祇園祭に

梅雨明けとともに連日猛暑が続いています。
例年、祇園祭山鉾巡行の頃が梅雨明けですが、ことし近畿地方は七夕の翌日と早かったですね。
晴れの日が続けば祇園祭の気分もがぜん盛り上がります。


10日に鉾建てが始まると、もう気もそぞろ。
鉾建てを見に、ではなく、朝から京都文化博物館近くにある
亀廣永さんに出かけました。
銘菓「したたり」を買いに…。


「したたり」は菊水鉾の復興にちなんでつくられた菓子として、
また菊水鉾茶会に出される菓子として知られますが、
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なにより京都の蒸し暑さを吹き飛ばしてくれるようなのど越しの良さが魅力です。
黒砂糖風味の琥珀羹は冷やしていただくのにちょうどいい甘さ。
暑い日盛りに山鉾を見て回り、帰っていただく「したたり」の美味しいこと!
日持ちがして常温で保存できるのも助かります。


菊水鉾は、菊の露のしたたりを飲んで七百年の長寿を保ったという中国の故事をもとに作られた、能楽「枕慈童(菊慈童)」に取材した鉾です。
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菊水鉾茶会では、巡行当日、鉾の上に乗る菊慈童人形の
稚児飾りを見ることができます。

近年まで菊水鉾の町内には金剛能楽堂がありましたが、その庭内に京都の名水の一つ「菊の井」という井戸があり、
この菊の井にちなんで「したたり」と名付けられたそうです。
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菊水の井跡  室町時代、茶人で千利休の師匠・武野紹鴎
はこの井を愛し、庵を結び、大黒庵と称しました。

この日も亀廣永さんにはお客さんがひっきりなしで、御主人も奥様も目の回るような忙しさにもかかわらずにこやかに応対されていました。


そしてもう一軒、堺町三条を上がって亀屋則克さんで
涼菓「浜土産(はまづと)」を。

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大正時代、初代が真夏でも日持ちするお菓子をと、
蛤に寒天、砂糖などを煮詰めて流し、浜納豆を一粒入れて作られたのだそうです。
桧葉を添えて籠に入っていると本当に磯の香りがしてくるような不思議な気がします。
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いただいた人がお鍋にいれて湯がいたという話は本当でしょうか?
まさか!さし上げるのに、これはお菓子です、と言わないそんな
いけずな(?)京都人はいませんよね。
いたりして(汗)。

いただくと、納豆の味噌の風味が広がります。
この涼味あふれるお菓子は、16日宵山の祇園祭献茶会のお茶席に出されています。


則克さんといえば、この時期には八坂神社の社紋の焼印が押された「葛焼」も有名ですね。
この日も祇園祭にちなんだ生菓子が幾種類も並べられていました。


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腰かけて生菓子を選んだり、待っている間に飾られているたくさんの干菓子の木型を眺めたり。
その日の気分に余裕を持たせてくれる貴重なひととき。
せわしい外の往来がうそのよう。ほっこりします。


いつのまにか陽が高くなって、日陰をもとめながらの帰り道、むくげの花を見つけました!
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と同時になつかしい記憶がよみがえってきました。


何年も前の祭釜の席。
床に生けられていたのは「祇園守(ぎおんまもり)」の花。

むくげの一種で、祇園祭の頃に咲くのでそう名付けられたとか。
白い清楚な一日花です。


なつかしい思い出とともに、今年もまた祇園祭がめぐってきたと実感した日でした。

京都・清遊の会 活動報告 五月 その2

京都・世界遺産現地案内


比叡山延暦寺 横川


快晴の五月四日、堤講師の案内でかねてより愉しみにしていた比叡山延暦寺を訪ねました。今回の目的は横川と西塔です。

 京都駅に集合し、バスにてお山を目指しましたが、大型連休の真っ最中、バスは超満員で座れない方も出てしまいました。たいへん申し訳なかったと反省しきりです。
しかし大型連休の観光地の恐ろしさを本当に知るのはこの後なのでした。

 小一時間ほどで延暦寺バスセンター(東塔)に到着、すぐに連絡したシャトルバスで横川へ。横川は東塔からもっとも離れたエリアで、円仁によって開かれ、元三大師良源によって発展しました。ここは道元、また日蓮が修行を行い、新仏教を開教する契機となった地としても有名です。
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横川の入り口で説明を聞きます。期待大!

