比叡山東塔参観


比叡山東塔探訪  9月18日(土)


 初秋の一日、晴天に恵まれ、比叡山東塔を訪ねました。
 往路は京都駅からバスで比叡山ドライブウェイを経て東塔へ。
 気温は23℃。バスの中を心地よい風が渡ります。
 延暦寺バスセンターからシャトルバスで西塔へ。
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 浄土院から東塔へ入るため、まず西塔を訪れ、常行堂・法華堂、そして椿堂を見学しました。


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 担い堂 同形・同大の建物が並び、今も厳しい修行が続きます。


 修行中の張り詰めた空気が流れる山中、時代を経た朱色のお堂が佇みます。ここは四種三昧のうち、常に歩いて経を読み、三昧になる常行三昧の道場として極めて大事なお堂。
 向かって左が常行堂、右が法華堂。二つの建物はコの字形に廊下でつながり、これを天秤にして弁慶が担いだとの伝承から、担い堂と呼ぶのだそう。
 多分、担いでないと思います、と講師。和やかな空気が緊張を和らげます。
 講師が、この山の樹々は何百年もこうしてお経を聴いて育ってきたんですね、と言われました。ほんとうに辺りは神聖な気に満ちています。


 坂を下り、急な石段を降りると椿堂です。
 聖徳太子がこの地に宝塔が出現したのを見て登山し、杖を地面に挿したところ杖から椿が生えたとの故事があるそうです。
 法華経こそ国家を救う経典との確信のもと、太子の後継者たらんとする最澄にとって、山内にある貴重な太子の遺跡です。お堂の回りにはやはり椿の木が生えていました。

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        椿堂 お堂の両側に椿の木。さて、どちらが……。


 谷をあがり、延暦寺の中でも最も清浄の地、浄土院へ向かいます。
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 ここは開祖伝教大師最澄の遺骸が納められる廟所。前には沙羅樹と菩提樹。
 最澄はここで今もなお生けるがごとく、朝夕食事を供されているのだそうです。
 ここでは最澄に仕える「侍真」という行者が十二年間籠山し、境内を塵ひとつなく掃き清め、その厳しさは「掃除地獄」と言われるのだそう。途方もない年月に驚きです。

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              伝教大師廟 山内最高の浄域です。

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      廟堂 御廟の屋根に猿を見つけました。
          延暦寺の守り神、日吉大社のお使いです。


 実は他にもいろいろな発見が! 
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 清遊の会ならではの見学です。

 さて、浄土院を後にして、本日最大の難所(?)を歩きます。
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 途中、第五世天台座主の円珍の住房、山王院前で円珍派と円仁派の話を聴きます。すべては最澄が後継者を入唐求法の通訳であった義真を指名したことから始まりました。
 円珍派は智証大師の木像を背負ってここから下山、以後山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)に分かれました。

 一行は山内で最も水量豊富な湧水、弁慶水を経て、法華総持院へと向かいます。
 途中一人だけ列を離れ、脱兎のように坂道を駆け下りる人がいて、なんとも可笑しなことでしたね(笑)。
 ススキの穂が揺れてすばらしい景色でした。
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             弁慶水 西塔から千日運び続けた!?

 法華総持院は東塔西谷にある寺院群。東塔、潅頂堂、阿弥陀堂、寂光堂が回廊で結ばれています。
 担い堂と同じですね。
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 回廊の下をくぐって進むと壮麗な建物群。
 まばゆいばかりです。
 法華とは法華経、総持とは密教を意味します。法華総持院は貞観4年(862)、円仁が天台密教の根本道場として建立して以来、焼失、再建を繰り返し、文明17年(1435)放火によって焼失してから再建されませんでした。
 現在の伽藍は昭和52年(1977)、伝教大師出家得度千二百年記念として計画され、昭和62年の比叡山開創千二百年を記念してすべての堂塔が落慶しました。


 まずは東塔を見学。

 最澄は生前、国内に六基の宝塔を建立し、法華経の力によって国家を鎮護する六所宝塔の誓願を立てました。その六基のうちのひとつ、日本国総安鎮としての近江宝塔院がこの東塔です。
 塔とは最澄が法華経千部を安置するためのもので、二階には仏舎利を中心に法華経千部が納められています。
 ここから眺める琵琶湖の眺望は素晴らしく、しばし塔の前に座り、その景色を見ながら講師の説明を聴く、なんとも贅沢なひとときでした。

