新春特別講座 報告

17日、堤講師の新春特別講座「続・堤流 京都の学び方」が開かれました。

たくさんの方にお越しいただきました。
満員御礼です!
ありがとうございました!
講座は、始まる前から今日はどんなお話が聴けるだろうという皆さんの期待でいっぱいに感じられました。

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まずは昨年暮れにホームページ上で堤講師が出題された清遊クイズを、解答していただきました。

答えは次のとおりです。
神社編
①御辰稲荷神社、宗旦狐、相国寺
②車折神社、富岡鉄斎、冨田渓仙
③瀧尾神社、大丸百貨店、下村家
人物編
④辰野金吾、伊東忠太
⑤黒田辰秋、上賀茂民芸協団
⑥林屋辰三郎、女性史
みなさんのお答えはいかがでしたでしょうか?
堤講師の解説は、一枚の画像から話がどんどん広がります。
聴いているうちに、いつも講師がおっしゃっているように、知識が点から線へとつながり、線から面へと形を変えてゆく面白さを実感できました。
難解に思われた答えですが、丁寧な説明のおかげでなるほどと受け入れることができました。
そして、講師が実践してこられた京都理解の秘訣を伝授。

最後に、講師が日本宗教の三大巨人と考える、空海、道元、そして大本教の出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)の、
今、京都府亀岡市で開かれている展覧会「亀岡で生まれた美と歴史 出口王仁三郎一門展」を紹介されました。
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「芸術は宗教の母」との思想を打ち出した出口王仁三郎の信念と、そして魂が震えるような素晴らしいその芸術について熱く語っていただきました。

堤講師はいつも新たな提案をしてくださいます。
そして講義を聴くたび新鮮な驚きがあります。
ただ伝えるだけではない何か。
講師の魅力はどこからきているのでしょう。
学問にたいする真摯で謙虚な姿勢。
そして自身が感動した事柄を私たちに率直に語ってくれること。

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わくわくしながら京都を学ぶ、私たちもかくありたいと思います。
講座を終えて―
堤講師が「こんな歌ができました」と、教えてくれた歌があります。
こっそりご紹介します
(笑)
  
  新しき血の混じりたる宗教(おしえ)ほし
    空海
道元 王仁三(おにざ)はいづこ 
 
過去の歴史を語るのみならず、現在を見据え、そして未来への提言を発する堤講師に脱帽です。


堤先生へ
これから手術を受けられるとのことですが、
京都・清遊の会の皆さんとともに、一日も早くお元気になられるよう祈って、また先生の講義が聴ける日を首を長くして待っております!
素晴らしい講義をありがとうございました
!

顔見世講座 報告

123日、井上由理子講師による「京都顔見世講座」が行われました。「顔見世講座」は昨年に続いて第二回目。 

お話は出雲の阿国が京都・四条河原でおこなった「かぶき踊り」から始まり、
遊女かぶき、若衆かぶき、野郎かぶきを経て現在の歌舞伎に続く流れ。
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  鴨川沿いにたたずむ阿国の像(川端通四条上ル)
そして南座の歴史などなど。先生の資料のおかげで初めて「やぐら」の興業についても知りました。

今年は南座の大改装から20周年で、緞帳が新調されましたが、幕ひとつとっても深いものですね。まねきや竹馬についても貴重な話をうかがいました。
 

後半は、演目について。舞台となった風景などを紹介しながら今年の見どころを。
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芸能通の先生だけに、芝居の中身が熱く語られ、思わず話に引きこまれてしまいます。

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なるほど!
顔見世に行く前に先生のお話が聴けて、お芝居の展開、見どころ、聴きどころがよくわかりました。

皆さんまた楽しみが倍増したようです。 


井上先生の「顔見世講座」ぜひ来年も聴かせていただきたいです。ぜひお楽しみに!
そして今年の顔見世を観覧予定のみなさま、いってらっしゃい!


