すこし寒さがゆるんで、陽ざしも明るくなってきました。
今日は上七軒(かみしちけん)にやってきました。
今出川通りと七本松通りの交差点を上がって、上七軒通りを西へ歩きます。
上七軒は京都の五つの花街(かがい)のうちで最も古い花街。
五つ団子の提灯が軒を飾っています。二本で十個の団子がくるりとめぐっています。
3月25日から始まる北野をどりのポスターもあちこちに。
今年は北野をどりが60周年を迎えるそうです。
お茶屋さん、仕出し屋さん、お寿司屋さんなどが軒を並べ…
やはり華やいだ雰囲気です。
上七軒の歴史をひもときますと-
室町時代、北野社殿が一部焼失し修復されました。
その際、社殿御修築の残材を以て、東門前の松原に、七軒の茶店を建て、参詣諸人の休憩所としましたので、七軒茶屋と称したのだそうです。
その後、天正十五年(1587)八月十日、太閣秀吉が北野松原において晴天十日間(実際には一日だけで終わりました)の大茶会を催し「茶の湯執心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」との布令を発したため、洛中は勿論、洛外の遠近より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず非常の賑わいを呈したと。
その際この七軒茶屋を、豊公の休憩所にあて、名物の御手洗団子を献じたところ、いたく賞味に預り、その褒美として七軒茶屋に御手洗(みたらし)団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、わが国に於けるお茶屋の始まりだそうです。
現在、上七軒花街が五つ団子の紋章を用いるのは、実にこの名物御手洗団子に由来すると上七軒歌舞会では伝えています。
上七軒は真盛町、社家長屋町、鳥居前町の三つの町内から成っています。
上七軒歌舞練場をのぞいてみましょう。
ここのお提灯も二本の五つ団子。これは下で串が交差して円になっています。
上七軒歌舞練場―
昭和6年の建築。客席への廊下は高欄がめぐらされ、茶屋建築には珍しい神殿造りの風情。
高欄をめぐらせているということは橋掛かりの構成であり、橋は異界へ誘われることを暗示しています。
以前、おもしろ講座で堤先生から能舞台の装置についてうかがったことがありましたね。
他の歌舞練場がオートマティック化されていくなか、手動式の舞踊専門の建物で、地方(ぢかた)との相性がよく、微妙な間がとりやすい劇場として定評があるのだそうです。
ちなみに歌舞練場の正面は、天満宮東側の御前(おんまえ)通りに面しています。天神さんの前の通り=御前通りです。
さて、この花街のなかに、なんと五本の筋塀(すじへい)がありますが…。はて門跡?
正面にまわってみましょう。
西方尼寺―
ここは真盛山と号する尼寺。
寺伝によれば文明年間(1469~84)に慈摂大師・真盛(しんせい)上人を開山として大北山の地に尼僧の修行道場として建立したものを、永正年間(1504~21)に現在地に移転した由。
本尊の阿弥陀如来坐像は椅子に腰掛けて中品中生印を結ぶ極めて珍しい像。
寺宝の絹本著色観経(かんぎょう)曼荼羅図(重文)は当麻寺の中将姫ゆかりの綴織観経曼荼羅図(当麻曼荼羅)を鎌倉時代に転写したものだそうです。
観経というのは浄土宗で使用する三部経の一つ「観無量寿経」のこと。
そしてじつは本光院という門跡寺院が西方尼寺のなかにあるのです。
本光院―
本尊は延命地蔵菩薩。本光院は乾元元年(1302)、後二条院の皇女が父帝の菩提を弔うために開創、蔵人御所号を勅許されました。
元は上京二階町にありましたが荒廃して、天正年間に織田信長が再建して北野に移転しました。この時より延命地蔵菩薩を本尊としています。
中興の祖、本光院日心尼の院号により本光院と改称しました。摂家子女が入寺する寺でしたが、次第に荒廃し、宗派も時代により変わりました。
昭和43年に天台真盛宗の西方尼寺境内に再建されて、西方寺住職が本光院門跡も兼ねて法灯を継承しておられるのだそうです。
本光院がある西方尼寺境内には北野大茶会の時に千利休が使用した井戸「利休井戸」や利休手植えの「五色散椿」が伝わっています。
