紫野で

毎月朔日に氏神の玄武神社にお参りをします。

玄武神社は北区紫野雲林院町、大徳寺の南東にある小さな神社。

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まだ残暑の時期、町なかでは草花はみられませんが、ここはいつも丹精されていて、この日も凌霄花や虎の尾など夏から秋への花が咲いていました。
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今日はこの玄武神社からお話をさせていただこうと思います。

玄武神社の御祭神は惟喬(これたか)親王。別名、惟喬の社と呼ばれてきました。

玄武神社は、文徳天皇(55)の第一皇子でありながら不遇な生涯を送られた親王の御霊を慰めるため、末裔の星野茂光が親王の外祖父、紀名虎(きのなとら)所蔵の親王寵愛の剣を御霊代とし、併せて王城北方の鎮護を願い祀ったのが起こりとされています。


町の中の小さな神社ではありますが、社名の玄武は青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつ。

亀に蛇が巻きついた形で表わされ、玄武神社は一名「亀の宮」とも言われたそうです。
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摂社の三輪明神と玄武稲荷明神にもお参りします。

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あらためて境内から外を見ると、すぐ向かい側にはもう今宮神社のお旅所があり、向こうに船岡山が見えています。
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神社を出て歩いてみましょう。
通りに出ると船岡山に向かう道路は西へ、船岡山の建勲神社への参道となっていて、やがて鳥居に突き当ります。
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ここからはかなり急な階段を上って建勲神社に至ります。

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建勲神社は、秀吉が織田信長の廟所と定め祀って、のち大徳寺領となり、やがて明治になってその忠誠偉勲が追彰され神社となり現在に至っているのですが、
しかし、もともとここは船岡山の地の神「玄武大神」が祀られているところなのです。

現在も中腹に玄武大神を祀る「船岡妙見社」を見ることができます。
船岡妙見社 船岡玄武神社外観.jpeg船岡妙見社 船岡玄武神社外観.JPG
船岡妙見社 船岡玄武神社 本殿と拝殿.JPG
駒札には「今から千二百年の昔、平安建都に際し、風水が相される。船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の起点として平安京が造営された」と書かれています。


これこそが都の北を守る神としての鍵を握っているところだと、昨年、堤先生の現地案内で教わりました。

妙見は北極星を表わし、北を示すシンボル。

そしてこの社殿もそして玄武神社も南…都を向いています。都を守るために!


ちょっとゾクゾクしてきました…。

「船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられている」とあります。

船岡山の玄武大神と町のなかの玄武神社。後者は船岡山のこの妙見さんに登れないときにお参りするところだったのでしょうか。


さて、頂上まで登ると市内が一望できます。
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この眺め、南を望んでいます。本当に気持ちがいいです。

桓武天皇(50)自らがここで地割をおこなったと言われています。同じ地に立っていると思うとまた興奮します!ここが平安京の北の起点だったんですね!ここから朱雀大路が南に延びて…。


船岡山について

高さ112メートル、東西200メートル、南北100メートルの丘陵。

山頂には古代の祭祀跡と思われる盤座(いわくら)があります。
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山の東麓に六兵衛池という大池があり、山の東端が池中に突き出し海に浮かぶ大船のようであったところから船岡と呼ばれたそうです。


清少納言は『枕草子』で「岡は船岡、片岡…」と称賛し、のち円融天皇
(64)が譲位後、この山麓で「子の日の遊び」をされたことから大宮人が小松を引き、若菜を摘んで宴遊する行楽の地ともなりました。

しかし、後冷泉天皇(70)以降、多くの后妃がこの船岡周辺に埋葬されることが多くなり、船岡は葬送の地へと変わってゆきます。

中世になると戦略的要衝の地となり、応仁の乱で西軍の陣地が築かれたことは周知のとおりです。


そして紫野

この船岡山から大徳寺周辺一帯が「紫野」と呼ばれるところ。平安前期には天皇の遊猟地となり、桓武天皇が狩猟されて以来嵯峨天皇(52)、淳和天皇(53)も来遊されたと伝わります。船岡山で「子の日の遊び」がおこなわれてよりは紫野は和歌に詠まれ、歌枕の地として知られましたが、鎌倉時代に至り、大徳寺が創建されました。


ふたたび玄武神社へ

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玄武神社本殿の後ろ、北側に建物が見えていますが、このマンションが建設される際、発掘調査がおこなわれました。
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2000年ですからまだ記憶に新しいところです。
発掘調査で、「雲林院」跡の苑池や建物跡、井戸跡が発見されました。


雲林院とは?

