清遊ブログ 上七軒界隈にて

すこし寒さがゆるんで、陽ざしも明るくなってきました。
今日は上七軒(かみしちけん)にやってきました。
今出川通りと七本松通りの交差点を上がって、上七軒通りを西へ歩きます。
上七軒は京都の五つの花街(かがい)のうちで最も古い花街。
五つ団子の提灯が軒を飾っています。二本で十個の団子がくるりとめぐっています。
 
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3
25日から始まる北野をどりのポスターもあちこちに。

今年は北野をどりが60周年を迎えるそうです。

お茶屋さん、仕出し屋さん、お寿司屋さんなどが軒を並べ…
やはり華やいだ雰囲気です。
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上七軒の歴史をひもときますと-

室町時代、北野社殿が一部焼失し修復されました。
その際、社殿御修築の残材を以て、東門前の松原に、七軒の茶店を建て、参詣諸人の休憩所としましたので、七軒茶屋と称したのだそうです。 
その後、天正十五年(1587)八月十日、太閣秀吉が北野松原において晴天十日間(実際には一日だけで終わりました)の大茶会を催し「茶の湯執心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」との布令を発したため、洛中は勿論、洛外の遠近より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず非常の賑わいを呈したと。 
その際この七軒茶屋を、豊公の休憩所にあて、名物の御手洗団子を献じたところ、いたく賞味に預り、その褒美として七軒茶屋に御手洗(みたらし)団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、わが国に於けるお茶屋の始まりだそうです。 
現在、上七軒花街が五つ団子の紋章を用いるのは、実にこの名物御手洗団子に由来すると上七軒歌舞会では伝えています。
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上七軒は真盛町、社家長屋町、鳥居前町の三つの町内から成っています。
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上七軒歌舞練場をのぞいてみましょう。
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ここのお提灯も二本の五つ団子。これは下で串が交差して円になっています。
 

上七軒歌舞練場―

昭和
6年の建築。客席への廊下は高欄がめぐらされ、茶屋建築には珍しい神殿造りの風情。

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高欄をめぐらせているということは橋掛かりの構成であり、橋は異界へ誘われることを暗示しています。
以前、おもしろ講座で堤先生から能舞台の装置についてうかがったことがありましたね。

他の歌舞練場がオートマティック化されていくなか、手動式の舞踊専門の建物で、地方(ぢかた)との相性がよく、微妙な間がとりやすい劇場として定評があるのだそうです。  


ちなみに歌舞練場の正面は、天満宮東側の御前(
おんまえ)通りに面しています。天神さんの前の通り=御前通りです。

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さて、この花街のなかに、なんと五本の筋塀(
すじへい)がありますが…。はて門跡? 
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正面にまわってみましょう。
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西方尼寺―

ここは真盛山と号する尼寺。

寺伝によれば文明年間(
146984)に慈摂大師・真盛(しんせい)上人を開山として大北山の地に尼僧の修行道場として建立したものを、永正年間(150421)に現在地に移転した由。

本尊の阿弥陀如来坐像は椅子に腰掛けて中品中生印を結ぶ極めて珍しい像。
寺宝の絹本著色観経(かんぎょう)曼荼羅図(重文)は当麻寺の中将姫ゆかりの綴織観経曼荼羅図(当麻曼荼羅)を鎌倉時代に転写したものだそうです。
観経というのは浄土宗で使用する三部経の一つ「観無量寿経」のこと。


そしてじつは本光院という門跡寺院が西方尼寺のなかにあるのです。 
本光院―

本尊は延命地蔵菩薩。
本光院は乾元元年(1302)、後二条院の皇女が父帝の菩提を弔うために開創、蔵人御所号を勅許されました。

元は上京二階町にありましたが荒廃して、天正年間に織田信長が再建して北野に移転しました。この時より延命地蔵菩薩を本尊としています。

中興の祖、本光院日心尼の院号により本光院と改称しました。摂家子女が入寺する寺でしたが、次第に荒廃し、宗派も時代により変わりました。
 
昭和43年に天台真盛宗の西方尼寺境内に再建されて、西方寺住職が本光院門跡も兼ねて法灯を継承しておられるのだそうです。

本光院がある西方尼寺境内には北野大茶会の時に千利休が使用した井戸「利休井戸」や利休手植えの「五色散椿」が伝わっています。
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西方尼寺 五色散椿.jpeg
なお、本光院には鎌倉時代から南北朝にかけての武将・足利直義(
足利尊氏の異母弟)の妻・本光院殿(渋川貞頼の娘)が開山したという説も伝わっています。
 
