡」は、この菩提講で落ち合った旧知の老翁(大宅世継190歳と夏山繁樹180歳)が昔語りをするという趣向で記述されています。


雲林院はまた花の名所としても知られ、咲き誇る花の美しさは雲の林と称えられました。
王朝時代、歌人の諷詠地となり、謡曲「雲林院」の題材ともなった和歌文学の名所でありました。
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やすらい祭について

いま雲林院という町名としてのこっていますが、この雲林院地区、もと雲林院村のお祭りとして伝承されているのが玄武神社のやすらい祭。
玄武神社によりますと、康保二年
(965)の大水害のあと疫病が蔓延したため、玄武神社において祭りをおこなったのが京都の鎮花祭のはじめとされています。


当時、疫病が流行るのは恨みをのんで亡くなっていった人の怨霊の仕業と考えられ、霊を鎮めるための御霊会が催されました。紫野御霊会、船岡御霊会といった御霊会も知られています。


そして先に書きました常康親王も惟喬親王も即位できなかった無念の親王たちです。常康親王を慰める御霊会はやがて惟喬親王の霊を慰める御霊会になっていったようです。


玄武神社には背中に「雲」と染め抜いた素襖が伝世しており、雲林院の御霊会が玄武神社と今宮神社に引き継がれたのが現在のやすらい祭のようです。
そして北の御霊会はやすらい祭り、東の御霊会は祇園祭となってゆきます。


4月の第二日曜には玄武神社、今宮神社、川上大神宮でやすらい祭がおこなわれています。

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赤熊
(しゃぐま)をつけた鬼や小鬼が鉦や太鼓を叩き、氏子地域を練り歩きます。

玄武神社は「玄武やすらい花」と呼ばれ、風流傘に入ると一年間無病息災で過ごせると言われ、行列が来るとみな競って傘の下に入ります。
「富草の 花や とみよせば なまえ 御倉の 山に 余るまで なまえ……」


最後に…やすらい祭が京都三大奇祭のひとつとされているのはなぜなのでしょうか?

祭りは本来神社のもの。それが雲林院という寺院に端を発することが「奇」なることだ!と…講座で先生から教わりました。


いつの間にかとんだ長話になってしまいました。

ここはめったに観光客が訪れることもなく、地域の氏神さまとして尊崇されている神社です。

でもこんな歴史を秘めているなんて驚きですね。

玉垣のそばに色づき始めた紫式部を見つけました。
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そういえばこの近くに式部のお墓もあるのです。小野篁も並んで…。

紫の縁からこの地にあるのでしょうか?

そのお話はいずれまた─。

なにより来月は紫の実がたくさん見られそうです。

地蔵盆に

朝夕にすこし涼しさを感じるようになる頃、暦では処暑の頃にあたるでしょうか、地蔵盆がおこなわれます。

関西では広くおこなわれているようですが、最も盛んなのは京都かもしれません。京都ではポピュラーな夏の年中行事です。


地蔵盆は子供たちのためのお祭り。

地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日(毎月24)の、お盆の期間である旧暦724日の前日(宵縁日)を中心とした三日間を言い、823日前後におこなわれるところが多いようです。

地蔵菩薩は自ら出向いて地獄の責め苦から人々を救ってくれる有難い仏さまですが、

親より先に亡くなった子供が賽の河原で苦しんでいるのを救うという伝説から中世以降、子供の守り神として信仰されるようになりました。

そして町内に祀られたお地蔵さまが祠から出て子供たちと過ごす?のが地蔵盆。

地蔵盆を「お地蔵さん」と呼び、昔はたいてい二日間おこなわれていました。

地蔵盆が近づくと、町内ではお地蔵さまを洗い清め、前垂れを着せ、お化粧を施して準備をします。
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子供の名前が書かれた提灯を飾り、大人たちは会場の設営にも大わらわとなります。

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当日はご詠歌の奉納や数珠回しの他に、おやつや福引き、金魚すくいなど楽しいプログラムが目白押し、お地蔵さんは子供たちの天国です。


子供の頃、地蔵盆はもう夏休みも残りわずかとなった、夏の最後の楽しみでした。

紫野の大徳寺の門前で育ちましたので、その地蔵盆の話を少し。


門前の町内では大徳寺の境内に地蔵盆が設けられていました。

この地蔵盆はちょっと他にはないような地蔵盆で、と言いますのは、当時、三門「金毛閣」の下が地蔵盆の会場となっていましたので。
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あの三門の下で、昼は数珠回しやスイカ割り、夜は六斎念仏に興じていました。

六斎念仏は「獅子と土蜘蛛」。蜘蛛の糸が投げられるのが見事でいつも見入っていました。

毎日お地蔵さんに入り浸り、ただもう遊ぶことに夢中の二日間。

三門の下で遊んでいたとはいま思うとなんと恐れ多いこと…。


そして大徳寺では現在も823日の夕刻に、山内の僧侶方や修行僧がお地蔵さまにお参りされます。

まず「千躰地蔵塚」に。
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列をつくり、読経しながら回り礼拝されます。

こんなに多くの僧侶方が揃われての行道は開山忌の時くらいしか見たことがありません。
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そしてつぎは、総門を入って正面の「平康頼之塔」の前に移動しての諷経
(ふぎん)

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平康頼とは、あの鹿ヶ谷の陰謀で鬼界が島に流された後白河上皇の寵臣。なぜそのお墓?がここにあるのかはさておき、よく見るとなかなか古びて趣のある仏さまです。

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そしていよいよ、いまは地蔵盆のお地蔵さまが祀られていますお茶所でのお経。

ここはいつもは大黒天が祀られているのですが、地蔵盆には脇にお地蔵さまがお祀りされます。

赤ん坊を抱いた彩色も美しいお地蔵さま。

ふだんは拝むことができません。この地蔵盆の時だけです。
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このお地蔵さまはもと托鉢の僧が背負っていたもので、いつしか門前の者がお世話するようになったとか。

慈愛に満ちたこのお姿も来年まで拝むことができません。
よく目に焼きつけておきたいと思います。

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お経が終わる頃、日はすっかり暮れていました。

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暗くなった境内で町内の人たちだけが見守る、静かな地蔵盆の行事。
もう夏の終わりの気配がただよっています。