 一同はまず、龍ヶ池弁才天にて良源の怪異譚を聞き、前にある如法水で良源の弟子、恵心僧都源信が慶滋保胤らとともに行った如法写経の話を聞きました。
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良源が法力で鎮めた大蛇を祀る龍ヶ池弁才天にて
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写真下に写る木屋根の中が如法水です。

 道行く人々は、壊れかけた木枠の前でいったい何を話してるのだろう、と不審気に眺めていきます。堤講師の説明は、いつもそうですが、目の前に現れるものすべてについて行われます。単なる観光ガイドとは次元が違うのです。

 その後、横川中堂と呼ばれる首楞厳院へ。横川の本堂です。
円仁が入唐求法に赴いたとき、乗船した遣唐船を象ったものといわれ、上空から見ると船底の形をしているそうです。そういえば内部も一段低くなり船室を思わせます。

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横川中堂 堂々たる建物ですが、残念ながらコンクリート造。

  信長の焼き討ちで焼失したのち、秀吉によって再建され、さらに淀殿によって改装されたこの建物が、数多くの歴史を秘めながら、現在コンクリート造となっていることの功罪が話されました。とても興味深いお話でした。木造りの文化と日本の風土、その風土が生んだ日本仏教、その仏教のために建てられた寺院。日本文化を貫く一本の棒、とても重い話です。

 本堂を出て、正面に祀られる赤山宮と円仁、そして横にある一念寺跡で、円仁がなぜこの横川に一大法城を開いたか、義真との確執によるそのいきさつを聞きました。こんな話が聞けるのも清遊の会ならではの案内ですね。


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一念とは虚子の小説「風流懺法」に登場する僧侶の名前です。

 高浜虚子の逆修塔、秘法館跡、恵心院、そして鐘楼と含蓄のある興味深い話の連続でしたが、ここでは割愛します。とにかくすべての建物で解説があるのですから、なかなか先に進みませんね(笑)。

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高浜虚子の逆修塔 「清浄な月を見にけり峰の寺」の句碑が。
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横川の鐘楼前で。面白いお話でした。

 山の霊気を感じながら、一行は元三大師堂へと着きました。叡山三大地獄の一つ、看経地獄の拠点です。ここの本尊は元三大師良源の御影そのもの。いつも座って止観を続けていた良源の姿が壁に焼きつき、その姿を写し取った像が本尊となったと。とてつもない話ですが、ここに座るとなんだかその通りのような不思議な感覚を覚えます。

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元三大師堂。良源の魂が今も生きて充満しています。

 ここはおみくじの元祖となった元三大師を慕い、今でも進路判断が行われています。うかがったときもお一人おられましたね。
お札で有名な元三大師。皆さん思い思いにお札や数珠を購なわれました。

 四季講堂を出た一行は叡山三大魔所の一つ、元三大師御廟へ。

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御廟に至る山道を歩く参加者。気分は回峰行者です。

 昼なお暗く、別格扱いされた聖域です。叡山には珍しい数々の怪異譚を生んだ良源の墓所。まさに肌が粟立つ思いです。石柵に囲まれてひっそりと立つ横川式墓所。その横にはブナの巨木が。暁闇のなか、ここを訪れる回峰行者は必ず不思議な気配を感じるという。さもありなんと思わせるだけの霊域でした。

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三大魔所の一つ。元三大師御廟に着きました。怖いもの見たさにワクワクドキドキ。
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これが元三大師のお墓。千年このままです。思わずゾクッと。
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お墓を守るようにそびえるブナの巨木。雰囲気ありすぎ!

 その後、根本如法塔にてここから出土した国宝の経箱や経筒の話を聞きました。上東門院自ら埋納した経箱がそのまま出土したのですから、本当に驚くほかありません。
現在の塔は篤志家山口玄洞の寄進です。

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根本如法塔へ。驚きの出土品が発掘されました。

 横川を後にして峰道レストランで昼食休憩をとの予定でしたが、さまざまな障害があり、昼食も、そしてその後訪れるつもりだった西塔も行けずに終わりました。
大変申し訳ないことでした。予定通りに回れなかったことは幾重にもお詫び致します。いずれまた必ず埋め合わせをと、講師も約束してくれましたし、一人だけバスに積み残されて早速罰を受けた人もいました(大笑)。
皆さま、どうかご海容下さいませ。

坂本へ


西塔をあきらめた一行は、坂本の町を散策し、最澄が生まれた生源寺を訪れようとの講師の提案により、ケーブルで麓の坂本へ降りました。

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穴生積の石垣に囲まれた素晴らしい坂本の街道。

 風情満点の町並みを歩きながら、日吉大社と秀吉や、穴生積みの石垣の話、天台真盛宗の総本山西教寺の話などを聞きつつ、生源寺へ。

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最澄生誕の地 生源寺。

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本堂にてご住職のお話を聞きました。お坊様はみな話し好き。

 伝教大師最澄の生誕地が寺となったもので、本堂に上がると、ご住職がお出ましになり、有難いお話を聞くことができました。

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最澄が産湯に使った井戸だそうです。

 お寺を出た人々は、有名なおそば屋さんの話や、最澄によってもたらされた日本最古の茶園という「日吉茶園」を前に、飲茶の歴史にしばし耳と傾けたのち、解散となりました。

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最澄により請来された日本最古の茶園。

   想定外の探訪となった叡山行でしたが、それはそれでお楽しみ頂けたのではないかと思っています。