鷹ヶ峰界隈を歩く 報告

11月19日、鷹ヶ峰の三つの寺院を訪ねました。
鷹ヶ峰は、京都市内の北方に位置し、三ヶ峰(天ヶ峰・鷲ヶ峰・鷹ヶ峰)を望む静かな土地。
江戸の始め、本阿弥光悦が徳川家康から土地を与えられ、一族・縁者ともに移り住み、芸術村をつくったといわれますが、
光悦をはじめ、ここに住んだ人々は皆、熱心な法華宗の信者であり、信仰によって深く結びついておりました。
鷹ヶ峰街道の坂道を上ると、突き当たりが「源光庵」。この一角に、今回訪ねるお寺群が並んでいます。
(当日も含めて写真の撮影日はさまざまです。)
まずは、圓成寺(えんじょうじ)へ。
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通称を岩戸妙見宮(いわとみょうけんぐう)といい、目の神様である妙見様をお祀りされていますが、
山号を清雲山、寺号を圓成寺という日蓮宗の寺院でもあります。

当日は朝からあいにくの雨。
午後になり、妙見さんに着く頃にはすこし明るくなってきました。
妙見宮は古代の古墳をそのまま利用したもので、前室が拝殿、玄室が本殿となっている見るからに不思議な建物です。
本尊は妙見大菩薩。妙見大菩薩とは北極星と北斗七星を神格化した菩薩のこと。
その姿は亀の背に乗り、右手に剣、左手に蛇を持ち、頭上に北斗星を戴いておられます。
眼光は鋭く、犯しがたい厳しさのなかにも慈愛に満ちておられます。
妙見大菩薩は別名、玄武神とも、また道教にいう泰山府君の別名として鎮宅霊符神とも呼ばれます。
妙見宮の歴史は桓武天皇による平安遷都に遡ります。
遷都にさいして、内裏の四方に妙見大菩薩を祀り、王城鎮護を祈願する官寺が建てられました。
それが霊巌寺というお寺で、現在の五山の送り火の一つ、舟形で有名な船山の南麓にあったと伝えられています。
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江戸時代になり、本満寺の日任(にっとう)上人がこの地に復興、妙見霊場とされました。
妙見宮では毎月、一日と十五日に開扉され、ご本尊を拝むことができます。

境内をまわり、住職の代替わりに際して姿を現すという白蛇を祀る白雲弁財天、
痔の神様として著名な秋山自雲霊神(しゅうざんじうんれいしん)、
この寺が修行の寺であることを示す巌門(いわと)の滝、
築城の達人として知られる加藤清正公が勧請したという大黒天像、
さらに江戸時代の儒者で千宗旦四天王と呼ばれる弟子のひとりである三宅亡羊(みやけぼうよう)の墓などを見学しました。
今年は暖冬の影響で京都の紅葉はいまひとつ見どころに乏しいなか、ここの境内は見事な色づきを見せており、
境内の緑の苔に映え、雨の滴がしたたり、実に素晴らしい佇まいでした。これは実際に行った方でないと味わえないものです。

圓成寺の本堂では、本尊日蓮上人像と両側に鬼子母神尊像、大黒天尊像が祀られています。
ここは本当に不思議なところなのですが、皆さんが一番驚かれたのは
実は山門をはいってすぐ目にする「絵馬」でした。
長い年月のなかで完全に剥落し判別できなかった絵馬が、二条城の障壁画修復にも携わっておられる日本画家の大野俊明氏が修復を依頼され、
調査の結果苦労して復元した新しい絵馬を掲げると、なんと隣に掲げられていた古い絵馬に七福神が描かれた当時の姿が浮かび上がるという奇瑞が起こりました。
当時新聞にも紹介され話題を呼んだ出来事に皆さん興味津々のご様子でした。


その後、山門入口の台杉の話などしながら一行は圓成寺を後にし、源光庵へと向かいました。
圓成寺境内の写真撮影はできませんので、じっくり拝観されることをお勧めします。
妙見宮の北極星・北斗七星をかたどった紋をご覧ください。

