いよいよ秋も深まってまいりました。
去る10月29日、天神さんで知られる北野天満宮で国民文化祭2011・連句の祭典が催されました。
京都・清遊の会講師の井上由理子さんが「正式俳諧と白拍子舞のコラボ」に舞を披露されましたので、その模様をすこしご紹介いたします。
北野天満宮は連歌と深いつながりがあるのだそうですが、当日は晴天に恵まれ、開催の挨拶に続いて正式俳諧(しょうしきはいかい)が神楽殿で奉納されました。
天満天神は菅原道真のこと。 それに融通無碍を意味する大自在が加わったのが天満大自在天神。それに南無する。つまりすべてを委ねて帰依する。
今日の場合は、わが国の文芸の神様である菅原道真の力にあやかってこの連句の会を成功させましょう、という願いを込めた掛物です。
北野天満宮の総門の扁額は「文道大祖風月本主」と書かれていますが、これは道真公が日本文芸の守護神であることを意味し、後世ここで北野連歌や連句の会が開かれたのはすべて道真の力にあやかってのことだそうです。
なるほど!扁額をしっかり見ておかなくては。
連歌の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を多数の人々が交互に詠み継いでいくものですが、連句は「俳諧の連歌」ともいい、連歌よりくだけたものです。
江戸時代中期以降、それまでの連歌に、風刺や諧謔味を取り入れた俳諧の連歌が盛んになり、百句を詠み継いでいくものから三十六句を詠み継いでいくものへと変化していったそうです。
正式俳諧の配役…正面向かって右から、宗匠、執筆(しゅひつ)、脇宗匠がおられます。
左右に連衆(れんじゅう)や貴賓(きひん)が着座され、楽師が龍笛を奏され、座の文芸のはじまりです。
細かな決まりごとがたくさんあって今日は初めて尽くしの見学です。
三十六句のうち、すでに三十句まで作られていて、今日は会場で残り六句を作ります。
観客の方々からも付け句を募ります。熱心に作っておられる方も…。
句ができたら「ツケ!」と声をあげ、短冊に記し提出し、吟味ののち良しとみなされれば採用されます。
三十四句まですんだところで、巫女が玉串を宗匠に手渡します。花の句(三十五句)の前という意味だそうです。
最後の三十六句目が挙句(あげく)。
「挙句の果て」とはここからきた言葉だそうです。
三十五句、三十六句目は宗匠と執筆が詠まれます。
「ほのぼのと明るき闇の花篝 笙横笛の音色のどけし」
これで無事三十六句が巻き終わりました。
つづいて白拍子舞が奉納されました。
井上さんと二人の楽師の方は、今日の表六句(初めの六句)を歌と楽と舞で披露されました。
いつ拝見してもその舞姿に見とれてしまいます。
いつの間にか神楽殿の前ではたくさんの人びとが足をとめ、皆さんが熱心に見入っておられました。
この日、北野天満宮は余香祭(よこうさい)の日でもありました。
余香祭とは─
菅原道真公は右大臣の位にあった昌泰3年(900年)9月、清涼殿において「重陽の宴」に召され詩を詠じ、その詩に感銘された醍醐天皇より着衣(おんぞ)を授けられました。
そして一年後、道真は配流地の大宰府で栄華の頃を追想し、「去年の今夜」にはじまる「重陽後一日」の詩篇を作りました。
大正8年10月29日(旧暦9月9日)に、久しく絶えていた旧儀を余香祭と名付けて再興し、以後余香祭は毎年10月29日に行われるようになったそうです。
当日のお供えには黄菊,白菊を飾り、斎主、祭員も小菊をかざして奉仕されるそうです。
去年の今夜 清涼に侍す 秋思の 詩篇 独り腸を断つ
恩賜の御衣 今 茲に在り 捧持して 毎日 余香を拝す
そういえば「北野天神縁起絵巻」には有名な「恩賜の御衣」の場面があります。現在のこの余香祭につながっているのですね。
またこの日は、連句の会によせて境内の明月舎で掛釜がありました。
床には裏千家十世認得斎筆連句画賛が掛かっていました。お仲間が集い、連句の会を催された様子がうかがえます。
チベット製の扁壺(へんこ)を花入に、嵯峨菊とつるうめもどきが生けられています。香合は夕顔で菊の置上。
主茶碗は玉水焼。予楽院好みの茶器は菊と木賊の蒔絵であったように記憶しています。
大切なお茶杓については教えていただいたのに帰ってくるともう忘れてしまって残念でした…。
井上由理子さんは「白拍子」を舞、歌、語りで表現されていますが、いずれ清遊の会でも披露していただきたいと思います。
和菓子の世界に、古典芸能にとマルチな才能を発揮されている井上さんには教えていただきたいことがたくさんあります。
来る12月3日には「京都顔見世講座」で南座のお話や今年の顔見世の楽しみ方について解説していただきますので、そちらもどうぞお楽しみになさってください。
それではまた。
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