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鷹ヶ峰界隈を歩く 報告

11月19日、鷹ヶ峰の三つの寺院を訪ねました。
鷹ヶ峰は、京都市内の北方に位置し、三ヶ峰(天ヶ峰・鷲ヶ峰・鷹ヶ峰)を望む静かな土地。
江戸の始め、本阿弥光悦が徳川家康から土地を与えられ、一族・縁者ともに移り住み、芸術村をつくったといわれますが、
光悦をはじめ、ここに住んだ人々は皆、熱心な法華宗の信者であり、信仰によって深く結びついておりました。
鷹ヶ峰街道の坂道を上ると、突き当たりが「源光庵」。この一角に、今回訪ねるお寺群が並んでいます。
(当日も含めて写真の撮影日はさまざまです。)
まずは、圓成寺(えんじょうじ)へ。
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通称を岩戸妙見宮(いわとみょうけんぐう)といい、目の神様である妙見様をお祀りされていますが、
山号を清雲山、寺号を圓成寺という日蓮宗の寺院でもあります。

当日は朝からあいにくの雨。
午後になり、妙見さんに着く頃にはすこし明るくなってきました。
妙見宮は古代の古墳をそのまま利用したもので、前室が拝殿、玄室が本殿となっている見るからに不思議な建物です。
本尊は妙見大菩薩。妙見大菩薩とは北極星と北斗七星を神格化した菩薩のこと。
その姿は亀の背に乗り、右手に剣、左手に蛇を持ち、頭上に北斗星を戴いておられます。
眼光は鋭く、犯しがたい厳しさのなかにも慈愛に満ちておられます。
妙見大菩薩は別名、玄武神とも、また道教にいう泰山府君の別名として鎮宅霊符神とも呼ばれます。
妙見宮の歴史は桓武天皇による平安遷都に遡ります。
遷都にさいして、内裏の四方に妙見大菩薩を祀り、王城鎮護を祈願する官寺が建てられました。
それが霊巌寺というお寺で、現在の五山の送り火の一つ、舟形で有名な船山の南麓に
あったと伝えられています。

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江戸時代になり、本満寺の日任(にっとう)上人がこの地に復興、妙見霊場とされました。
妙見宮では毎月、一日と十五日に開扉され、ご本尊を拝むことができます。

境内をまわり、住職の代替わりに際して姿を現すという白蛇を祀る白雲弁財天、
痔の神様として著名な秋山自雲霊神(しゅうざんじうんれいしん)、
この寺が修行の寺であることを示す巌門(いわと)の滝、
築城の達人として知られる加藤清正公が勧請したという大黒天像、
さらに江戸時代の儒者で千宗旦四天王と呼ばれる弟子のひとりである三宅亡羊(みやけぼうよう)の墓などを見学しました。
今年は暖冬の影響で京都の紅葉はいまひとつ見どころに乏しいなか、ここの境内は見事な色づきを見せており、
境内の緑の苔に映え、雨の滴がしたたり、実に素晴らしい佇まいでした。これは実際に行った方でないと味わえないものです。

圓成寺の本堂では、本尊日蓮上人像と両側に鬼子母神尊像、大黒天尊像が祀られています。
ここは本当に不思議なところなのですが、皆さんが一番驚かれたのは
実は山門をはいってすぐ目にする「絵馬」でした。
長い年月のなかで完全に剥落し判別できなかった絵馬が、二条城の障壁画修復にも携わっておられる日本画家の大野俊明氏が修復を依頼され、
調査の結果苦労して復元した新しい絵馬を掲げると、なんと隣に掲げられていた古い絵馬に七福神が描かれた当時の姿が浮かび上がるという奇瑞が起こりました。
当時新聞にも紹介され話題を呼んだ出来事に皆さん興味津々のご様子でした。


その後、山門入口の台杉の話などしながら一行は圓成寺を後にし、源光庵へと向かいました。
圓成寺境内の写真撮影はできませんので、じっくり拝観されることをお勧めします。
妙見宮の北極星・北斗七星をかたどった紋をご覧ください。