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              東塔 心地良い風が吹き渡りました。


 次は阿弥陀堂。
 日野の法界寺阿弥陀堂を模して建てられ、丈六の阿弥陀如来が安置されています。法華総持院は法華経と密教の道場。そこに阿弥陀堂が……。
 最澄による法華一乗、円仁・円珍による台密、そして源信・良源による天台浄土教、四宗兼学の延暦寺ならではです。心を鎮めて参拝しました。

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   阿弥陀堂 堂前には水琴窟が配された一郭があります。


 いよいよ最澄の悲願、戒壇院へ。
 まさに古色蒼然。屋根は宝形造、軒唐破風をつけ、二階建に見えますが、裳階をつけた一層の建物。その重厚さにただただ見上げるばかり。
 それまで奈良・東大寺、下野・薬師寺、筑紫・観世音寺の三寺でしか僧侶になる小乗戒を受けられなかったことに対し、最澄は新しい都の大乗戒を授けることができる、この戒壇院の設立を願いました。
 しかしその許可が下りたのは最澄の死後七日目のこと。完成したのは弘仁14年(823)のことでした。中央には石造の戒壇が置かれ、釈迦三尊像が安置されているそうです。

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            戒壇院 落慶には空海も駆けつけたそう。

 大講堂の前でなんとも不思議な聖女塚の話を聞いた一行は、その塚の場所を聞いてびっくり! 教えてもらわないととても発見できません。

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                 聖女塚 「せいにょ」と読みます。


 大講堂へ。
 内陣の本尊は胎蔵界大日如来像。右に十一面観音、左に弥勒菩薩が祀られています。
 本堂には釈尊以下の聖人や叡山歴代の高僧の像が掲げられ、左右の部屋には叡山で修行し、山を下りて一派を開いた祖師たちの木像が、それぞれの教団から献じられています。叡山ゆかりの宗教家たちの話、興味深く聞きました。

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           大講堂 日本仏教の縮図をみる思いです。

 大講堂を出たあと、しばしベンチに座り、今は「開運の鐘」となっている鐘楼の梵鐘について学びました。一打50円、連打はお控え下さい、との案内。
 もとは日吉山王の神輿を担ぎ、都へ強訴した合図の鐘。連打してこその鐘、と思わず吹き出す解説です。

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 開運の鐘 二代目です。初代は国宝館に。開運どころか……。

 已講坂を降り、登天天満宮、牛彫物の解説を聞きながら、萬拝堂へ。萬拝堂の地階でおそい昼食をとりました。
 それにしても牛の彫物。すぐ側にある天満宮と無関係とは! 紛らわしいことこの上ありません。

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              牛彫物 立派な角が物語るものは?


 大黒堂横から文殊楼へ。
 根本中堂の真正面の丘上に文殊楼。ここは常坐三昧院。建物の四隅と中央には円仁が五台山から持ち帰った霊石が埋められています。
 急な階段を上り、楼上の文殊菩薩に参りました。ここでも一人、上らない方がおられましたね(笑)。

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            文殊楼 古格あふれる堂々たる佇まい。


 東塔の根本御堂である国宝・根本中堂へ。延暦寺三塔の総本堂で滋賀県内最大級の仏堂。廻廊が前庭を取り囲み、廻廊を伝って堂内に入ります。
 廻廊の中備である蟇股にはすべて違う彫刻が。そして前庭には、いん(竹冠+均)篠と篆篠という竹が植えられています。京都御所の清涼殿を連想しました。
 講師から、なんとこの前には60年に一度の干支頭の年や国家の大事に際し修法される法具が埋蔵されていると聴いてびっくり!

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          根本中堂前庭 「聖域」の風情が漂います。


 一歩踏み入れるとほの暗い堂内。内部は内陣、中陣、外陣からなり、その高さは僧侶、天皇と座す人によって異なることを堤講師から教わります。天台密教仏堂の典型といわれる形だそうです。
 内陣中央、須弥壇前に吊られた三つの燈籠。これこそが「不滅の法灯」です!
最澄が自刻の薬師如来像を安置したとき灯されて以来、一度も消えることなく続いている浄火。信長焼き討ちには立石寺から戻されました。
 この場に来られたことが有難く感じられ、感激もひとしおです。
 外に出ると、またまた堤講師とっておきの案内がありました。
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 根本中堂を守る鬼を見つけに行くのです。
 あった! あった! みなさんの顔がほころびます。
 気付くと見知らぬ参拝者までついて来られていました。