西方寺は拝観することはできませんが、ここには「真盛豆」という菓子が伝えられていますので、そのお話をいたしましょう。
真盛豆―

真盛上人が念仏を聴きにきた信者に作ってもてなしたものといわれ、真盛の弟子で、この西方寺の開祖である盛久・盛春両尼が真盛から製法を伝えられ、以来代々この寺に伝わってきたものとされています。
天正十五年の北野大茶湯に使用され、秀吉が茶味に叶う味と賞賛し、細川幽斎は苔むす豆にたとえたといいます。
明治初年に初代の金谷正廣(安政三年創業)が西方尼寺に出入りし、この製法を伝授され、さらに茶人にあうよう工夫したと伝えられています。

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炒った丹波黒豆に大豆粉を幾重にも重ね、青海苔をまぶした風雅なお菓子。
真盛豆は金谷正廣(堀川下長者町通り西入ル)の銘菓となっています。
秀吉公の見立てのとおり、茶道の干菓子に適います。
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西方尼寺の屋根に贔屓(ひいき)を見つけましたよ…。
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先へ行きましょう。
 
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ここは和菓子の「老松」。

花街のなかにあって茶店の風情をも残しつつ、北野社ゆかりの屋号を持ち、北野の信仰とともに京の雅を伝える菓子司として
貴重な存在。
茶の湯のお菓子でもおなじみですね。
店内にはやはり舞妓さんの団扇も飾られて。
 
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梅尽しの干菓子「春鶯囀」が目にとまりました。
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『源氏物語』「花宴」に、東宮の所望により光源氏が「春鶯囀(しゅんのうでん)」の一節を舞ったくだりがありました。
その優雅な場面も想像されて、まだ少し早い北野の春を先取りです。 

まもなく上七軒通りは尽きて、御前通りの北野天満宮東門前に出ました。
 

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この東門
重要文化財)はなかなか立派なものです。
銅板葺き、四脚門。
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木鼻は獅子と象。
 
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鬼もいます!
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屋根には梅花の瓦押えが置かれています。
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東門を潜ると本殿の「石の間」に向かうかっこうになります。
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ここから見る本殿も優美な佇まいです。

まずは正面にまわり参拝します。
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東門を入ったあたりに戻ってすこしご紹介しますと、
本殿後ろに朱塗りの地主神社が見えます。

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ご祭神は天神地祇(
てんしんちぎ)
天満宮第一の摂社。道真公以前から祀られていた記録があり、北野の地に元からあった地主神。
じつはここは大変重要なお社で、現在の北野天満宮の正門は、道真公を祀る本殿ではなく、このお社に向かって建てられているのです。

 
手水舎の奥に竈(
かまど)社や茶席・明月舎があります。
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竈社の前には見事な老木が。
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ここは長五郎餅の出店。
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 毎月
25日や不定期にここで長五郎餅が販売されます。
          (長五郎餅本店は一条七本松西)

長五郎餅はやはり天正十五
年の北野大茶会の折、秀吉に好まれてその名をもらったというお菓子。餅皮に餡を包んだ門前菓子の一つです。

梅もちらほら咲き初めています。
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さて、天神さんを出たら、いよいよ「天神堂」に立ち寄りましょう!

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これも門前菓子の「やきもち」を求めます。
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今日の目的の一つかもしれません(
笑)
堤講師の大好物…。
お餅と餡のこうばしさが素晴らしいのですが、このおいしさはとても言葉ではお伝えしきれません。 
天神堂の前の東向き一方通行の道は五辻(いつつじ)通り。
東へ向かいます。


五辻通りは東へ行くと千本釈迦堂へつづく参詣道になります。


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七本松通りに出る手前に、おせんべいの「田中実盛堂」。


こちらの「京絹巻(
きょうきぬまき)」を井上由理子先生から教えていただいたのは何年前でしょうか。まだ最近のことです。

「京絹巻」は西陣織の「杼(
ひ)」の中の木管をかたどったという煎餅(右)。糸巻の感じが出ていますね。
 
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写真で下におかれているのが経糸(たていと)の間に緯
(よこ)
糸を通す道具である杼。
舟形で,中央に緯糸を巻いた木管をおさめています。
左右に走行させて織っていきます。


 
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京絹巻はいただくと胡麻の香りが口いっぱいにひろがり、ポリポリとあっという間に食べきってしまいます。
なかの芯は砂糖と水飴で作られていて、一つ一つを手焼きの煎餅で巻いています。
ご主人いわく機械でなく手で巻かないと風味が壊れるのだとか。

こちらのお店、大正
10年の創業だそうですから、90年ほどになります!
素朴で、飽きない味と形。
手作りの温かみ。ずっと作り続けてほしいお菓子です。 
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京絹巻のほかにも白みそ風味や赤みそ風味の松風など。

