清遊ブログ  岡崎にて 六勝寺のことなど

今日は左京区岡崎にやってきました。
来月の節分案内の下見を兼ねて、細見美術館で展観中の「三井家と象彦漆器―華麗なる京蒔絵」展を見る目的もありました。
昨年には東京日本橋の三井記念美術館でこの展示をご覧になった方も多いのではないでしょうか。
三井家とその愛顧を受けて象彦が創り出した京蒔絵の数々は素晴らしく、近代京都の漆芸を見る絶好の機会といえそうです。


さて、細見美術館は東山二条から二条通りを東へ、ちょうど琵琶湖疏水と交差する北西角にあります。
屋上というのでしょうか、階上のお茶室の前からは辺り一帯が見渡せます。

二条通りを東に向かって眺めると、左手は京都会館。右手は手前から京都市勧業館、その向こうは京都府立図書館、そしてその向こうにわずかに市立美術館の屋根が見えます。
東山の連なりが屏風のように正面に見えています。
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岡崎と呼ばれるこの辺り一帯は、明治28年の内国勧業博覧会の敷地跡に整備されて以来、今や文化・芸術・音楽などの施設が集合した京都の文化的ゾーンとなっていますが、
もとは藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)の別業の地であったところです。
「白河」と呼ばれ、院政期において白河上皇の離宮・白河殿、得長寿院、またその東南は法勝寺を始め「勝」のついた6つの寺院・六勝寺などが建立された土地でありました。

堤先生からご教示を受けたことなどたどりつつお話をしてまいります。


六勝寺

平安時代末期、藤原師実(もろざね)からこの地を献上された白河天皇は法勝寺を創建。
そして堀河天皇御願の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、鳥羽天皇中宮待賢門院璋子(たまこ)の円勝寺など六つの寺院が次々に創建されました。


──見渡してみますと、
この二条通り=二条大路は平安京において京都のメインストリートでした。
二条大路は上京と下京を分ける分岐でもあり、内裏を中心とした公家の屋敷が並んでいたといいます。
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──南側のこの一角は六勝寺のうち、最後6番目に営まれた近衛天皇の御願になる延勝寺があった辺りです。
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近衛天皇(第76代天皇)──
鳥羽天皇の第九皇子で、美福門院得子との間に生まれ幼名を体仁(なりひと)。
父である鳥羽天皇に寵愛されていたため、鳥羽は崇徳天皇を譲位させ、代わって二歳の体仁を即位させたが、生来病弱で、15歳の時には失明の危機に陥り、退位の意思を摂政である藤原忠通に告げたが慰留、しかし17歳で崩御。
近衛天皇には子がなく、鳥羽法皇が没すると崇徳院(すとくいん)側と後白河天皇側が帝位を巡って対立し、これが保元の乱の原因となりました。
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──写真右端のほう、見えづらいですが、二条通りが東大路通りと交差するところ(東山二条)、その東大路通り西側は、平清盛の父、平忠盛が備前守のとき鳥羽院に得長寿院を造営寄進し、三十三間のお堂に千躰仏を奉ったところです。
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このことで忠盛は昇殿を許され殿上人となり、やがてそれを憎んだ公卿たちが闇討ちを企てます。有名な『平家物語』「殿上の闇討ち」のお話です。
清盛が後白河天皇に造営したのが今の蓮華王院(三十三間堂)ですが、清盛より早く忠盛が三十三間堂を建てていたのですね。
南北に細長いこの得長寿院は残念ながら元暦2年(1185)の地震で倒壊しました。


そして得長寿院の向こう、西側に白河院の院御所・白河殿の南殿、北方には白河北殿がありました。
この白河北殿はのちに保元の乱のさい、崇徳院側の拠点となってゆくのですが…。
地図でおおよその寺域を囲みましたので、ご覧ください。
お見づらい点ご容赦ください。
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──さて、もとに戻って、写真左手、北側は京都会館の屋根が見えていますが、そのまた北側には堀河天皇の御願になる尊勝寺がありました。
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現在の旧武徳殿や京都市武道センター、平安神宮の一部の敷地がそうです。
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旧武徳殿は、桓武天皇が武技を奨励するために東西に置いた武徳殿に由来し、
明治32年、平安建都千百年記念事業として建てられました。
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重要文化財。堂々たる建築ですね。
尊勝寺は法勝寺の次、二番目に建てられました。