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            この鬼さん、これから出番が多そうです。
 根本中堂の向かい側には伝教大師童形像があります。
 子供の最澄を象った像は比叡山開創1150年を記念して、全国の小学生が一人一銭を拠出して建てられたのだそうです。
 ここで堤講師が用意された資料の登場です。こんな資料を使って解説される案内なんて他では決して有り得ないと思いませんか? 最澄の心が本当によくわかりました。

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童形像 暴力と悪語を使わなかった最澄の原点です。

 隣には宮沢賢治歌碑が。賢治の熱心な法華信仰と作品との関係を聴きました。
 文学と信仰、難かしいけれど香気あふれる解説です。
 ちなみに堤講師の叔父さんは天沢退二郎とともに宮沢賢治全集の編集を行った方だそうです。環境って大事ですね。

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   歌碑に書かれた妙法如来正偏知とはお釈迦様のこと
 星峯稲荷社から蓮如堂や総持坊を眺めながらはったい粉上人や一眼一足の怪物など、興味深い話の数々……。
 もっともっとこの空間で、この静寂の中で講師の話を聞いていたい、と誰もが思ったことでしょう。ですが時間は無情に過ぎて、タイムアップ。
 陽はすでに傾きかけて木々の間から差し込み、夕方が迫りました。

 復路はケーブルで坂本へ。たどり着いたケーブル乗り場の前には琵琶湖が見渡せるビューポイントがありました。本日の東塔探訪、締めくくりの眺望です。

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 下りのケーブルはかなりの急勾配! 時々景色と反対の方を向く人がいたりして、最後まで楽しいひと時でした。

 この比叡山東塔探訪は、伝教大師最澄の心に触れてほしいと願ったツアーでしたが、いかがでしたでしょうか? 
 1日を費やしてこの探訪に参加してくださった皆様と、精一杯の案内をしてくださった堤講師に心より感謝致します。
 有難うございました。















等持院を訪ねて

京都・清遊の会 現地案内

等持院 拝観

 8月29日(日)、堤講師の案内で、足利家の菩提寺・等持院を訪ねました。

 まだ真夏のような陽ざしの残る日でしたが、境内に一歩足を踏み入れると、しんと静まり、静寂の世界です。廊下を伝い、関牧翁老師の達磨像を拝して方丈へ。ここ等持院の鴬張りの廊下は本当に美しい音色がします。
 妙心寺から移された本堂。まさかお寺に男女和合の像があるとは知りませんでした。白砂と緑苔、二色の対比が美しいお庭を前に、等持院の歴史を学びます。尊氏逆賊説と朱子学の関係、真如寺と同じ山号の由来など。盛りだくさん過ぎて覚え切れません。汗、汗(笑)

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白砂と苔の配色が美しい方丈前のお庭


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六間取り形式の方丈 ここに聖天像が

 霊光殿へ。正面中央にご本尊の地蔵像。左右に達磨大師と夢窓疎石像。そして徳川家康像。足利家初代尊氏から15代義昭まで歴代の像十三体が並び、一人ひとりの像について詳しい説明がありました。それぞれの事績や、性格、特徴を聴きながら対峙していると、ここはやはりただならぬ雰囲気が感じられます。

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                霊光殿外観 

 霊光殿を出て、西庭を観賞。堤講師にご用意頂いた「都林泉名勝図会」と現在の庭を見比べてみます。芙蓉池に架かる橋や植栽までがほぼ同じです。

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                    方丈裏からの西庭

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                      書院からの西庭の眺め

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          都林泉名勝図会に描かれた等持院の西庭 

 書院で、かつてあった霊光殿天井の龍の絵の写真を見たり、お庭の解説を聞きます。ここでも名勝図会のイラストが大活躍。その後、降りて散策です。
 清漣亭は足利義政好みの茶室。室床と楊枝柱、櫛形窓、座る人の立場に応じた天井の造り、そして司馬温公の手水鉢など興味は尽きません。ですが、何よりも藁屋根茶室の簡素で鄙びた風情と義政の事跡、結びつきません!? (笑)。
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                 茶室青漣亭と等持院型石灯籠

 寄せ燈籠の斜面を降りると大きな有楽椿。これは有楽椿と称する椿のうち、現存最大だそうです。風格を感じさせますね。
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                   風格を感じる有楽椿