午後三時を回った頃。下校途中の小学生が店先を覗いていきました
。おやつの時間です。

七本松通と五辻通りの交差点。いま歩いて来た五辻通りを振り返って。

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この辺りは西陣のエリアで、西陣織にかかわる、いわゆる「糸偏(
いとへん)」の仕事をしておられる所がたくさんあります。

西陣織の帯の織元「丸勇」さんを訪ねました。
こちらでは「唐織(からおり)」を主に織っておられます。 
唐織は能装束などでよくご存じと思いますが、太い染糸を使って刺繍のように模様を織りだす複雑な技法で、西陣織の技術の高さを天下にとどろかす基となったものです。
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唐織― 
『西陣天狗筆記』と『雍州府誌』によれば、弘治年間に大舎人座(おおとねりざ)の座人であった紋屋・井関(いせき)七右衛門宗鱗が工夫を凝らして紋織法を創出し、
慶長頃に、同じく大舎人座の蓮池(
はすいけ)宗和に伝え、蓮池宗和がさらにその技術を発展させ、蜀紅錦に倣った五色糸の紋織模様の唐織を完成させたとされます。
井関家―

井関七右衛門宗鱗の時代より織物司としての優れた家柄で知られています。
宗鱗より数え八代目にあたる井関頼母氏は、伝来の紋織物を伝授して<紋屋号>を称え、格式の高い六人衆の筆頭として内蔵寮の織物司に補せられていました。
昨秋、紫野案内で「紋屋の辻子(大宮通り五辻上ル西入)」を訪ねましたね。

天正十五
年に、井関宗麟が、袋小路となっていた土地の家屋敷を買い取り、行き抜けにしました。それが現在の五辻通りです。この通りには、現在も、井関の屋号にちなみ、紋屋の辻子と呼ばれる有名な辻子があります。 
蓮池宗和―
その屋号は「俵屋」。画家の俵屋宗達の出自を織屋であるとする説もあるそうですが、もしそうであればこの俵屋蓮池こそ宗達の生家であるかもしれないのです。
無名であった宗達は本阿弥光悦に見いだされ、光悦と組んで素晴らしい芸術を生み出してゆきますが、光悦の屋敷跡が西陣(白峯神宮の東側)にあり、宗達も西陣織にかかわる家の出自であれば、二人の出会いは自然なことであったかもしれません。
 唐織の織機について―
紋織に用いられる織機を高機(たかばた)といいますが、この高機が戦国時代の末期ころに開発され、それまでの平織りしかできなかった「いざり機」から代わって、初めて日本にも精巧な紋織ができるようになったのだそうです。 

さて、今一度、百一色の糸を使った帯をごらんください。
ぷっくり膨らんだ唐織の風合いがおわかりいただけるでしょうか。
どれだけの手間がかかっているのか想像もつきません。
部分でしかご覧いただけませんが、帯一本がまるで美術品のように思われます。
でもこれらは普通に市場に出されてゆくものです。
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おめでたい宝尽しも地色によって印象が変わります。
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カタログには百一種の糸の色が描かれています。
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七宝つなぎの中はなんと百八種の花が織り出されています。
 

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礼装用の帯。金糸がたくさん!
 

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著名な伝来の小袖から紋様の意匠を選び配置して織られています。

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どれも古典柄のなかに現代的なセンスを取り込み、京都らしい雅びやかさ、品格が感じられます。色あいもはんなりしています。

 

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唐織の糸。微妙に異なる色の多さに驚きです。
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糸を染めるところから始まる先染めの西陣織。
ものすごくたくさんの工程を、折に触れ、少しずつ学んでいきたいと思いました。
 

さて、七本松通りを渡り、五辻通りを千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)まで行きましょう。
といってももう目と鼻の先です。

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このお店・VERTIGOは「わっ!フル」がおいしいです!

この道は参詣道。
いまは生活道路となっていますが、応仁の乱の西軍の大将、山名宗全も通ったであろう道です。
大報恩寺(千本釈迦堂)に着きました。

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年の創建時そのままの姿で建つ本堂。
京都市内最古の木造建築。国宝。
ご本尊も創建当初からのもので、本尊と本堂がともに同じ場所で祀られている唯一の例だそうです。
本堂外陣の柱には応仁の乱の槍、矢、刀傷の跡があり、残っているのが奇跡のような。 
信仰の寺なのですね。 
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枡組の斗栱(ときょう)を施すことで重量を四方に逃す方法。
本堂造営のさい、かけがえのない柱を切り落としてしまった棟梁に「枡組」を施すよう進言をして無事完成した、内助の功の
「おかめ」さんにも会えました。
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枡組をささげ持っておられます。
ふくよかなお顔にほっこりです。 
さて1
キロメートルも歩いたでしょうか。
堤先生には天神堂の「やきもち」を始め(大笑)、たくさんのご教示をいただき
こんなに短い距離なのに、びっくり箱のようにたくさんのものに出会え、楽しい散策でした。

