10月1日、「紫野・西陣散歩」を行いました。
昨日の雨はやみ、風はまだ強かったのですが、どうやら晴れて散歩日和となりました。
今日の資料は堤先生が準備してくださったものです。
皆さんにちゃんとお伝えできますかどうか不安ですが…。
まずは大徳寺前の雲林院境内で、今日のルートの略図を見ながら、紫野、船岡山について簡単にお話しました。
紫野とは─
洛北七野の一つ。船岡山から大徳寺周辺一帯を指します。
延暦14年(795)10月、桓武天皇がはじめて紫野で狩猟を行われて以来、天皇の遊猟地となり、やがてこの地に離宮・紫野院を構えられたのが淳和天皇。
そして堤講師より、この紫野こそが「山紫水明」の原点であるとご教示いただきました。
「山」は比叡山、その比叡山が紫色に見える所がこの紫野であると。淳和院はこの聖なる山を仰ぎ見つつ、この紫野で遊興に過ごされたのだそうです。
写真は船岡山の公園から望む比叡山です。
船岡山(ふなおかやま)─
紫野の広野(こうや)に横たわる高さ112メートルの丘陵。いまでは想像もつかないことですが、山の東麓には大池があり、山の東端が岬のように池中に突き出し、あたかも海に浮かぶ大船のようであったことから船岡山と名付けられました。
山の東端は、岬をあらわす唐崎の転訛から「からすき」、また鼻は端をあらわすとし、古来「唐鋤鼻(からすきのはな)」と呼ばれたそうです。
淳和天皇の紫野院はこの船岡山の東の池を景として取り入れたものでした。
ちなみに昭和初期まで「六兵衛池」と称する古池が残っていたそうです。
なにより今日の案内で忘れてはならないことは、この船岡山には玄武大神が祀られており、平安京造営にあたり、起点とされたということです。
雲林院についてはブログ「紫野で」をご参照ください。
ここで、時代は飛んで中世へ。
弁慶の腰掛け石、常盤井、若宮八幡宮を訪ねます。
若宮八幡宮は、土蜘蛛退治の話で知られる源頼光の屋敷址と伝わります。源頼光は日本における武士の祖とされる多田満仲(ただのみつなか)の子。それゆえここが源氏ゆかりの地とされ、清和源氏の祖である清和天皇を祀り、源氏の棟梁となった源義経の故地とされ、その母常盤御前の伝承地ともなったものと思われます。
若宮八幡宮 外観
常盤は近衛天皇の雑仕女を決める際、全国から選ばれた美女千人の中からさらに選ばれた美女。古来この地に住んだという伝承があり、付近には写真の常盤井や常盤地蔵、あるいは牛若井や牛若町など常盤や義経ゆかりの遺物が残っています。
常盤井
とくに牛若丸と弁慶が出会った五条の橋は「御所の橋=護浄の橋」という説があり、この御所は淳和天皇の離宮であった紫野院であり、その橋こそ現在の大徳寺東南角にあったとされ、鞍馬山で修行した牛若丸は、山を降りたとき、母に会うためこの地を訪れ、ここで弁慶と出会ったといいます。このとき橋を渡る牛若を、腰かけて待っていたのが弁慶腰掛けの石というわけです。
太古の昔ここが海の底であったことが知られます。
現在は惟喬親王(これたかしんのう)を祀っています。
しかし、もともとは王城鎮護の北の守り神・玄武大神を祀ったもの。玄武神社の鳥居は南に、つまり御所に向いています。船岡山にやはり南向きに祀られている船岡妙見社こそ、この玄武大神の原形なのですね。堤先生からでなければ教われなかった貴重なお話です。
かつて行われていた紫野御霊会は、ここで現在四月に行われている「やすらい祭」へとつながっています。
この近くにある、小野篁と紫式部の墓所について─。
惟喬親王はのちに洛北大原の里・小野に隠棲されたと伝わりますが、その地は近江の小野へと続く小野氏本貫の地でありました。京都には小野という地名が他にもあり、雲ヶ畑や大森などに惟喬親王の伝承が残っています。
小野宮と称されたという惟喬親王を祀るこの玄武神社の近くに小野篁の墓があることもやはり関わりのあることであろうと先生はおっしゃっていました。
惟喬親王に仕えたのが後世、僧正遍照ら六歌仙と呼ばれる人々。惟喬親王の無念をおさめるために歌仙として祀られた人々です。そのなかには小野篁の子孫の小野小町や在原業平も名を連ねています。
紫式部のお墓の横に小野篁のお墓が祀られている理由については皆さんよくご存じでしたが、南北朝時代に著された源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」巻一によれば、「式部の墓所は雲林院の白毫院(びゃくごういん)の南にあり。小野篁の墓の西なり」(原漢文)とあって、比較的古くからの言い伝えであったようです。
各地に伝承が残り、多くの人々に慕われたという悲劇の惟喬親王─。
いずれ堤先生にぜひ惟喬親王についてお話をしていただきたいと思います。
玄武神社をあとに、大宮通りを南へ下がります。
安居院(あぐい)西法寺です。
安居院(あぐい)はこの付近一帯の呼び名、現在も残っています。
この寺に伝わるのが、人々を惑わす物語を書いた罪で地獄に堕ちた紫式部を供養するための文章「源氏物語表白(ひょうびゃく)」。安居院法印聖覚(あぐいほういんせいがく)の作になるもので、式部供養の詞が述べられています。やはり、この近くに式部の墓所があるゆえに伝えられたもののようです。
廬山寺通り、鉾参通りを過ぎて、寺之内通りの西陣織工芸美術館「松翠閣」にやってきました。
松翠閣 外観
ここは西陣織の技術を駆使して織られた作品が展示されている美術館。素晴らしいの一言です!