いまは小さな堂宇となり大徳寺の境外塔頭となっていますが、
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雲林院は淳和天皇が紫野に造営された離宮「紫野院」のあとを寺院として継いだところ。

淳和天皇はしばしばこの紫野院に行幸し、釣台に御して遊魚をご覧になったり文人に詩を賦さしめたりして遊宴されたと記録にあります。
やがて仁明天皇(54)の第七皇子、常康親王に伝領されましたが、
親王は即位できず出家、僧正遍照によって寺院となり、雲林院と称したそうです。

僧正遍照は惟喬親王をとりまく六歌仙のひとり。惟喬親王の寵臣でした。「あまつかぜ雲のかよいぢ吹とじよ…」の和歌で知られていますね。

常康親王から雲林院を託された遍照は、境内の鎮守であった玄武大神を祀る社に惟喬親王を合祀し、生涯、親王への追慕に生きました。常康親王惟喬親王の母はともに紀名虎の娘、つまり従兄弟であり叔父甥の間柄でした。そして母が藤原氏ではなく紀氏の出であったがゆえに即位できなかった失意の親王たちなのです。


雲林院の木のかげに、たたずみてよめる

  侘び人の別きて立ちよる木の下は

  頼む陰なく紅葉散りけり   僧正遍照


雲林院は千手観音を本尊とした本堂をはじめ多くの堂舎が建てられ、さまざまの法会が催され、なかでも寺内の念仏寺の菩提講は、極楽往生へ導く法華経の説教会として、今日の彼岸会のように多くの善男善女が参集したところと伝わります。

平安文学の一つ「大鏡」は、この菩提講で落ち合った旧知の老翁(大宅世継190歳と夏山繁樹180歳)が昔語りをするという趣向で記述されています。


雲林院はまた花の名所としても知られ、咲き誇る花の美しさは雲の林と称えられました。
王朝時代、歌人の諷詠地となり、謡曲「雲林院」の題材ともなった和歌文学の名所でありました。
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やすらい祭について

いま雲林院という町名としてのこっていますが、この雲林院地区、もと雲林院村のお祭りとして伝承されているのが玄武神社のやすらい祭。
玄武神社によりますと、康保二年
(965)の大水害のあと疫病が蔓延したため、玄武神社において祭りをおこなったのが京都の鎮花祭のはじめとされています。


当時、疫病が流行るのは恨みをのんで亡くなっていった人の怨霊の仕業と考えられ、霊を鎮めるための御霊会が催されました。紫野御霊会、船岡御霊会といった御霊会も知られています。


そして先に書きました常康親王も惟喬親王も即位できなかった無念の親王たちです。常康親王を慰める御霊会はやがて惟喬親王の霊を慰める御霊会になっていったようです。


玄武神社には背中に「雲」と染め抜いた素襖が伝世しており、雲林院の御霊会が玄武神社と今宮神社に引き継がれたのが現在のやすらい祭のようです。
そして北の御霊会はやすらい祭り、東の御霊会は祇園祭となってゆきます。


4月の第二日曜には玄武神社、今宮神社、川上大神宮でやすらい祭がおこなわれています。

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赤熊
(しゃぐま)をつけた鬼や小鬼が鉦や太鼓を叩き、氏子地域を練り歩きます。

玄武神社は「玄武やすらい花」と呼ばれ、風流傘に入ると一年間無病息災で過ごせると言われ、行列が来るとみな競って傘の下に入ります。
「富草の 花や とみよせば なまえ 御倉の 山に 余るまで なまえ……」


最後に…やすらい祭が京都三大奇祭のひとつとされているのはなぜなのでしょうか?