今日はここをゴールといたしましょう。
また一日春に近づきますように。それではまた。
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         千本釈迦堂宝蔵館前のクロガネモチの大木

節分ご案内 報告

23日、節分案内を行いました。
雪が舞う底冷えの前日とはうってかわり、すっきり晴れて暖かい日になりました。

聖護院で集合し、まずは須賀神社へ。
この聖護院から吉田神社辺りにかけてはたくさんの人で賑わっています。
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須賀神社では今はもう有名になった烏帽子に水干姿の「懸想文(けそうぶみ)売り」
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梅の枝に懸想文を結んでいます。
 
本殿にお参りします。
右が須賀神社。左は交通神社です。
 
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須賀神社は、鳥羽上皇の中宮・美福門院得子の御願寺、歓喜光院の鎮守社として創祀され、
東天王社にたいして西天王社と称した歴史があり、須佐之男命、櫛稲田比売命が祀られています。
そして昭和39年に須賀神社から分祀し、創祀されたのが、左の交通神社。
久那斗神(くなどのかみ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)の御祭神は道が八つにわかれる衢(ちまた)の神で交通の要衝を守るとされます。

堤先生に昨秋の講座で教わったとおり、今年は、『古事記』が成立して
1300年とのことから、この三座のお話をさせていただきました。

もともと当社は旧聖護院村の産土神(うぶすながみ)。
毎年510日に行われていた「角豆祭り(ささげまつり)」は、角豆に多くのさや豆が生まれるごとく子孫繁栄を願っての祭りでしたが、今は節分の「懸想文売り」にとってかわりました。

長い時間を経て、土地の産土神を祀る神社から、季節を司る祭りや、祭神を分祀し本来の祭神を祀る神社への移行には、現代に適った役目を負う決意が表れているといえます。


懸想文売りが覆面をしているわけを聴いたり、懸想文は鏡台や箪笥にしまっておくと美人になるとか良縁がくると聞きました…。
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数年前から売られているという須賀多餅もおいしそうです…。

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求肥にくるまれた柚子風味と梅風味
そしてこの木が角豆(ささげ)の木です。
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さて須賀神社を出てお辰稲荷へ。
お辰稲荷神社は、江戸時代、東山天皇の女御・新崇賢門院(しんすうけんもんいん)の霊夢によって創祀された神社。
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宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、猿田彦神、天宇受売神を御祭神としています。
琴の上手なお辰狐を祀るといわれ、江戸庶民の信仰を集めたお社。

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さて、歩道橋を上り、丸太町通りをわたりました。
(誰かさんなら上れなかったでしょう。でも全然怖くないですよね!)



気持ちいいですね。前方は東山の山並み。右手の塀は平安神宮。
ちょうど、美福門院の歓喜光院があった辺りでしょうか。

丸太町通を南に折れ、岡崎道へ。

岡崎道西北の交差点には小沢蘆庵(江戸時代中期の歌人)旧宅で、また蒲生君平(江戸時代後期の儒学者。寛政の三奇人のひとり)の旧宅でもあった碑が建っています。
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岡崎道から平安神宮の塀に沿って西へ。
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向こう側中央に見えているのは京都市美術館。
手前のグラウンドは鳥羽天皇の御願寺、最勝寺の跡。そして美術館の辺りは鳥羽天皇中宮・待賢門院璋子の御願になる円勝寺があったところ。

平安時代末、この辺り一帯は、正確には北白河と呼ばれていました。
白川をはさんで南側は南白河と言ったのだそうです。
北白河は貴族が住み、六波羅を中心とした南白河は武士が住んだところであったそうです。
さて、平安神宮に着きました。
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ここで平安朝当時の「追儺式」が再現され、「大儺の儀」が執り行われます。

碧の瓦や社殿の朱色が鮮やかです。
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いよいよ大儺の儀(だいなのぎ)が始まります。


東の方から上卿(しょうけい)・殿上人(でじょうびと)が童(わらわ)をしたがえて入場し、五位・七位の儺人(なびと)が続きます。
西の方からは、陰陽師(おんみょうじ)が6人の斎郎(さいろう)をひきいて入場しました。
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儀式をつかさどる陰陽師が独特の歩き方で版の前に進み、祭文(さいもん)を奏上。
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文の途中で黄金4つ目の面をつけた大舎人(おおとねり)の方相氏(ほうそうし)がシンシ(子どもの所役)8人をひきいて入場。 

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上卿が中央に進み、北東と北西に向かい桃の弓で葦の矢を射ます。
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殿上人が同様に桃の杖で、北東・南東・南西・北西と四方を撃ちます。

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方相氏は常人の倍の眼力で睨み、矛と盾を打ち鳴らし「鬼やらう」と発声しながら、斎場の周囲を3度廻ります。
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後にはシンシと儺人(なびと)が「鬼やらう」と発声しながら続きます。
応天門でも同じ儀式が行われました。
 
つぎは鬼の舞です。

大蔵流、茂山社中扮する邪鬼たちが応天門より侵入してきました。


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境内をわが物顔で暴れます。
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大極殿まで占拠したようです。
ここで得意げに舞を舞っていますが…。
やがて市民代表の撒く打豆によって退散!