とくに畜光糸(ちっこうし)という特殊な糸で織られた作品は、照明によって不思議な見え方をします。ぜひ一度ごらんください。
松翠閣で超ゴージャスなものの数々を見て息抜きです。とってもいい気分になりました(笑)。
ここで寺之内通りについて少し─
豊臣秀吉は天正18、19の両年、強権を発動して散在する寺院を洛中市街地からことごとく立ち退かせ、東京極通の東側と安居院の一帯に集めました。東京極通にできた寺院街が寺町で、安居院の寺院街が寺之内。
一般町衆の強い信仰があった浄土宗寺院や時宗寺院を寺町に、商売を行っていた商人たちに圧倒的信仰を集めていた法華宗寺院を安居院の寺之内に集めたのです。
現在も寺之内地区には妙顕寺、妙覚寺をはじめ、本法寺、妙蓮寺、本隆寺など日蓮宗16本山の約半数がこの地区にあります。本阿弥光悦や長谷川等伯など名だたる芸術家もみな日蓮宗に帰依していました。
さて、寺之内通りを東に、妙蓮寺にやってきました。
妙蓮寺は、永仁2年(1294)年、造り酒屋の柳屋仲興(やなぎやなかおき)が日像上人に帰依して自邸を寺に改め、柳寺と称したのが始まりとされる日蓮宗の本山。
山号を卯木山(ぼうもくさん・うぼくさん)。柳の文字を木と卯に分解しての命名です。
仲興氏は京都の土蔵や酒屋といった富裕層のなかでも有数のお金持ち。当時、銘酒「柳酒」は京都一と言われました。
門をくぐると美しい袴腰の鐘楼。芙蓉の花が咲いていてきれいです!
宗祖の命日にあたる法会を御会式(おえしき)と言いますが、その日蓮上人の命日10月13日頃から咲き始める不思議な御会式桜、室町時代から知られた妙蓮寺椿などをご紹介します。
妙蓮寺向かいの灰屋の図子へ。この中に足抜き地蔵が祀られています。
灰屋図子は灰屋紹益を代表とする灰屋一族が住まいしたところ。
そこに現在も鎮座する地蔵が「足抜き地蔵」。
この地蔵はもと島原の大門脇に鎮座し、島原から足抜けしようとする女郎たちを必ず足止めするとして「足止め地蔵」と呼ばれていましたが、西陣織の若い職人と恋に落ちた女郎が、この地蔵さえいなければ逃げることができるかもしれないと、ある日この地蔵を背負って大門をくぐり、逃げ出し、ここで急に重くなり、重さに耐えられなくなって地蔵を降ろしたのがこの灰屋図子。めでたく恋しい職人と出会い、幸せに添い遂げることができたといいます。以後、この地蔵は「足抜き地蔵」と呼ばれています。
さて、大宮通りにもどり、南へ。
紋屋図子(もんやのずし)にやってきました。
智恵光院通から入って行き止まりとなっていたのを、天正十五年(1587)、この図子に住んだ御寮織物司の井関七右衛門宗鱗が私財をもって図子の東を塞いでいた家屋を買い取り、大宮通まで行き抜けにしました。
以来この功績を称えて井関宗鱗の屋号「紋屋」の名をとって「紋屋図子」と改称されました。
徳川五代将軍綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の生家と伝わる家を通り、
いよいよ観世水(かんぜみず)まで来ました。
現・西陣中央小学校の敷地の隅に飛び地として残るのが観世稲荷と観世井です。
ここは能楽宗家の観世家が足利義満から拝領した屋敷地でしたが、西陣焼けのあと稲荷社と井戸だけが残されました。
観世水の井戸は名水としても知られましたが、地下水の合流点であったために井戸の底にはいつも渦が巻いていたことから、この波紋を観世水といい、能楽観世流の紋様となりました。
井戸は格子で見られなくなっていますが稲荷は見ることができました。
これで今日の紫野・西陣散歩は無事終了となりました。
時間をだいぶオーバーしてしまいました。
伝承のとおりに姿をとどめるものは少なくても、地名や町名にその名を残されて歴史の片鱗を垣間見ることができたものはたくさんありました。
歩いてみると、知識が体験となってくれるのですね。その場に立つことの大切さを学びました。
爽やかな風とともに空はすっかり秋の空になっています。
ご案内を終えて─
ご参加いただいた皆さま、お越しいただき本当に有難うございました。
不十分な点が多々ありましたこと、なにとぞご容赦ください。
また天候による日程の変更で、今回ご参加いただけなかった方々に深くお詫び申し上げます。
最後に、貴重な資料を提供くださり、さまざまの御教示をいただきました堤先生、有難うございました!
京都・清遊の会 主宰 中川祐子