──さて、それではいよいよ二条通りを東へ進んでみましょう。

勧業館を過ぎて、右手(南側)が京都府立図書館。
ここは崇徳天皇の御願になる成勝寺があったところ。
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            京都の産業の近代化に貢献したドイツ人、
            ワグネルの記念碑が建っています。


六勝寺は結果的には衰退、廃寺となりますが、この崇徳院の成勝寺は最後まで残っていたそうです。

──神宮道をわたると右側は市立美術館。
ここは鳥羽天皇中宮待賢門院璋子の円勝寺があったところ。
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そして左側(北側)は岡崎公園グラウンド。
ここは鳥羽天皇の御願による最勝寺のあったところとされています。
向こうに平安神宮が見えています。
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夫婦の御願寺が一応、向かい合って建っていました…。


鳥羽天皇(第74代天皇)──
堀河天皇と藤原い(草冠+以)子との間に生まれる。
生後まもなく母・い子が没し、祖父である白河天皇に引き取られ養育された。
父である堀河天皇崩御後、五歳で即位したが、政務は白河法皇が院政を行った。
白河天皇の養女である待賢門院璋子を中宮とし、璋子との間に出来た第一皇子・顕仁親王に譲位した。これが第75代崇徳天皇。
しかし、崇徳は実際には白河天皇と璋子との間にできた子で、鳥羽はそのことをうすうす知り、崇徳のことを「叔父子(おじご)」と呼んで疎んじた。
璋子は後宮のみならず朝政にも権力を持ったが、白河法皇没後後ろ盾を失い、鳥羽は退位後に入内させた藤原得子を寵愛し、得子は呪詛事件を理由に璋子の実権を奪い、美福門院として璋子に代わり絶大な権力を握ることになる。
鳥羽天皇は寵愛する得子との間に生まれた体仁(なりひと)親王を即位させるため崇徳天皇に譲位させた。これが第76代近衛天皇。

まさに不穏な様相を呈しています…。


法勝寺

──右手に動物園の看板が見えてきました。
しかし…二条大路はここで終わりです。
(今は道路が続いていますが。)
信号のあるところが突き当たり。
ここからが法勝寺です!


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これこそが平安末期に君臨し、院政を執り、その権力を誇った白河天皇の御願寺。
白河天皇が六勝寺のうち第1番目に創建した最初で最大の寺。
右手前方にはかの八角九重の塔がそびえ、威容を誇っていたことでしょう。

六勝寺の構想を仕組んだともいえる人物、白河天皇の法勝寺とはどんな寺だったのでしょう。

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                   法勝寺模型(京都アスニー)

南に回って、南大門を入ると池の中島の中央、真正面に高さ82メートルともいわれる八角九重の大塔がそびえ、
その向こうには金堂、講堂、薬師堂が南北一直線上に並び、西側に阿弥陀堂、その向こうに五大堂。北に法華堂があります。
金堂からは翼廊をめぐらし、経蔵と鐘楼につながり、前は南庭(だんてい)となっています。
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金堂の本尊は3丈2尺という毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。
講堂には釈迦如来像。阿弥陀堂に丈六の九体の阿弥陀如来像。五大堂には不動明王。

白河天皇の造仏は大きさ、種類、数において並はずれていたそうで、
法勝寺と尊勝寺の造仏を、のちに最勝寺となる白河仏所で行っていたのだそうです。

毘盧遮那仏を安置する金堂は奈良仏教を、五大堂は平安の密教を、阿弥陀堂は浄土信仰をうけついだもの。
法勝寺はそれまでの仏教を総合した寺ということになります。
のちに慈円が『愚管抄』で「国王の氏寺」と称したとおりです。


白河天皇(第71代天皇)──
後三条天皇の第一皇子。
白河天皇は中宮賢子を溺愛し、賢子が重態となっても慣例に反して宮中からの退出を許さず、没すると亡骸を抱いて号泣し、食事も摂らなかった。
そのため権中納言源俊明が天皇は死穢に触れてはいけないと進言すると、「(宮中の前)例はこれから始まる」と言い放った逸話は有名。
賢子は摂政藤原師実の養子。白河天皇が即位三年目に建立を始める法勝寺の地は先述のとおり師実から献上されたもの。
祇園女御という妾を寵愛。さらに祇園女御の妹も愛し、この妹はのちに平忠盛の妻となるが、すでに白河院の子を宿しており、これが清盛という通説が生まれた。

──法勝寺の寺域をどんどん進みます。
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白河院の看板が。
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ここは名前も白河院という宿泊施設ですが、この庭園が法勝寺の釣殿あたりになりそうです。
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法勝寺のみでも広大な寺域ということがよくわかりました。
六勝寺となるとほんとうにその規模の凄さに驚いてしまいます。