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そのあとは楽しい豆撒きが始まりました。
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みなさん、たくさんキャッチできたようです。
 
さて平安神宮を後にして─。
いつもは観光バスの駐車場ゆえ、バスに隠れてみなさんあまりご存じないですが…

京都守護職屋敷の門
にきました。

現在の京都府庁付近にあった京都守護職屋敷の門の一つを
明治32年(1899)前後に現在地の旧武徳殿前に移した立派な門です。
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旧武道専門学校最後の校長であった鈴鹿野風呂の句碑
「風薫る左文右武の学舎跡」

旧武徳殿は、桓武天皇が武技を奨励するために東西に置いた武徳殿に由来しています。

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いまは北側に武道センターが建っています。

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ちなみに京都府庁の敷地内には幕末におかれた京都守護職屋敷跡の碑が建っています。


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               京都府庁 上京区下立売通り釜座
疏水を西側にわたり、京漆器の老舗、象彦へ。

まずは代々伝わる雛人形や、それに付随する見事なミニチュアのお道具の数々を見学。豆粒ほどのお道具が実に精巧にできていました。

展示場では、漆の木地の薄さに驚いたり、塗りの種類を教えてもらったり、漆の意外な性質に耳を傾けました。日本古来のものですが、知らないことばかりです。
圧巻は蒔絵の筆の秘密でしたね! 

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あっというまに時間が過ぎ、節分案内は解散とさせていただきました。
節分を越えると、まだまだ寒さは厳しくとも一歩ずつ春に向かいます。


春にはまた皆様とご一緒に町を歩いてみたいと思います。

その折にはどうぞよろしく!
京都・清遊の会では皆様のご参加を心よりお待ちしております!
   

ご報告

寒さ厳しい日々が続いておりますが、京都・清遊の会の皆様にはいかがお過ごしでしょうか。

一言ご報告申し上げます。


かねてより病気治療中の堤勇二講師におかれましては、今月
18日に再手術を受けられ、手術は無事成功し、経過は順調で、退院、現在自宅にて療養されています。

二度の手術や化学療法などたいへん長い治療を経て、なおも体調の回復までには時間がかかることとは存じますが、堤先生はようやく峠を乗り越えた思いで、落ち着き、療養に専念されております。


皆様にはたいへんご心配いただき、お見舞いや励ましのお言葉を頂戴し、誠にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。


今後、堤先生の経過をみて講座再開への運びとなります折にはお知らせ申し上げます。

皆様には引き続き変わらぬご指導を賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。
                         
            京都・清遊の会 主宰 中川祐子
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清遊ブログ  岡崎にて 六勝寺のことなど

今日は左京区岡崎にやってきました。
来月の節分案内の下見を兼ねて、細見美術館で展観中の「三井家と象彦漆器―華麗なる京蒔絵」展を見る目的もありました。
昨年には東京日本橋の三井記念美術館でこの展示をご覧になった方も多いのではないでしょうか。
三井家とその愛顧を受けて象彦が創り出した京蒔絵の数々は素晴らしく、近代京都の漆芸を見る絶好の機会といえそうです。


さて、細見美術館は東山二条から二条通りを東へ、ちょうど琵琶湖疏水と交差する北西角にあります。
屋上というのでしょうか、階上のお茶室の前からは辺り一帯が見渡せます。

二条通りを東に向かって眺めると、左手は京都会館。右手は手前から京都市勧業館、その向こうは京都府立図書館、そしてその向こうにわずかに市立美術館の屋根が見えます。
東山の連なりが屏風のように正面に見えています。
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岡崎と呼ばれるこの辺り一帯は、明治28年の内国勧業博覧会の敷地跡に整備されて以来、今や文化・芸術・音楽などの施設が集合した京都の文化的ゾーンとなっていますが、
もとは藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)の別業の地であったところです。
「白河」と呼ばれ、院政期において白河上皇の離宮・白河殿、得長寿院、またその東南は法勝寺を始め「勝」のついた6つの寺院・六勝寺などが建立された土地でありました。

堤先生からご教示を受けたことなどたどりつつお話をしてまいります。


六勝寺

平安時代末期、藤原師実(もろざね)からこの地を献上された白河天皇は法勝寺を創建。
そして堀河天皇御願の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、鳥羽天皇中宮待賢門院璋子(たまこ)の円勝寺など六つの寺院が次々に創建されました。