なお、本光院には鎌倉時代から南北朝にかけての武将・足利直義(足利尊氏の異母弟)の妻・本光院殿(渋川貞頼の娘)が開山したという説も伝わっています。
西方寺は拝観することはできませんが、ここには「真盛豆」という菓子が伝えられていますので、そのお話をいたしましょう。
真盛豆―
真盛上人が念仏を聴きにきた信者に作ってもてなしたものといわれ、真盛の弟子で、この西方寺の開祖である盛久・盛春両尼が真盛から製法を伝えられ、以来代々この寺に伝わってきたものとされています。
天正十五年の北野大茶湯に使用され、秀吉が茶味に叶う味と賞賛し、細川幽斎は苔むす豆にたとえたといいます。
明治初年に初代の金谷正廣(安政三年創業)が西方尼寺に出入りし、この製法を伝授され、さらに茶人にあうよう工夫したと伝えられています。
炒った丹波黒豆に大豆粉を幾重にも重ね、青海苔をまぶした風雅なお菓子。
真盛豆は金谷正廣(堀川下長者町通り西入ル)の銘菓となっています。
秀吉公の見立てのとおり、茶道の干菓子に適います。
西方尼寺の屋根に贔屓(ひいき)を見つけましたよ…。
先へ行きましょう。
ここは和菓子の「老松」。
花街のなかにあって茶店の風情をも残しつつ、北野社ゆかりの屋号を持ち、北野の信仰とともに京の雅を伝える菓子司として貴重な存在。
茶の湯のお菓子でもおなじみですね。
店内にはやはり舞妓さんの団扇も飾られて。
梅尽しの干菓子「春鶯囀」が目にとまりました。
『源氏物語』「花宴」に、東宮の所望により光源氏が「春鶯囀(しゅんのうでん)」の一節を舞ったくだりがありました。
その優雅な場面も想像されて、まだ少し早い北野の春を先取りです。
まもなく上七軒通りは尽きて、御前通りの北野天満宮東門前に出ました。
この東門(重要文化財)はなかなか立派なものです。
銅板葺き、四脚門。
木鼻は獅子と象。
鬼もいます!
屋根には梅花の瓦押えが置かれています。
東門を潜ると本殿の「石の間」に向かうかっこうになります。
ここから見る本殿も優美な佇まいです。
まずは正面にまわり参拝します。
東門を入ったあたりに戻ってすこしご紹介しますと、本殿後ろに朱塗りの地主神社が見えます。
ご祭神は天神地祇(てんしんちぎ)。
天満宮第一の摂社。道真公以前から祀られていた記録があり、北野の地に元からあった地主神。
じつはここは大変重要なお社で、現在の北野天満宮の正門は、道真公を祀る本殿ではなく、このお社に向かって建てられているのです。
手水舎の奥に竈(かまど)社や茶席・明月舎があります。
竈社の前には見事な老木が。
ここは長五郎餅の出店。
毎月25日や不定期にここで長五郎餅が販売されます。
(長五郎餅本店は一条七本松西)
長五郎餅はやはり天正十五年の北野大茶会の折、秀吉に好まれてその名をもらったというお菓子。餅皮に餡を包んだ門前菓子の一つです。
梅もちらほら咲き初めています。
さて、天神さんを出たら、いよいよ「天神堂」に立ち寄りましょう!
これも門前菓子の「やきもち」を求めます。
今日の目的の一つかもしれません(笑)。
堤講師の大好物…。
お餅と餡のこうばしさが素晴らしいのですが、このおいしさはとても言葉ではお伝えしきれません。
天神堂の前の東向き一方通行の道は五辻(いつつじ)通り。
東へ向かいます。
五辻通りは東へ行くと千本釈迦堂へつづく参詣道になります。
こちらの「京絹巻(きょうきぬまき)」を井上由理子先生から教えていただいたのは何年前でしょうか。まだ最近のことです。
「京絹巻」は西陣織の「杼(ひ)」の中の木管をかたどったという煎餅(右)。糸巻の感じが出ていますね。
写真で下におかれているのが経糸(たていと)の間に緯
(よこ)糸を通す道具である杼。
舟形で,中央に緯糸を巻いた木管をおさめています。
左右に走行させて織っていきます。
京絹巻はいただくと胡麻の香りが口いっぱいにひろがり、ポリポリとあっという間に食べきってしまいます。
なかの芯は砂糖と水飴で作られていて、一つ一つを手焼きの煎餅で巻いています。
ご主人いわく機械でなく手で巻かないと風味が壊れるのだとか。
こちらのお店、大正10年の創業だそうですから、90年ほどになります!