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源光庵のお向かいにはナマコ壁が見事な遣迎院があります。
廬山寺、二尊院、般舟院と並んで御所の仏事を司った黒戸四ヶ院の一つで、
もともとは伏見にあり、京都御所の東、現在京都府立医科大学の図書館がある場所に移りましたが
明治四年の上地令により京都の著名な道具商土橋嘉兵衛の別荘地であった現在地に建物ごと買い取って移転しました。

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ここは浄土真宗遣迎院派の本山となっていますが、いわゆる本願寺系の浄土真宗ではなく比叡山延暦寺の天台浄土宗系のお寺です。
このお寺の末寺に血天井で知られる、今年の大河ドラマの主人公お江ゆかりの養源院があります。境内の雰囲気が似てますね。
建物は由緒あるもので、本堂は岡山藩の家老であり茶人でもあった伊木三猿斎(いきさんえんさい)の屋敷でした。
本能寺の変に際して播州三木の高松城を攻めていた秀吉が、報せを聞いて毛利輝元と和睦を行った由緒ある建物です。

本尊は発遣(ほっけん)の釈迦と来迎(らいごう)の弥陀を祀る、いわゆる二尊本尊で、二河白道の教えを説くものです。
このうち阿弥陀如来像は近年の修復に際して大発見がなされた仏像で、台座に嵌める臍(ほぞ)の墨書きから「安阿弥」の名が見つかり、この仏像が快慶作であることが判明したのみならず、残された胎内文書73枚には合計1万2千人におよぶ人名が記され、それらが源平の合戦で亡くなった武者たちの名前であることがわかりました。中には栄西や慈円などの著名な僧侶の名も記されており、源平合戦の戦死者を供養するために造られたことがわかったのです。
通りに面して何気なく佇むお寺ですが、京都のお寺は侮れない! のです。

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さて源光庵に入ります。
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                          (12月2日撮影)

このお寺は日蓮宗の寺院が立ち並ぶ鷹ヶ峰の中にあって、禅宗、しかも京都では珍しい曹洞宗の寺院です。
しかし元々は大徳寺派の臨済宗寺院でした。それがなぜ今、曹洞宗になったのでしょう。

このお寺は血天井と丸と四角の二つの窓が観光の目玉となっていますが、お寺の本当の姿は決してそれだけではありません。
京都・清遊の会では、見逃されがちなお寺の歴史や魅力を紹介することを第一に考えています。そのためには是非ご参加いただき、実際にその場に立っていただきたいと願っています。
こうしたブログでは決して紹介できない素晴らしさと京都の奥深さを存分に味わっていただきたいのです。


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さて、このお寺が臨済宗から曹洞宗に代わったのは、中興といわれる卍山道白(まんざんどうはく)が入寺したおりに、ときの宗門の決まりに逆らってまで自分が受け継いだ道元の法を伝えなければという強い決意を表わしたからなのです。
当時は寺に伝わる「伽藍法」と人に伝わる「人法」の二つがあり、曹洞宗は伽藍法を採っていました。このお寺は臨済宗のお寺ですから、卍山がここに入るには曹洞宗を棄てて臨済宗に改宗しなければならなかったのですが、卍山は自分が受けた道元の禅こそ至高の禅という自負があり、宗門の慣習を破って自分が継いだ「人法」を採ったのです。山門に刻まれた「復古禅林」の由来です。

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現在、本堂裏に隣接する開山堂に座す卍山の像は、何者にも惑わされない不退転の決意を秘めた鋭い眼光を見せています。

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さて、一行は二つの窓の前で、窓の説明もさることながら、脇床に置かれた卍山の偉業を顕彰する石碑を乗せた龍が生んだ九匹の子供(龍生九子)の一つ、「贔屓(ひいき)」の話を聞きました。
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亀だとばかり思っていたのに、立派な耳を持つこの奇妙な生き物が「贔屓役者」の語源になったと知りましたね。

その後、書院の襖絵の作者、山口雪渓についての話を聞き、その名前の由来に驚くとともに、先ほどの卍山顕彰碑の本歌が置かれた庭の素晴らしさを堪能しました。
 

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この頃になると雨も上がり、一行は常照寺へと坂道を下りました。
寂光山常照寺。立本寺派の日蓮宗寺院です。
このお寺も吉野太夫という世紀の芸妓の陰に隠れ、また花供養で知られる春の桜ばかりが有名ですが、深い樹木に覆われた見事な境内や、日蓮宗寺院ならではの刹堂など見どころ溢れる魅力寺院です。