祭りは本来神社のもの。それが雲林院という寺院に端を発することが「奇」なることだ!と…講座で先生から教わりました。


いつの間にかとんだ長話になってしまいました。

ここはめったに観光客が訪れることもなく、地域の氏神さまとして尊崇されている神社です。

でもこんな歴史を秘めているなんて驚きですね。

玉垣のそばに色づき始めた紫式部を見つけました。
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そういえばこの近くに式部のお墓もあるのです。小野篁も並んで…。

紫の縁からこの地にあるのでしょうか?

そのお話はいずれまた─。

なにより来月は紫の実がたくさん見られそうです。

地蔵盆に

朝夕にすこし涼しさを感じるようになる頃、暦では処暑の頃にあたるでしょうか、地蔵盆がおこなわれます。

関西では広くおこなわれているようですが、最も盛んなのは京都かもしれません。京都ではポピュラーな夏の年中行事です。


地蔵盆は子供たちのためのお祭り。

地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日(毎月24)の、お盆の期間である旧暦724日の前日(宵縁日)を中心とした三日間を言い、823日前後におこなわれるところが多いようです。

地蔵菩薩は自ら出向いて地獄の責め苦から人々を救ってくれる有難い仏さまですが、

親より先に亡くなった子供が賽の河原で苦しんでいるのを救うという伝説から中世以降、子供の守り神として信仰されるようになりました。

そして町内に祀られたお地蔵さまが祠から出て子供たちと過ごす?のが地蔵盆。

地蔵盆を「お地蔵さん」と呼び、昔はたいてい二日間おこなわれていました。

地蔵盆が近づくと、町内ではお地蔵さまを洗い清め、前垂れを着せ、お化粧を施して準備をします。
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子供の名前が書かれた提灯を飾り、大人たちは会場の設営にも大わらわとなります。

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当日はご詠歌の奉納や数珠回しの他に、おやつや福引き、金魚すくいなど楽しいプログラムが目白押し、お地蔵さんは子供たちの天国です。


子供の頃、地蔵盆はもう夏休みも残りわずかとなった、夏の最後の楽しみでした。

紫野の大徳寺の門前で育ちましたので、その地蔵盆の話を少し。


門前の町内では大徳寺の境内に地蔵盆が設けられていました。

この地蔵盆はちょっと他にはないような地蔵盆で、と言いますのは、当時、三門「金毛閣」の下が地蔵盆の会場となっていましたので。
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あの三門の下で、昼は数珠回しやスイカ割り、夜は六斎念仏に興じていました。

六斎念仏は「獅子と土蜘蛛」。蜘蛛の糸が投げられるのが見事でいつも見入っていました。

毎日お地蔵さんに入り浸り、ただもう遊ぶことに夢中の二日間。

三門の下で遊んでいたとはいま思うとなんと恐れ多いこと…。


そして大徳寺では現在も823日の夕刻に、山内の僧侶方や修行僧がお地蔵さまにお参りされます。

まず「千躰地蔵塚」に。
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列をつくり、読経しながら回り礼拝されます。

こんなに多くの僧侶方が揃われての行道は開山忌の時くらいしか見たことがありません。
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そしてつぎは、総門を入って正面の「平康頼之塔」の前に移動しての諷経
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平康頼とは、あの鹿ヶ谷の陰謀で鬼界が島に流された後白河上皇の寵臣。なぜそのお墓?がここにあるのかはさておき、よく見るとなかなか古びて趣のある仏さまです。

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そしていよいよ、いまは地蔵盆のお地蔵さまが祀られていますお茶所でのお経。

ここはいつもは大黒天が祀られているのですが、地蔵盆には脇にお地蔵さまがお祀りされます。

赤ん坊を抱いた彩色も美しいお地蔵さま。

ふだんは拝むことができません。この地蔵盆の時だけです。
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このお地蔵さまはもと托鉢の僧が背負っていたもので、いつしか門前の者がお世話するようになったとか。

慈愛に満ちたこのお姿も来年まで拝むことができません。
よく目に焼きつけておきたいと思います。

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お経が終わる頃、日はすっかり暮れていました。

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暗くなった境内で町内の人たちだけが見守る、静かな地蔵盆の行事。
もう夏の終わりの気配がただよっています。