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源光庵のお向かいにはナマコ壁が見事な遣迎院があります。
廬山寺、二尊院、般舟院と並んで御所の仏事を司った黒戸四ヶ院の一つで、
もともとは伏見にあり、京都御所の東、現在京都府立医科大学の図書館がある場所に移りましたが
明治四年の上地令により京都の著名な道具商土橋嘉兵衛の別荘地であった現在地に建物ごと買い取って移転しました。

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ここは浄土真宗遣迎院派の本山となっていますが、いわゆる本願寺系の浄土真宗ではなく比叡山延暦寺の天台浄土宗系のお寺です。
このお寺の末寺に血天井で知られる、今年の大河ドラマの主人公お江ゆかりの養源院があります。境内の雰囲気が似てますね。
建物は由緒あるもので、本堂は岡山藩の家老であり茶人でもあった伊木三猿斎(いきさんえんさい)の屋敷でした。
本能寺の変に際して播州三木の高松城を攻めていた秀吉が、報せを聞いて毛利輝元と和睦を行った由緒ある建物です。

本尊は発遣(ほっけん)の釈迦と来迎(らいごう)の弥陀を祀る、いわゆる二尊本尊で、二河白道の教えを説くものです。
このうち阿弥陀如来像は近年の修復に際して大発見がなされた仏像で、台座に嵌める臍(ほぞ)の墨書きから「安阿弥」の名が見つかり、この仏像が快慶作であることが判明したのみならず、残された胎内文書73枚には合計1万2千人におよぶ人名が記され、それらが源平の合戦で亡くなった武者たちの名前であることがわかりました。中には栄西や慈円などの著名な僧侶の名も記されており、源平合戦の戦死者を供養するために造られたことがわかったのです。
通りに面して何気なく佇むお寺ですが、京都のお寺は侮れない! のです。


さて源光庵に入ります。
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                          (12月2日撮影)

このお寺は日蓮宗の寺院が立ち並ぶ鷹ヶ峰の中にあって、禅宗、しかも京都では珍しい曹洞宗の寺院です。
しかし元々は大徳寺派の臨済宗寺院でした。それがなぜ今、曹洞宗になったのでしょう。

このお寺は血天井と丸と四角の二つの窓が観光の目玉となっていますが、お寺の本当の姿は決してそれだけではありません。
京都・清遊の会では、見逃されがちなお寺の歴史や魅力を紹介することを第一に考えています。そのためには是非ご参加いただき、実際にその場に立っていただきたいと願っています。
こうしたブログでは決して紹介できない素晴らしさと京都の奥深さを存分に味わっていただきたいのです。

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さて、このお寺が臨済宗から曹洞宗に代わったのは、中興といわれる卍山道白(まんざんどうはく)が入寺したおりに、ときの宗門の決まりに逆らってまで自分が受け継いだ道元の法を伝えなければという強い決意を表わしたからなのです。
当時は寺に伝わる「伽藍法」と人に伝わる「人法」の二つがあり、曹洞宗は伽藍法を採っていました。このお寺は臨済宗のお寺ですから、卍山がここに入るには曹洞宗を棄てて臨済宗に改宗しなければならなかったのですが、卍山は自分が受けた道元の禅こそ至高の禅という自負があり、宗門の慣習を破って自分が継いだ「人法」を採ったのです。山門に刻まれた「復古禅林」の由来です。

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現在、本堂裏に隣接する開山堂に座す卍山の像は、何者にも惑わされない不退転の決意を秘めた鋭い眼光を見せています。

さて、一行は二つの窓の前で、窓の説明もさることながら、脇床に置かれた卍山の偉業を顕彰する石碑を乗せた龍が生んだ九匹の子供(龍生九子)の一つ、「贔屓(ひいき)」の話を聞きました。
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亀だとばかり思っていたのに、立派な耳を持つこの奇妙な生き物が「贔屓役者」の語源になったと知りましたね。
その後、書院の襖絵の作者、山口雪渓についての話を聞き、その名前の由来に驚くとともに、先ほどの卍山顕彰碑の本歌が置かれた庭の素晴らしさを堪能しました。