──見渡してみますと、
この二条通り=二条大路は平安京において京都のメインストリートでした。
二条大路は上京と下京を分ける分岐でもあり、内裏を中心とした公家の屋敷が並んでいたといいます。
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──南側のこの一角は六勝寺のうち、最後6番目に営まれた近衛天皇の御願になる延勝寺があった辺りです。
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近衛天皇(第76代天皇)──
鳥羽天皇の第九皇子で、美福門院得子との間に生まれ幼名を体仁(なりひと)。
父である鳥羽天皇に寵愛されていたため、鳥羽は崇徳天皇を譲位させ、代わって二歳の体仁を即位させたが、生来病弱で、15歳の時には失明の危機に陥り、退位の意思を摂政である藤原忠通に告げたが慰留、しかし17歳で崩御。
近衛天皇には子がなく、鳥羽法皇が没すると崇徳院(すとくいん)側と後白河天皇側が帝位を巡って対立し、これが保元の乱の原因となりました。
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──写真右端のほう、見えづらいですが、二条通りが東大路通りと交差するところ(東山二条)、その東大路通り西側は、平清盛の父、平忠盛が備前守のとき鳥羽院に得長寿院を造営寄進し、三十三間のお堂に千躰仏を奉ったところです。
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このことで忠盛は昇殿を許され殿上人となり、やがてそれを憎んだ公卿たちが闇討ちを企てます。有名な『平家物語』「殿上の闇討ち」のお話です。
清盛が後白河天皇に造営したのが今の蓮華王院(三十三間堂)ですが、清盛より早く忠盛が三十三間堂を建てていたのですね。
南北に細長いこの得長寿院は残念ながら元暦2年(1185)の地震で倒壊しました。


そして得長寿院の向こう、西側に白河院の院御所・白河殿の南殿、北方には白河北殿がありました。
この白河北殿はのちに保元の乱のさい、崇徳院側の拠点となってゆくのですが…。
地図でおおよその寺域を囲みましたので、ご覧ください。
お見づらい点ご容赦ください。

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──さて、もとに戻って、写真左手、北側は京都会館の屋根が見えていますが、そのまた北側には堀河天皇の御願になる尊勝寺がありました。
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現在の旧武徳殿や京都市武道センター、平安神宮の一部の敷地がそうです。
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旧武徳殿は、桓武天皇が武技を奨励するために東西に置いた武徳殿に由来し、
明治32年、平安建都千百年記念事業として建てられました。

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重要文化財。堂々たる建築ですね。
尊勝寺は法勝寺の次、二番目に建てられました。

──さて、それではいよいよ二条通りを東へ進んでみましょう。

勧業館を過ぎて、右手(南側)が京都府立図書館。
ここは崇徳天皇の御願になる成勝寺があったところ。
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            京都の産業の近代化に貢献したドイツ人、
ワグネルの記念碑が建っています。


六勝寺は結果的には衰退、廃寺となりますが、この崇徳院の成勝寺は最後まで残っていたそうです。

──神宮道をわたると右側は市立美術館。
ここは鳥羽天皇中宮待賢門院璋子の円勝寺があったところ。
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そして左側(北側)は岡崎公園グラウンド。
ここは鳥羽天皇の御願による最勝寺のあったところとされています。
向こうに平安神宮が見えています。
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夫婦の御願寺が一応、向かい合って建っていました…。


鳥羽天皇(第74代天皇)──
堀河天皇と藤原い(草冠+以)子との間に生まれる。
生後まもなく母・い子が没し、祖父である白河天皇に引き取られ養育された。
父である堀河天皇崩御後、五歳で即位したが、政務は白河法皇が院政を行った。
白河天皇の養女である待賢門院璋子を中宮とし、璋子との間に出来た第一皇子・顕仁親王に譲位した。これが第75代崇徳天皇。
しかし、崇徳は実際には白河天皇と璋子との間にできた子で、鳥羽はそのことをうすうす知り、崇徳のことを「叔父子(おじご)」と呼んで疎んじた。
璋子は後宮のみならず朝政にも権力を持ったが、白河法皇没後後ろ盾を失い、鳥羽は退位後に入内させた藤原得子を寵愛し、得子は呪詛事件を理由に璋子の実権を奪い、美福門院として璋子に代わり絶大な権力を握ることになる。
鳥羽天皇は寵愛する得子との間に生まれた体仁(なりひと)親王を即位させるため崇徳天皇に譲位させた。これが第76代近衛天皇。

まさに不穏な様相を呈しています…。


法勝寺

──右手に動物園の看板が見えてきました。
しかし…二条大路はここで終わりです。
(今は道路が続いていますが。)
信号のあるところが突き当たり。
ここからが法勝寺です!