法勝寺の「法」とは仏の教え。現世のしがらみに勝って、来世の成仏を願う意ゆえ。
また、「法」は「水(サンズイ)」を「去る」の意。鴨川や白河の近くゆえに、水害に遭わないようにと。


白河の地は平安末期に君臨した白河院が、みずからの後生と一族の菩提を弔い、また皇統の弥栄を願ってつくったまさに宗教王国、仏国土でありました。
内裏では政治に現世への執着を、白河の地では仏に来世への願いをこめ、鴨川を挟んで洛中と洛外、西と東に白河院の政治的、宗教的…野望、おん念が渦巻いていたといえましょうか。


昼と夜の両方で政治を牛耳ろうとした白河院が、自らが集めた権力と財力の限りを使って、自分の、そして自分たちの一族のためだけの来世での繁栄を願って建てたこの仏国土は、やがてはそのあまりにもさもしい心根のために一炊の夢と消えたのです。

そして、まもなく襲ってくる時代…
戦乱の都

保元元年(1156)、京都を戦乱の渦に巻き込んだ「保元の乱」、それに続く「平治の乱」、時代は「武者の世」へと変貌してゆきます。

崇徳天皇(第75代天皇)──
鳥羽天皇と待賢門院璋子との間に生まれた鳥羽天皇の第一皇子。実際には白河天皇と璋子との間に生まれた子。
そのため父の鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、崇徳の次の天皇に鳥羽と美福門院得子との間に生まれた体仁親王(=近衛天皇)を立てることを強要。
自分の子供のままでは皇子・重仁を即位させることはできないと感じた崇徳天皇は重仁を得子のもとに養子にいれ、養育させる。
これで近衛の次の天皇は自分の子である重仁となると思っていた崇徳天皇であったが、近衛天皇が死去すると、宮中では崇徳天皇が藤原頼長と結んで近衛天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに不快感を示した鳥羽上皇は重仁の即位を取りやめ、崇徳の弟である雅仁(まさひと)親王を即位させた。これが後白河天皇。
この後白河天皇の即位、そして院政を敷くこともできなくなった崇徳院を強く恨ませ、保元の乱へと突き進んでいくことになります。


鳥羽上皇が亡くなるや、この皇位継承争いは摂関家内部の争いを巻き込んで、武士の手を借り、白河北殿に立てこもる崇徳側と高松殿を陣所とする後白河側との戦いとなりました。
鴨川を挟んで、京の市街ははじめて戦さに巻き込まれたのです。
勝負は後白河側の勝利。
崇徳は讃岐に流され、かの地で亡くなります。

みずから舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」としたためた話は崇徳院が怨霊と化してゆく話として知られています。
以後、恨みをのんで亡くなった崇徳院は怨霊と怖れられ、明治天皇は1868年に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、その御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建しました。
そしてようやく明治と改元されたのでした。

後白河天皇の御所・高松殿跡は中京区姉小路釜座東入ル。
いま高松神明神社としてその名を伝えています。

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崇徳院の立てこもったという白河北殿跡は石碑が寂しく建っているのみです。
京都大学医学部付属病院の南側に位置します。
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この一角はずいぶん以前からこのように空地のような寂しいところです。黙して語らずのごとく…。
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おわりに


このブログを書くにあたり、堤先生からさまざまのご教示をいただきましたが、最後に先生のおっしゃったことが響きます。


「どんなに立派な建物であっても、私利私欲の気持ちが入って建てられた建物は今残っていません。自然にしろ、火災にしろ、破却されたにしろすべて失せてしまっています。しかし、私利私欲がなく万民のために建てられたものは残り、その役割を伝えてくれている」と。


このブログでお伝えした往時の建物は今は何一つ残っていません。
その地を歩き、その地が語ってくれる、その声を聴きとるしか過去の歴史を偲ぶことはできません。

明治28年、平安建都千百年を記念して、この地に京都の精神的支柱というべき平安神宮が創建され、さらに武徳殿、図書館、美術館などが次々に建てられました。
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まさに万民のために建てられ、近代の文武両道を目指した施設の数々。これらは必ずや後世に引き継がれていくのでしょう。


武徳殿の正門東側の植え込みに鈴鹿野風呂の句碑があります。
 
 風薫る左文右武の学舎跡


この白河の歴史もまたこの地が語る声を聴いていただけたなら幸いです。






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