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この頃になると雨も上がり、一行は常照寺へと坂道を下りました。
寂光山常照寺。立本寺派の日蓮宗寺院です。
このお寺も吉野太夫という世紀の芸妓の陰に隠れ、また花供養で知られる春の桜ばかりが有名ですが、深い樹木に覆われた見事な境内や、日蓮宗寺院ならではの刹堂など見どころ溢れる魅力寺院です。

まず参道入り口で説明です。
ほとんどの方が見逃して通り過ぎる石碑の台座に「檀林」のニ文字が。
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                 (12月2日撮影)

ここはかつて山城六檀林と呼ばれた日蓮宗の僧侶育成機関である檀林のひとつ、鷹ヶ峰檀林の地なのです。山城六檀林の場所や内容など詳しいレジュメをもとにひとしきり説明を聞いた一行は、吉野太夫寄進とされる朱塗りの門をくぐって境内へ。

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                          (12月2日撮影)

吉野が名妓であったことにちなみ、女性の帯を供養する中根金作氏作庭による「帯塚」や京都の日蓮宗寺院にはお馴染み、見事に咲いた「お会式桜」の可憐な花びらなどを愛でつつ、
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日蓮宗寺院独特の鬼子母神堂(もちろん鬼の字は上の角がありませんね)、
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地主神を祀る常富堂と順に見学し、吉野ゆかりの茶室「遺芳庵」、日乾上人を祀る開山堂、その裏に今も香華が絶えない吉野の墓を拝観しました。
遺芳庵は当日は閉められていましたので写真でご覧ください。
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  釜には富岡鉄斎筆「遺芳庵」の文字が鋳込まれています
「都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山にうつして」とまで慟哭し、妻の死を悼んだ夫・灰屋紹益の墓に入らず、敬愛する日乾上人の側に眠る吉野。
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夫の墓は本寺である立本寺にあります。
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立本寺 灰屋一族の墓
そんな二人の隔てを惜しんだ比翼塚など近年建てられた新たな見どころを回り、本堂にお参りしました。
ご本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏と十界曼荼羅。

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その前に安置された日蓮上人の像はお会式(おえしき)中であり、真っ白な綿帽子を被っておられます。
この綿帽子は各寺院によって違いますが、小松原の法難の故事をもとに眉間を割られた血を意味する赤やオレンジの色を重ねるものもあれば、当寺のようにお寒くないようと老婆が差し出した真綿を示すものもあります。
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新しく作られた客殿にはここが檀林の地であることを示す本阿弥光悦による「学室」の扁額が飾られ、滅多に見られない文化財を拝見することができました。


朝から雨となり、傘をさしての見学と覚悟した出発でしたが、途中から雨があがり、常照寺を出た一行は、ここで一応解散とし、バスで帰る人、さらに鷹ヶ峰街道を下り、「しょうざん」庭園から金閣寺への道を同道する人など思い思いに分かれました。
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(12月2日撮影)
「しょうざん」への坂道から見る、雨上がりの霧に覆われた鷹ヶ峰の山容は紅葉の彩りに加え夕刻の幽邃な雰囲気をたたえてそれはそれは見事な景色です。本当に一人でも多くの方に見ていただきたかった光景でした。

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ここ、鷹ヶ峰の地は、冒頭にご紹介しましたように本阿弥光悦という稀代の文化人ゆかりの地です。今回は拝観しなかった光悦寺は光悦の屋敷跡であり、その位牌堂を没後に寺としたもの。光悦は江戸時代を通じてわが国を代表する芸術の巨人です。
この地は光悦を初めとする本阿弥一族が結集し、文化芸術活動を行うとともに、一族の宗旨である日蓮への憧憬、そして法華経への帰依に生きた信仰の地でもあります。
紅葉の鷹ヶ峰として有名な京都屈指の観光地ですが、ここの紅葉は単なる秋の彩りではなく、芸術一族本阿弥家の題目の声を聞いて育った信仰の紅葉でもあるのです。
当日は圓成寺のご住職、常照寺のご住職からもお話をうかがうことができ、やはりこの地が信仰の地であるという思いを強くいたしました。
清遊の会は今後も上質な京都のご案内を提供してまいります。ブログやレジュメだけでは決してお伝えできない、現地ならではの醍醐味を是非ご堪能ください。
最後に、今回の鷹ヶ峰訪問も堤先生から資料その他数々のご教示をいただきました。感謝してお礼申し上げます。