まず参道入り口で説明です。
ほとんどの方が見逃して通り過ぎる石碑の台座に「檀林」のニ文字が。
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                 (12月2日撮影)

ここはかつて山城六檀林と呼ばれた日蓮宗の僧侶育成機関である檀林のひとつ、鷹ヶ峰檀林の地なのです。山城六檀林の場所や内容など詳しいレジュメをもとにひとしきり説明を聞いた一行は、吉野太夫寄進とされる朱塗りの門をくぐって境内へ。

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                          (12月2日撮影)

吉野が名妓であったことにちなみ、女性の帯を供養する中根金作氏作庭による「帯塚」や京都の日蓮宗寺院にはお馴染み、見事に咲いた「お会式桜」の可憐な花びらなどを愛でつつ、
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日蓮宗寺院独特の鬼子母神堂(もちろん鬼の字は上の角がありませんね)、
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地主神を祀る常富堂と順に見学し、吉野ゆかりの茶室「遺芳庵」、日乾上人を祀る開山堂、その裏に今も香華が絶えない吉野の墓を拝観しました。
遺芳庵は当日は閉められていましたので写真でご覧ください。
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  釜には富岡鉄斎筆「遺芳庵」の文字が鋳込まれています
「都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山にうつして」とまで慟哭し、妻の死を悼んだ夫・灰屋紹益の墓に入らず、敬愛する日乾上人の側に眠る吉野。
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夫の墓は本寺である立本寺にあります。
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                  立本寺 灰屋一族の墓
そんな二人の隔てを惜しんだ比翼塚など近年建てられた新たな見どころを回り、本堂にお参りしました。
ご本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏と十界曼荼羅。

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その前に安置された日蓮上人の像はお会式(おえしき)中であり、真っ白な綿帽子を被っておられます。
この綿帽子は各寺院によって違いますが、小松原の法難の故事をもとに眉間を割られた血を意味する赤やオレンジの色を重ねるものもあれば、当寺のようにお寒くないようと老婆が差し出した真綿を示すものもあります。
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新しく作られた客殿にはここが檀林の地であることを示す本阿弥光悦による「学室」の扁額が飾られ、滅多に見られない文化財を拝見することができました。


朝から雨となり、傘をさしての見学と覚悟した出発でしたが、途中から雨があがり、常照寺を出た一行は、ここで一応解散とし、バスで帰る人、さらに鷹ヶ峰街道を下り、「しょうざん」庭園から金閣寺への道を同道する人など思い思いに分かれました。
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                      (12月2日撮影)
「しょうざん」への坂道から見る、雨上がりの霧に覆われた鷹ヶ峰の山容は紅葉の彩りに加え夕刻の幽邃な雰囲気をたたえてそれはそれは見事な景色です。本当に一人でも多くの方に見ていただきたかった光景でした。

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ここ、鷹ヶ峰の地は、冒頭にご紹介しましたように本阿弥光悦という稀代の文化人ゆかりの地です。今回は拝観しなかった光悦寺は光悦の屋敷跡であり、その位牌堂を没後に寺としたもの。光悦は江戸時代を通じてわが国を代表する芸術の巨人です。
この地は光悦を初めとする本阿弥一族が結集し、文化芸術活動を行うとともに、一族の宗旨である日蓮への憧憬、そして法華経への帰依に生きた信仰の地でもあります。
紅葉の鷹ヶ峰として有名な京都屈指の観光地ですが、ここの紅葉は単なる秋の彩りではなく、芸術一族本阿弥家の題目の声を聞いて育った信仰の紅葉でもあるのです。
当日は圓成寺のご住職、常照寺のご住職からもお話をうかがうことができ、やはりこの地が信仰の地であるという思いを強くいたしました。
清遊の会は今後も上質な京都のご案内を提供してまいります。ブログやレジュメだけでは決してお伝えできない、現地ならではの醍醐味を是非ご堪能ください。
最後に、今回の鷹ヶ峰訪問も堤先生から資料その他数々のご教示をいただきました。感謝してお礼申し上げます。


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