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これこそが平安末期に君臨し、院政を執り、その権力を誇った白河天皇の御願寺。
白河天皇が六勝寺のうち第1番目に創建した最初で最大の寺。
右手前方にはかの八角九重の塔がそびえ、威容を誇っていたことでしょう。

六勝寺の構想を仕組んだともいえる人物、白河天皇の法勝寺とはどんな寺だったのでしょう。

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                   法勝寺模型(京都アスニー)

南に回って、南大門を入ると池の中島の中央、真正面に高さ82メートルともいわれる八角九重の大塔がそびえ、
その向こうには金堂、講堂、薬師堂が南北一直線上に並び、西側に阿弥陀堂、その向こうに五大堂。北に法華堂があります。
金堂からは翼廊をめぐらし、経蔵と鐘楼につながり、前は南庭(だんてい)となっています。
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金堂の本尊は3丈2尺という毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。
講堂には釈迦如来像。阿弥陀堂に丈六の九体の阿弥陀如来像。五大堂には不動明王。

白河天皇の造仏は大きさ、種類、数において並はずれていたそうで、
法勝寺と尊勝寺の造仏を、のちに最勝寺となる白河仏所で行っていたのだそうです。

毘盧遮那仏を安置する金堂は奈良仏教を、五大堂は平安の密教を、阿弥陀堂は浄土信仰をうけついだもの。
法勝寺はそれまでの仏教を総合した寺ということになります。
のちに慈円が『愚管抄』で「国王の氏寺」と称したとおりです。


白河天皇(第71代天皇)──
後三条天皇の第一皇子。
白河天皇は中宮賢子を溺愛し、賢子が重態となっても慣例に反して宮中からの退出を許さず、没すると亡骸を抱いて号泣し、食事も摂らなかった。
そのため権中納言源俊明が天皇は死穢に触れてはいけないと進言すると、「(宮中の前)例はこれから始まる」と言い放った逸話は有名。
賢子は摂政藤原師実の養子。白河天皇が即位三年目に建立を始める法勝寺の地は先述のとおり師実から献上されたもの。
祇園女御という妾を寵愛。さらに祇園女御の妹も愛し、この妹はのちに平忠盛の妻となるが、すでに白河院の子を宿しており、これが清盛という通説が生まれた。

──法勝寺の寺域をどんどん進みます。
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白河院の看板が。
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ここは名前も白河院という宿泊施設ですが、この庭園が法勝寺の釣殿あたりになりそうです。
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法勝寺のみでも広大な寺域ということがよくわかりました。
六勝寺となるとほんとうにその規模の凄さに驚いてしまいます。


法勝寺の「法」とは仏の教え。現世のしがらみに勝って、来世の成仏を願う意ゆえ。
また、「法」は「水(サンズイ)」を「去る」の意。鴨川や白河の近くゆえに、水害に遭わないようにと。


白河の地は平安末期に君臨した白河院が、みずからの後生と一族の菩提を弔い、また皇統の弥栄を願ってつくったまさに宗教王国、仏国土でありました。
内裏では政治に現世への執着を、白河の地では仏に来世への願いをこめ、鴨川を挟んで洛中と洛外、西と東に白河院の政治的、宗教的…野望、おん念が渦巻いていたといえましょうか。


昼と夜の両方で政治を牛耳ろうとした白河院が、自らが集めた権力と財力の限りを使って、自分の、そして自分たちの一族のためだけの来世での繁栄を願って建てたこの仏国土は、やがてはそのあまりにもさもしい心根のために一炊の夢と消えたのです。

そして、まもなく襲ってくる時代…
戦乱の都

保元元年(1156)、京都を戦乱の渦に巻き込んだ「保元の乱」、それに続く「平治の乱」、時代は「武者の世」へと変貌してゆきます。

崇徳天皇(第75代天皇)──
鳥羽天皇と待賢門院璋子との間に生まれた鳥羽天皇の第一皇子。実際には白河天皇と璋子との間に生まれた子。
そのため父の鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、崇徳の次の天皇に鳥羽と美福門院得子との間に生まれた体仁親王(=近衛天皇)を立てることを強要。
自分の子供のままでは皇子・重仁を即位させることはできないと感じた崇徳天皇は重仁を得子のもとに養子にいれ、養育させる。
これで近衛の次の天皇は自分の子である重仁となると思っていた崇徳天皇であったが、近衛天皇が死去すると、宮中では崇徳天皇が藤原頼長と結んで近衛天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに不快感を示した鳥羽上皇は重仁の即位を取りやめ、崇徳の弟である雅仁(まさひと)親王を即位させた。これが後白河天皇。
この後白河天皇の即位、そして院政を敷くこともできなくなった崇徳院を強く恨ませ、保元の乱へと突き進んでいくことになります。