 

和菓子の会を終えて

 

1013日、京都・清遊の会では和菓子の会を開きました。

講師は和菓子研究家の井上由理子さんです。

井上先生による和菓子の会も早5回目を迎えましたが、
今回のテーマは「京の行事と和菓子」。


まず前半は行事にちなんだ和菓子の数々を、画像を見ながら解説していただきました。

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京の和菓子はお祭りや行事のなかで、宮中や社寺、あるいは茶家と深いかかわりを持ちつつ育まれてきました。

たくさんのお菓子を挙げていただきました中から一部をご紹介いたします。


平安時代より、禁裏では陰暦十月の亥の日に御玄猪
(おげんちょ)の儀式が行われていました。

写真は川端道喜に伝わるその御玄猪の餅の復元。餅は宮中に仕える人に下賜されましたが、官位によって餅の色や数が決められていたそうです。

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十月の亥の日の亥の刻に餅を食べると息災に過ごせると言われたとか。

これから迎える冬にそなえて、猪を食していたのが餅に替わったという説もあり、猪は多産であることから子孫繁栄への願いにもつながるようです。


写真は現在の川端道喜の「亥の子餅」。亥の子餅は、五節句と同様、宮中の年中行事が都の人々の歳時に取り入れられてできた菓子のひとつ。
茶道では炉開きのお菓子となり、町衆の生活のなかでは炬燵開きの頃に食べるようになりました。

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当日は、左京区山端
(やまばな)の双鳩堂の「亥の子餅」をいただきました。双鳩堂は三宅八幡宮に鳩餅を調進しているので知られます。

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この亥の子餅は、京都にたくさんあるいわゆる「おまんやさん」のお菓子ですが、黒胡麻や松の実が入っていて、肉桂(にっき)の風味がきいて、やわらかく、本当においしいです!

亥の子餅は猪の子の瓜坊の姿を表わしています。いまでは亥の子餅はポピュラーなものになりましたが、考えてみると動物の形を和菓子に映すという珍しい意匠ですね。


次は菊のお菓子を。
九月九日の重陽
(ちょうよう)の節句には、菊花に前夜から綿を被せて菊の香りと露を含ませ、その綿で身を拭うと不老長寿を得られるという言い伝えがありました。
菊の色と上に被せる綿の色には決まりがあります。

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この時分のお茶会によく出される「着せ綿」
(きせわた・二条若狭屋)

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京都では月見に供えられる「月見だんご」は小芋
(里芋)を模したもの。餡は小芋の皮に見立てています。

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秋の豊作に感謝するお火焚き祭の菓子「お火焚き饅頭」は商売繁盛や家内安全の願いも込められます。
後ろは節分の頃の「大豆餅」(ともに出町ふたば)

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七夕につくられるお菓子「星のたむけ」
(亀末廣)

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節分にのみつくられる「法螺貝餅」
(柏屋光貞)

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行事ではありませんが、婚礼のお菓子。

昔は引き出物には「お嫁さんのおまん」と言って大きな薯蕷饅頭などが普通でしたが今はその風習もほとんどなくなりました。

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お正月や初釜に出される薯蕷饅頭。
写真は「根引きの松」
(花子)

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お正月といえばお話は来年のお菓子にも及びました。来年の干支は「辰」御題は「岸」。和菓子屋さんにとって干支菓子や御題菓子を創作するのは大切な仕事だそうです。

今頃は来年のお菓子を思案しておられる頃だそう。来年どんなお菓子が私たちの前に登場するのか楽しみですね。


席を移して、後半にいただいたのは、白からほのかなピンク色
へと染められたういろう生地の「まさり草」。まさり草は菊の異名です。

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先ほどの亥の子餅の粒餡に対して、こちらは珍しい白小豆の粒餡。