 等持院中興、関牧翁老師の胸像を経て足利歴代将軍の遺髪を納めてあるという足利家十五代供養塔、十三重の石塔です。
 その両側には東側に小豆島で生まれ京都で没した天才俳画家、赤松柳史の句碑「煩悩はたえず南瓜を両断す」と、西側にはその高弟・青山柳為の句碑「芙蓉池に風あるやなし落花舞う」の句碑。流麗な文字に思わず足を止め、見入ってしまいます。


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                   流麗な筆跡の青山柳為句碑

 堤講師から庭歩きの楽しみ方を聞きながら、それぞれに石段や踏み石の景色をたのしみ、東庭にすすみます。
 かつて真如寺の敷地だったという庭で驚きの話を聞きました。ここは西庭とはまた趣を異にし、幽邃な雰囲気がただよいます。いつのまにかまるで別世界に足を踏み入れたかのような空間。東庭は心字池の回りをぐるりと巡っての散策です。
 池中の島には昭和25年のジェーン台風で倒壊した楼閣、妙音閣がありました。鹿苑寺、慈照寺、真如寺は相国寺の山外塔頭。鹿苑寺には金閣、慈照寺には銀閣、そして真如寺には妙音閣。妙音は極楽に棲むという妙音鳥、迦陵頻迦。三庭とも神仙思想に基づきます。堤講師の話は史実と想像の世界を自在に行き来し、考えること、思いをめぐらすことの素晴らしさを教えてくれます。

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        妙音閣址の礎石を前に、自在に語る堤講師
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       東庭の風情 西芳寺の黄金地とよく似てます

 木漏れ日がさし、水面がゆらぎ、すすむたび新たな景色が広がる不思議さに、ただただ感激しながら歩きます。そして立ち止まることの大事さ、振り返ることの大切さを実感しました。

 足利尊氏墓には「等持院殿贈大相国一品仁山大居士」の碑銘が。尊氏の仁、直義の智。仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ……。
 それにしても三条京阪の土下座の像としか知らなかった人が、この墓を鞭で打ち据えたとは! 

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            高山彦九郎が鞭で打ち据えた尊氏墓石 

 名残惜しい等持院を出て、隣接する広い墓地に眠るたくさんの画家や映画人の話を聞きながら「日本映画の父」マキノ省三像の下へ。昔ある映画の撮影に立ち会うため太秦に日参し、映画撮影の現場と裏表を体感された堤講師の話は、臨場感たっぷりです。
 日本初の寺内撮影所、等持院撮影所や、ここに続く天授ヶ丘撮影所の歴史とそこで育った時代劇の大スターたちの話、興味深々です。折りしも本日(9月1日)の新聞が京都の時代劇撮影を支えた「映像京都」の解散を伝えていました。堤講師が撮影に立ち会われた映画「利休」もこの映像京都の仕事だったそうです。

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           日本映画の父・マキノ省三像。脚本を手に

六請神社

 等持院を出た一行は隣の六請神社に。
 かつて葬送地であった衣笠山の名称の由来が、死者に掛ける絹掛けからきているという説、この地を開いた開拓者たちの崇敬する神が天照国照神であったことから、天照大神信仰と結びつき、さらに死者の救済にあたる地蔵信仰と六地蔵の六がつながって、京奈一円の古社である伊勢・賀茂・石清水・松尾・伏見・春日の六社を勧請、現在の神社となったこと、同じ性格をもつ敷地神社(わら天神)の「六勝神社」が「勝」の字を持つこと、民俗学的に極めて興味深い性格をもつ神社であることなどを学びました。

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                           六請神社外観 
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                        見事な流造の本殿 
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                 石に願いを。力石神社のご神体 


真如寺
 六請神社に隣接する相国寺の山外塔頭です。中には入れませんが、鉄柵越しにみるエントランスのなんと素敵なこと。

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                趣きのある真如寺のエントランス 

 女性で始めて悟りの印可証明を得た無外如大禅尼が師の爪と遺髪を納めた正脈庵から、高師直が大寺となした経緯、人形寺で知られる宝鏡寺の歴代門跡が眠る地でもあることなど、とても長く深い歴史があることを知りました。
 六請神社もそうですが、こうした機会に紹介されなければ、おそらく何度前を通ってもまず立ち寄ることのない地域の社寺がとても身近に感じられます。これこそが「清遊の会」の京都案内。生きた観光がここにあります。