ことしの夏はことのほか猛暑続きですが、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
大文字送り火の16日、左京区松ヶ崎の涌泉寺(ゆうせんじ)を訪ねました。
地下鉄「松ヶ崎」駅から東に向かい北山通りを北へ。
旧道を越えて松ヶ崎小学校脇の道を登りますと、涌泉寺の山門が見えてきます。
お盆の15日と16日、ここで「題目踊り」と「さし踊り」が行われます。
松ヶ崎のこの辺りには鎌倉時代、比叡山三千坊のひとつ、歓喜寺という寺がありました。
永仁二年(1294)、日蓮上人の孫弟子・日像(にちぞう)が寺を訪れ、法華経の説法を行ったところ、住職の実眼和尚が説法に感激し、和尚以下、全村民が日蓮宗に宗旨替え、寺の名前も「妙泉寺」と改められたのだそうです。
現在の涌泉寺は、この妙泉寺と、近くにあった本涌寺とを引き継ぎ、松ヶ崎一帯の人々の信仰を集めてきた寺。
お盆に行われる「題目踊り」は、このとき村民が法華改宗を喜び、題目を唱え踊ったことから始まったと伝えられています。
本涌寺で行われていた題目踊り
山門脇には、「法華宗根本学室」などの石碑があり、寺の前身であった本涌寺が、京都六檀林の一つ「松ヶ崎檀林」であったことを示しています。檀林は日蓮宗の学問所のことです。
その学問所の建物は、現在、本堂として使われています。
日が暮れて、午後8時すぎ、松ヶ崎地区では「妙」「法」の送り火が灯りました。
今年は「法」の近くで見ましたので、こんなふうに写りました(笑)
送り火が消えたあと、時間を見計らい涌泉寺へ。
がらんとして静かだった昼間の境内とはうって変わって、提灯に灯が燈り太鼓が設えられ、揃いの浴衣を着た人達が準備をされています。
松ヶ崎立正会の方々が送り火の点火を担い、後片付けのあと山を降り、浴衣に着替えてこの「題目踊り」を踊るのだそうです。
見物の人は本堂に上がったり、周囲で遠巻きにして待っておられます。
準備がととのい、いよいよ始まりました。
太鼓の両側に、男性組と女性組が距離をおいて向かい合って立ち、太鼓とともにお題目を掛け合い唄われます。
「南無妙法蓮華経…」
優雅でありながら、どこか哀調を帯びた節回し。聞いているうち一緒に口ずさんでしまうようなゆったりとしたテンポ。
女性方に近いほうにいましたので、唄がよく聞こえ心地良さに引きこまれました。
踊りは、調子に合わせて膝の上で扇を裏に表に打ち返し踊ります。
題目踊りは、盆踊りの原形とも、また一方で「見る」というより「聞く」盆踊りとも言われるそうです。
ですが、ご覧ください。
皆さんの浴衣姿の美しいこと!
前見頃は「松ヶ崎」からでしょうか、松の意匠。
後ろ上半身は「妙法」の送り火を忠実に描いて、裾は斜めに松林と「すやり霞」のようなデザインになっています。
鄙びた盆踊りとばかり思っていましたのに、洒落た揃いの浴衣で踊っているのですね!
女性は三幅前垂れに、踊り手は茜襷を掛け、草履の鼻緒も朱色です。
紺と白の浴衣に朱が映えます。
踊りにあわせて浴衣の模様は表情をつくり、「妙法」と書かれた扇をうち返すとき、扇の水色がちらちらと揺らめきます。
地味な動きの踊りは浴衣と扇によって洗練された美しさを醸し出していました。
境内全体、踊りの輪と見る人の調和とでもいいましょうか、不思議な一体感…
小さな子達も輪の中にいて一生懸命踊っています。
いま踊っている方々の踊りは信仰の歴史を忘れないためと、そしてやはり先祖を送る踊りなのでしょう。受け継がれてきたものを伝え続ける人々の誇りも伝わってきます。
「像師報恩」の提灯。
そして中心にある大きな提灯には「後水尾天皇」の文字。松ヶ崎の題目踊りは、かつて後水尾上皇の台覧に供したと伝わるものです。
時間はあっという間に経ち、気がつくと、「題目踊り」から誰もが参加できる「さし踊り」に変わっていました。
大きな掛け声もなく、派手なパフォーマンスもなく、息がぴったりにすっと始まって、静かに終わる素朴な踊り。
松ヶ崎の題目踊りはしみじみとして心に残り、この夏に出かけたいくつかの行事、あれもこれもと思ううち、やはりこの踊りをお伝えしたいと思いました。
まだ暑さは残るけれども地蔵盆が過ぎれば秋の気配。
そろそろと行く夏を送るときが来たようです。