さすがに井上先生が紫野源水の御主人と相談して注文下さったお菓子です。

美味!だったのですが、こんなに美しいお菓子、もったいなくてすぐには食べられませんとお持ち帰りになる方もありました。


今回は、井上先生からみなさんに楽しいクイズが出されました。

その一つ、次の写真は京都のある菊をイメージしてつくられたものですが、なに菊でしょうか?地名が入ります、というもの。

答えは「嵯峨菊」(鶴屋吉信)でした。

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他に、今宮神社のあぶり餅のタレのポイントとなる調味料は?など、皆さんには5つの問いに答えていただきました。

そして全問正解者のなかからじゃんけんで勝った2名の方に井上先生から素敵なプレゼントがありました。

皆さん真剣にクイズに取り組んでいただいたり、回答時には歓声が上がったり、今回はとても賑やかな和菓子の会となりました。
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井上先生、まさに他では聞けない和菓子のお話の数々をありがとうございました。

また次回はどんな趣向となりますか、皆さま、どうかお楽しみに!

紫野・西陣界隈散歩報告

10月1日、「紫野・西陣散歩」を行いました。

昨日の雨はやみ、風はまだ強かったのですが、どうやら晴れて散歩日和となりました。

今日の資料は堤先生が準備してくださったものです。

皆さんにちゃんとお伝えできますかどうか不安ですが…。


まずは大徳寺前の雲林院境内で、今日のルートの略図を見ながら、紫野、船岡山について簡単にお話しました。

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           史跡ウォーク「紫野」より


紫野とは─

洛北七野の一つ。船岡山から大徳寺周辺一帯を指します。

延暦14(795)10月、桓武天皇がはじめて紫野で狩猟を行われて以来、天皇の遊猟地となり、やがてこの地に離宮・紫野院を構えられたのが淳和天皇

そして堤講師より、この紫野こそが「山紫水明」の原点であるとご教示いただきました。
「山」は比叡山、その比叡山が紫色に見える所がこの紫野であると。淳和院はこの聖なる山を仰ぎ見つつ、この紫野で遊興に過ごされたのだそうです。
写真は船岡山の公園から望む比叡山です。

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船岡山(ふなおかやま)

紫野の広野(こうや)に横たわる高さ112メートルの丘陵。いまでは想像もつかないことですが、山の東麓に大池があり、山の東端が岬のように池中に突き出し、あたかも海に浮かぶ大船のようであったことから船岡山と名付けられました。

山の東端は、岬をあらわす唐崎の転訛から「からすき」、また鼻は端をあらわすとし、古来「唐鋤鼻(からすきのはな)」と呼ばれたそうです。

淳和天皇の紫野院はこの船岡山の東の池を景として取り入れたものでした。

ちなみに昭和初期まで「六兵衛池」と称する古池が残っていたそうです。


なにより今日の案内で忘れてはならないことは、
この船岡山には玄武大神が祀られており、平安京造営にあたり、起点とされたということです。

雲林院についてはブログ「紫野で」をご参照ください。


ここで、時代は飛んで中世へ。

弁慶の腰掛け石、常盤井、若宮八幡宮を訪ねます。


若宮八幡宮
は、土蜘蛛退治の話で知られる源頼光の屋敷址と伝わります。源頼光は日本における武士の祖とされる多田満仲(ただのみつなか)の子。それゆえここが源氏ゆかりの地とされ、清和源氏の祖である清和天皇を祀り、源氏の棟梁となった源義経の故地とされ、その母常盤御前の伝承地となったものと思われます。

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               若宮八幡宮 外観

常盤は近衛天皇の雑仕女を決める際、全国から選ばれた美女千人の中からさらに選ばれた美女。古来この地に住んだという伝承があり、付近には写真の
常盤井や常盤地蔵、あるいは牛若井や牛若町など常盤や義経ゆかりの遺物が残っています。

