玄武神社 紫式部・小野篁 大森

9月に入りました。
日中の残暑は厳しいながらも、朝夕はしのぎやすくなりましたね。
いつのまにか陽ざしもやわらぎ、草木に花実がなり、どことなく秋の訪れが感じられるようになりました。

1日朝、北区にある玄武(げんんぶ)神社では宮司さんの姿がありました。地元の人たちが月参りに来られています。



芙蓉もよく咲いていました(^-^)

玄武神社は、ご存じのように、平安時代初期の文徳天皇第一皇子であった惟喬(これたか)親王(844~897)をお祀りし、別名惟喬社(これたかのやしろ)とも呼ばれています。
社名の玄武とは、青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつで、平安京の北にあることから北面の守護神として名付けられたものです。
(玄武神社HP)

10年前の2011年9月に、玄武神社から始まるブログ「紫野で」を書かせていただきました。
そしてブログの最後に、この近くに紫式部や小野篁(おののたかむら 802~853)のお墓もあるのです…と書いておりました。当時は考えが及ばず、そのままになっていました。

紫式部と小野篁の墓所は玄武神社から約300メートル、まさに目と鼻の先にあります。


ムラサキシキブが実をつけていました (^-^)

右が小野篁卿、左が紫式部のお墓。

さて今年の5月に、惟喬親王終焉の地と伝わる「大森」の地を訪ねる機会が何度かありました。大森は同じく北区ですが、ここから約20キロ離れた小野郷(おのごう)にあり、北区の最北端、清滝川の源流となるところです。

北区のエリア別図

二つの図を照合していただくと、
小野郷は、旧大森村と旧小野村をあわせた地域で、
現在の中川(旧真弓村、旧杉坂村、旧中川村)とともに5つの旧村の地域を「北山杉の里」と呼んでいます。この北山杉の里を清滝川が流れ、やがて保津川に合流します。

下は惟喬親王を祀る安楽寺や供養塔のある大森東町のエリア。お見づらく恐縮ですが、すぐ東は雲ヶ畑の志明院、さらに東へいくと貴船、鞍馬。貴船神社の名が見えています。
大森へは、町中からは国道162号線沿いに進み、岩戸落葉神社で北上します。

小野郷の辺り一帯は名の通り、名族小野氏の活躍したところで、小野篁もこの地の出身、そして篁の子、長友(ながとも)は惟喬親王に仕えた従者のひとりという伝承があります。
長友が実在の人物で、惟喬親王に仕えたかどうか、確証はありませんが、大原においても、雲ヶ畑においても、この大森でも、小野氏の一族が惟喬親王に仕えていたことは確かなようです。

以前に堤先生にいただいたレジュメに、紫野の辺りに小野氏の語り部集団がいたという伝承があるとありました。先生は惟喬親王をお祀りする玄武神社の周辺に篁の墓所があることは小野氏を通して関連があると考えられていたと思われます。

紫野におられた頃の惟喬親王のまわりには、雲林院(うりいん)という寺院を中心に六歌仙と呼ばれる人々が仕えていたといいます。そのなかには小野小町も数えられています。

大森を訪ね、小野氏が勢力を張った小野の地について学び、ようやくたどり着いた歴史の関わりに、堤先生はとうに考察されていたのだと気づきました。

第一皇子でありながら、藤原氏の権勢のため天皇になれず、都の北方の地を点々とされた惟喬親王。
昼は朝廷に仕え、夜は冥府で閻魔(えんま)様に仕えたという小野篁。
ひと世代ほどの時代の隔たりはあるけれど、平安の有名人ベスト10に入りそうな?この二人が、大森・小野の地で、そしてこの紫野で、ともに名を残しています。
大森は、親王の伝説や足跡が残っていて、特別な何かを感じる土地でした。
親王が、都への想いをはせたというあの桟敷ヶ岳を望む地。

再び大森を訪ねたくなりました。
              惟喬親王を祀る安楽寺

              大森 桟敷ヶ岳を望む
 

              

 

 

お精霊迎えと七夕祭

8月にはいり猛暑が続いておりますが、いかがおすごしでしょうか。
京都も「お精霊(おしょらい)迎え」が始まりますと、今年もお盆の時期だと実感しますね。

六道珍皇寺の六道まいりは有名ですが、西陣の地にある「千本ゑんま堂 引接寺(いんじょうじ)」でもお精霊迎えが行われています。
こちらでは、地蔵供養池に、水塔婆を流す水回向(えこう)を行い、お精霊さんをお迎えします。
境内には、朝から迎え鐘の音が響き、お参りの方々が次々に来られていました。


本堂にお参り。
正面で睨んでおられる閻魔様はいつ来ても畏敬の存在です。



こちらは地蔵菩薩、小野篁卿が祀られ、盆供えがされています。

さつまいも、人参、みかん、ささげ豆、ほおずき……
ささげ豆がいろいろな結びようでアクセントに。一皿一皿がアートのように面白いです。そして美しい (^-^) !

地蔵池では、心をこめて水を掛け、塔婆を流されています。


千本ゑんま堂は、千本通りにあり、かつて京の葬送の地のひとつであった蓮台野(れんだいの)の入口にあたるといわれます。近くには大報恩寺(千本釈迦堂)や石像寺(しゃくぞうじ / 釘抜地蔵)もあり、千本は地域の人々の信仰篤い地でもあります。

さて夕刻、やはりこの西陣の氏神様である今宮神社の織姫社の七夕祭が催行されました。

織姫社の七夕祭は、500年以上もの歴史をもつ西陣織を育んできた西陣の業祖神である織姫大神(おりひめのおおかみ)に感謝を捧げる祭。
織姫の神と、人々がひとつになって西陣をつくり上げてきたことを象徴する祭として、神人ともに直会い、感謝を奉り、互いに喜びを分かち心を重ねてゆく願いがこめられているとのこと。

サヌカイトの不思議な調べが流れるなか、神事は厳かに執り行われ、境内全体が暮れてゆく宵に包まれます。いつのまにか星空になっていました。
神と仏がともに人々に寄り添っておられると感じるとき。こうした夏の一日なのかもしれません。