鳥羽上皇が亡くなるや、この皇位継承争いは摂関家内部の争いを巻き込んで、武士の手を借り、白河北殿に立てこもる崇徳側と高松殿を陣所とする後白河側との戦いとなりました。
鴨川を挟んで、京の市街ははじめて戦さに巻き込まれたのです。
勝負は後白河側の勝利。
崇徳は讃岐に流され、かの地で亡くなります。

みずから舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」としたためた話は崇徳院が怨霊と化してゆく話として知られています。
以後、恨みをのんで亡くなった崇徳院は怨霊と怖れられ、明治天皇は1868年に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、その御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建しました。
そしてようやく明治と改元されたのでした。

後白河天皇の御所・高松殿跡は中京区姉小路釜座東入ル。
いま高松神明神社としてその名を伝えています。

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崇徳院の立てこもったという白河北殿跡は石碑が寂しく建っているのみです。
京都大学医学部付属病院の南側に位置します。
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この一角はずいぶん以前からこのように空地のような寂しいところです。黙して語らずのごとく…。
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おわりに


このブログを書くにあたり、堤先生からさまざまのご教示をいただきましたが、最後に先生のおっしゃったことが響きます。


「どんなに立派な建物であっても、私利私欲の気持ちが入って建てられた建物は今残っていません。自然にしろ、火災にしろ、破却されたにしろすべて失せてしまっています。しかし、私利私欲がなく万民のために建てられたものは残り、その役割を伝えてくれている」と。


このブログでお伝えした往時の建物は今は何一つ残っていません。
その地を歩き、その地が語ってくれる、その声を聴きとるしか過去の歴史を偲ぶことはできません。

明治28年、平安建都千百年を記念して、この地に京都の精神的支柱というべき平安神宮が創建され、さらに武徳殿、図書館、美術館などが次々に建てられました。
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まさに万民のために建てられ、近代の文武両道を目指した施設の数々。これらは必ずや後世に引き継がれていくのでしょう。


武徳殿の正門東側の植え込みに鈴鹿野風呂の句碑があります。

 風薫る左文右武の学舎跡


この白河の歴史もまたこの地が語る声を聴いていただけたなら幸いです。

 

新春特別講座 報告

17日、堤講師の新春特別講座「続・堤流 京都の学び方」が開かれました。

たくさんの方にお越しいただきました。
満員御礼です!
ありがとうございました!
講座は、始まる前から今日はどんなお話が聴けるだろうという皆さんの期待でいっぱいに感じられました。

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まずは昨年暮れにホームページ上で堤講師が出題された清遊クイズを、解答していただきました。

答えは次のとおりです。
神社編
①御辰稲荷神社、宗旦狐、相国寺
②車折神社、富岡鉄斎、冨田渓仙
③瀧尾神社、大丸百貨店、下村家
人物編
④辰野金吾、伊東忠太
⑤黒田辰秋、上賀茂民芸協団
⑥林屋辰三郎、女性史
みなさんのお答えはいかがでしたでしょうか?
堤講師の解説は、一枚の画像から話がどんどん広がります。
聴いているうちに、いつも講師がおっしゃっているように、知識が点から線へとつながり、線から面へと形を変えてゆく面白さを実感できました。
難解に思われた答えですが、丁寧な説明のおかげでなるほどと受け入れることができました。
そして、講師が実践してこられた京都理解の秘訣を伝授。

最後に、講師が日本宗教の三大巨人と考える、空海、道元、そして大本教の出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)の、
今、京都府亀岡市で開かれている展覧会「亀岡で生まれた美と歴史 出口王仁三郎一門展」を紹介されました。
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「芸術は宗教の母」との思想を打ち出した出口王仁三郎の信念と、そして魂が震えるような素晴らしいその芸術について熱く語っていただきました。

堤講師はいつも新たな提案をしてくださいます。
そして講義を聴くたび新鮮な驚きがあります。
ただ伝えるだけではない何か。
講師の魅力はどこからきているのでしょう。
学問にたいする真摯で謙虚な姿勢。
そして自身が感動した事柄を私たちに率直に語ってくれること。

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わくわくしながら京都を学ぶ、私たちもかくありたいと思います。
講座を終えて―
堤講師が「こんな歌ができました」と、教えてくれた歌があります。
こっそりご紹介します
(笑)
  
  新しき血の混じりたる宗教(おしえ)ほし
    空海
道元 王仁三(おにざ)はいづこ 
 
過去の歴史を語るのみならず、現在を見据え、そして未来への提言を発する堤講師に脱帽です。


堤先生へ
これから手術を受けられるとのことですが、
京都・清遊の会の皆さんとともに、一日も早くお元気になられるよう祈って、また先生の講義が聴ける日を首を長くして待っております!
素晴らしい講義をありがとうございました
!