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              常盤井

とくに牛若丸と弁慶が出会った五条の橋は「御所の橋=護浄の橋」という説があり、この御所は淳和天皇の離宮であった紫野院であり、その橋こそ現在の大徳寺東南角にあったとされ
鞍馬山で修行した牛若丸は、山を降りたとき、母に会うためこの地を訪れ、ここで弁慶と出会ったといいます。このとき橋を渡る牛若を腰かけて待っていたのが弁慶腰掛けの石というわけです

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弁慶の腰掛け石 船岡山の岩盤と同じチャート岩。

太古の昔ここが海の底であったことが知られます。

 

さて、いよいよ
玄武神社へ来ました。


現在は
惟喬親王(これたかしんのう)を祀っています。
しかし、もともとは王城鎮護の北の守り神・
玄武大神を祀ったもの。玄武神社の鳥居は南に、つまり御所に向いています。船岡山にやはり南向きに祀られている船岡妙見社こそ、この玄武大神の原形なのですね。堤先生からでなければ教われなかった貴重なお話です。


かつて行われていた紫野御霊会は、ここで現在四月に行われている
「やすらい祭」へとつながっています。

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                玄武神社 外観

                  

この近くにある、小野篁と紫式部の墓所について─。


惟喬親王はのちに洛北大原の里・小野に隠棲されたと伝わりますが、その地は近江の小野へと続く小野氏本貫の地でありました。京都には小野という地名が他にもあり、雲ヶ畑や大森などに惟喬親王の伝承が残っています。


小野宮と称されたという惟喬親王を祀るこの玄武神社の近くに小野篁の墓があることもやはり関わりのあることであろうと先生はおっしゃっていました。


惟喬親王に仕えたのが後世、僧正遍照ら六歌仙と呼ばれる人々。惟喬親王の無念をおさめるために歌仙として祀られた人々です。そのなかには小野篁の子孫の小野小町や在原業平も名を連ねています。


紫式部のお墓の横に小野篁のお墓が祀られている理由については皆さんよくご存じでしたが、
南北朝時代に著された源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」巻一によれば、「式部の墓所は雲林院の白毫院(びゃくごういん)の南にあり。小野篁の墓の西なり」(原漢文)とあって、比較的古くからの言い伝えであったようです

各地に伝承が残り、多くの人々に慕われたという悲劇の惟喬親王─。

いずれ堤先生にぜひ惟喬親王についてお話をしていただきたいと思います。


玄武神社をあとに、大宮通りを南へ下がります。


安居院
(あぐい)西法寺です

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もとは
比叡山延暦寺東塔竹林院の里坊。

安居院(あぐい)はこの付近一帯の呼び名、現在も残っています。


この寺に伝わるのが
人々を惑わす物語を書いた罪で地獄に堕ちた紫式部を供養するための文章「源氏物語表白(ひょうびゃく)」。安居院法印聖覚(あぐいほういんせいがく)の作になるもので、式部供養の詞が述べられています。やはり、この近くに式部の墓所があるゆえに伝えられたもののようです。


廬山寺通り、鉾参通りを過ぎて、寺之内通りの西陣織工芸美術館「
松翠閣」にやってきました。
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                 松翠閣 外観

ここは西陣織の技術を駆使して織られた作品が展示されている美術館。素晴らしいの一言です!

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とくに畜光糸(ちっこうし)という特殊な糸で織られた作品は、照明によって不思議な見え方をします。ぜひ一度ごらんください。
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松翠閣で超ゴージャスなものの数々を見て息抜きです。とってもいい気分になりました
(笑)。


ここで
寺之内通について少し─


豊臣秀吉は天正1819の両年、強権を発動して散在する寺院を洛中市街地からことごとく立ち退かせ、東京極通の東側と安居院の一帯に集め
ました。東京極通にできた寺院街が寺町で、安居院の寺院街が寺内。