素朴で、飽きない味と形。手作りの温かみ。ずっと作り続けてほしいお菓子です。
京絹巻のほかにも白みそ風味や赤みそ風味の松風など。
午後三時を回った頃。下校途中の小学生が店先を覗いていきました。おやつの時間です。
七本松通と五辻通りの交差点。いま歩いて来た五辻通りを振り返って。
この辺りは西陣のエリアで、西陣織にかかわる、いわゆる「糸偏(いとへん)」の仕事をしておられる所がたくさんあります。
西陣織の帯の織元「丸勇」さんを訪ねました。
こちらでは「唐織(からおり)」を主に織っておられます。
唐織は能装束などでよくご存じと思いますが、太い染糸を使って刺繍のように模様を織りだす複雑な技法で、西陣織の技術の高さを天下にとどろかす基となったものです。
唐織―
『西陣天狗筆記』と『雍州府誌』によれば、弘治年間に大舎人座(おおとねりざ)の座人であった紋屋・井関(いせき)七右衛門宗鱗が工夫を凝らして紋織法を創出し、
慶長頃に、同じく大舎人座の蓮池(はすいけ)宗和に伝え、蓮池宗和がさらにその技術を発展させ、蜀紅錦に倣った五色糸の紋織模様の唐織を完成させたとされます。
井関家―
井関七右衛門宗鱗の時代より織物司としての優れた家柄で知られています。
宗鱗より数え八代目にあたる井関頼母氏は、伝来の紋織物を伝授して<紋屋号>を称え、格式の高い六人衆の筆頭として内蔵寮の織物司に補せられていました。
昨秋、紫野案内で「紋屋の辻子(大宮通り五辻上ル西入)」を訪ねましたね。
天正十五年に、井関宗麟が、袋小路となっていた土地の家屋敷を買い取り、行き抜けにしました。それが現在の五辻通りです。この通りには、現在も、井関の屋号にちなみ、紋屋の辻子と呼ばれる有名な辻子があります。
蓮池宗和―
その屋号は「俵屋」。画家の俵屋宗達の出自を織屋であるとする説もあるそうですが、もしそうであればこの俵屋蓮池こそ宗達の生家であるかもしれないのです。
無名であった宗達は本阿弥光悦に見いだされ、光悦と組んで素晴らしい芸術を生み出してゆきますが、光悦の屋敷跡が西陣(白峯神宮の東側)にあり、宗達も西陣織にかかわる家の出自であれば、二人の出会いは自然なことであったかもしれません。
唐織の織機について―
紋織に用いられる織機を高機(たかばた)といいますが、この高機が戦国時代の末期ころに開発され、それまでの平織りしかできなかった「いざり機」から代わって、初めて日本にも精巧な紋織ができるようになったのだそうです。
さて、今一度、百一色の糸を使った帯をごらんください。
ぷっくり膨らんだ唐織の風合いがおわかりいただけるでしょうか。
どれだけの手間がかかっているのか想像もつきません。
部分でしかご覧いただけませんが、帯一本がまるで美術品のように思われます。
でもこれらは普通に市場に出されてゆくものです。
おめでたい宝尽しも地色によって印象が変わります。
カタログには百一種の糸の色が描かれています。
七宝つなぎの中はなんと百八種の花が織り出されています。
礼装用の帯。金糸がたくさん!
著名な伝来の小袖から紋様の意匠を選び配置して織られています。
どれも古典柄のなかに現代的なセンスを取り込み、京都らしい雅びやかさ、品格が感じられます。色あいもはんなりしています。
唐織の糸。微妙に異なる色の多さに驚きです。
糸を染めるところから始まる先染めの西陣織。
ものすごくたくさんの工程を、折に触れ、少しずつ学んでいきたいと思いました。
さて、七本松通りを渡り、五辻通りを千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)まで行きましょう。
といってももう目と鼻の先です。
このお店・VERTIGOは「わっ!フル」がおいしいです!
この道は参詣道。
いまは生活道路となっていますが、応仁の乱の西軍の大将、山名宗全も通ったであろう道です。
大報恩寺(千本釈迦堂)に着きました。
1227年の創建時そのままの姿で建つ本堂。
京都市内最古の木造建築。国宝。
ご本尊も創建当初からのもので、本尊と本堂がともに同じ場所で祀られている唯一の例だそうです。
本堂外陣の柱には応仁の乱の槍、矢、刀傷の跡があり、残っているのが奇跡のような。
信仰の寺なのですね。
枡組の斗栱(ときょう)を施すことで重量を四方に逃す方法。
本堂造営のさい、かけがえのない柱を切り落としてしまった棟梁に「枡組」を施すよう進言をして無事完成した、内助の功の「おかめ」さんにも会えました。
枡組をささげ持っておられます。
ふくよかなお顔にほっこりです。
さて1キロメートルも歩いたでしょうか。
堤先生には天神堂の「やきもち」を始め(大笑)、たくさんのご教示をいただき、
こんなに短い距離なのに、びっくり箱のようにたくさんのものに出会え、楽しい散策でした。
今日はここをゴールといたしましょう。
また一日春に近づきますように。それではまた。
千本釈迦堂宝蔵館前のクロガネモチの大木