一般町衆の強い信仰があった浄土宗寺院や時宗寺院を寺町に、商売を行っていた商人たちに圧倒的信仰を集めていた法華宗寺院を安居院の寺内に集めたのです


現在も寺
内地区には妙顕寺、妙覚寺をはじめ、本法寺、妙蓮寺、本隆寺など日蓮宗16本山の約半数がこの地区にあります。本阿弥光悦や長谷川等伯など名だたる芸術家もみな日蓮宗に帰依していました。
さて、寺之内通りを東に、妙蓮寺にやってきました。
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妙蓮寺
は、永仁2(1294)年、造り酒屋の柳屋仲興(やなぎやなかおき)が日像上人に帰依して自邸を寺に改め、柳寺と称したのが始まりとされる日蓮宗の本山。

山号を卯木山(ぼうもくさん・うぼくさん)。柳の文字を木と卯に分解しての命名です。

仲興氏は京都の土蔵や酒屋といった富裕層のなかでも有数のお金持ち。当時、銘酒「柳酒」は京都一と言われました。

門をくぐると美しい袴腰の鐘楼。芙蓉の花が咲いていてきれいです!
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妙蓮寺3.jpeg
宗祖の命日にあたる法会を御会式(おえしき)と言いますが、その日蓮上人の命日1013日頃から咲き始める不思議な
御会式桜、室町時代から知られた妙蓮寺椿などをご紹介します。


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妙蓮寺椿 蕾をつけて花ももうすぐ咲きそうです。


妙蓮寺向かいの
灰屋の図子へ。この中に足抜き地蔵が祀られています。


灰屋図子
灰屋紹益を代表とする灰屋一族が住まいしたところ。


そこに
現在も鎮座する地蔵が「足抜き地蔵」。

この地蔵はもと島原の大門脇に鎮座し、島原から足抜けしようとする女郎たちを必ず足止めするとして「足止め地蔵」と呼ばれていましたが、西陣織の若い職人と恋に落ちた女郎が、この地蔵さえいなければ逃げることができるかもしれないと、ある日この地蔵を背負って大門をくぐり、逃げ出し、ここで急に重くなり、重さに耐えられなくなって地蔵を降ろしたのがこの灰屋図子。めでたく恋しい職人と出会い、幸せに添い遂げることができたといいます。以後、この地蔵は「足抜き地蔵」と呼ばれています

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さて、大宮通りにもどり、南へ。


紋屋図子
(もんやのずし)にやってきました。

智恵光院通から入って行き止まりとなっていたのを、天正十五年(1587)、この図子に住んだ御寮織物司の井関七右衛門宗鱗が私財をもって図子の東を塞いでいた家屋を買い取り、大宮通まで行き抜けにしました
以来この功績を称えて井関宗鱗の屋号「紋屋」の名をとって「紋屋図子」と改称され
ました

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徳川五代将軍綱吉の生母・
桂昌院(けいしょういん)の生家と伝わるを通り、


いよいよ観世水(かんぜみず)まで来ました

現・西陣中央小学校の敷地の隅に飛び地として残るのが観世稲荷と観世井です

ここは能楽宗家の観世家が足利義満から拝領した屋敷地でしたが、西陣焼けのあと稲荷社と井戸だけが残されました。 

観世水の井戸は名水としても知られましたが、地下水の合流点であったために井戸の底にはいつも渦が巻いていたことから、この波紋を観世水といい、能楽観世流の紋様となりました。
井戸は格子で見られなくなっていますが稲荷は見ることができました。

観世井戸・観世稲荷.jpeg
                 
 

これで今日の紫野・西陣散歩は無事終了となりました。

時間をだいぶオーバーしてしまいました。


伝承のとおりに姿をとどめるものは少なくても、地名や町名にその名を残されて歴史の片鱗を垣間見ることができたものはたくさんありました。
歩いてみると、知識が体験となってくれるのですね。その場に立つことの大切さを学びました。

爽やかな風とともに空はすっかり秋の空になっています。

秋の空.jpeg


ご案内を終えて─

ご参加いただいた皆さま、お越しいただき本当に有難うございました。

不十分な点が多々ありましたこと、なにとぞご容赦ください。

また天候による日程の変更で、今回ご参加いただけなかった方々に深くお詫び申し上げます。

最後に、貴重な資料を提供くださり、さまざまの御教示をいただきました堤先生、有難うございました!

            
             京都・清遊の会 主宰 中川祐子