清遊ブログ 宮島紀行

ようやく桜の便りが聞かれる頃となりました。
京の遅い春を待ちかねて、でもないのですが、瀬戸内、安芸の宮島へでかけました。
宮島は日本三景の一つ。
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島には平清盛と平家一門の崇敬をうけた厳島神社があり、清盛が納めた「平家納経」でも知られています。

広島から宮島口まで移動し、宮島口からフェリーで宮島へ。
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                        宮島口の蘭陵王像

快晴。暖かい風に吹かれ船上は快適です。

ほどなく大鳥居とそして背後に山々が見えてきました。
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この姿、観音様の横顔に見えるのです。
左から額、くぼんだ所が目、そして鼻…。おわかりいただけたでしょうか?
堤先生に教えていただいた折りにはよくわからず出かけたのですが、帰って写真を見て理解できました(笑)
湾の入り江にそびえる朱塗りの大鳥居、その奥に海にうかぶ朱色の社殿が見えてきました。
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厳島は、「神を斎(いつ)きまつる島」として「厳島」と呼ばれるようになったといいます。
古くから島そのものが神聖化されてきました。
島の最高峰である弥山(みせん)は標高530m。
弘法大師が開いたと伝承のある山岳信仰の霊地で、原生林におおわれ、弥山本堂三鬼堂(さんきどう)のほか御山(みやま)神社大日堂などが建っています。

厳島神社は、広島湾の入り口にうかぶ宮島(厳島)の海岸に建ち、平安時代の寝殿造りを神社に取り入れた建築美で知られ、古来、安芸の国一宮として尊崇されてきました。
創建は推古元年(593)、佐伯鞍職(さえきくらもと)によると伝わりますが、平安末期の久安2年(1146)、清盛が安芸の守に任ぜられ、平家一門の崇敬が始まって以来、現在のような壮麗な社殿が営まれるようになりました。
御祭神は宗像三女神(むなかたさんじょしん)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)。

天照大神と須佐之男命の誓約(うけひ)の際に誕生した神々。
宗像三女神は海上交通を司る海の神々として信仰されてきました。
また御祭神のうち市杵島姫命はいつしか弁財天と習合し、日本三弁天の一つと称されるようになりました。

さて、大鳥居です。
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宮島のシンボルで、両部鳥居と呼ばれる独特の姿。
写真は満潮から1時間ほど経った頃の姿です。

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現在の「伊都岐島神社」の扁額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の御染筆。
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海側の扁額は「厳嶋神社」。

参詣の人々で賑わっている様子が見えます。
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船を降り海岸を歩きます。
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空も海も澄んで美しい景色です。

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 二位殿灯籠 壇ノ浦の合戦で、安徳天皇とともに入水した
平清盛の妻、時子の供養のため建てられた灯籠。

いよいよ厳島神社へ。
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東廻廊(国宝)を進みます。
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蟇股(かえるまた)にも古様を感じつつ…

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まずは摂社の客(まろうど)神社。
「まろうど」とは…海を越えて寄りくる神。
講座で先生から教わったばかりです。
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正面は祓殿(はらいでん)。その後ろが拝殿、そして本殿となります。
檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が美しいですね。
客社の造りは本社と同様の構成になっています。

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           反対側から見て。両流造りの客神社本殿。

客社は摂社のなかで最も大きく、厳島神社の祭典はすべてここから始まるならわしです。

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                客社の祓殿、拝殿、本殿とも国宝。

御祭神は五柱の男神。やはり天照大神13_R.JPGと須佐之男命の誓約の際、さきの宗像三女神のあとに誕生した神々。
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は天孫ニニギノミコトの父神にあたります。

ちなみに厳島神社の神紋は三つ盛亀甲に剣花菱。出雲大社と同じです…
客神社の背後にみえるのは五重塔

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そして秀吉が建てた大経堂・豊国神社(千畳閣)です。
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秀吉が没したため、完成をみないまま現在に至っています。

五重塔と千畳閣は厳島神社の東の丘に建ち、客神社の借景になっています。

─さて社殿にもどり、

宮島八景のひとつ、鏡の池
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左手の円形のところ。たえず清水が湧き出ています。
回廊の釣灯籠は毛利輝元が寄進したのが始まりだそうです。

朝座屋(あさざや) 神職が参集するところで、朝の祭典の前に使われることが多かったためこの名があります。
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寝殿造りの対屋(たいのや)の特徴を持ちます。
こちら側(東側)は切妻屋根、反対側の屋根は入母屋造りです。
向こうに見えるのは本社本殿の屋根。


桝形(ますがた) 
廻廊と祓殿で囲まれたところ。
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旧暦617日に行われる管絃際には管絃船が楽を奏し、この桝形に入ってくるのだそうです。

卒塔婆石(そとばいし)と康頼(やすより)灯籠

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鹿ヶ谷の謀議により僧俊寛、藤原成経らと喜界ヶ島に流された平康頼が、母をしのんで二首の和歌を千本の卒塔婆に書いて流し、そのなかの一本が流れ着いた石という伝承があります。
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灯籠は許されて都に帰ってきた康頼が御礼のために奉納した灯籠。

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いよいよ本社です。宗像三女神のほかに30柱が相祀されています。
前方の祓殿は、客社と同様、三方に庇をつけた特徴ある建物でその後ろが拝殿です。
拝殿の屋根は入母屋造り。下から見上げると棟が二つ見え、その上を一つの棟で覆っていて、三棟(みつむね)造りというのだそうです。
本殿の屋根は見えにくいのですが、切妻両流造り。檜皮葺に瓦を積んだ化粧棟で寝殿造りの様式を伝えています。 
水平に広がる屋根の姿が優雅です。
高欄で囲まれているのは高舞台(たかぶたい)
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         本社祓殿から高舞台、大鳥居を見たところ。
祓殿は折上げ小組格天井で、
勅使が参詣されるなど特別なときに使われます。

拝殿前の高舞台(国宝)では舞楽が舞われます。
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舞楽は清盛が四天王寺から伝えたといわれ、
陵王・振鉾・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なおこの厳島神社で舞われます。
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見えにくいのですが、平舞台(ひらぶたい)の突き出ているところ、突端が
火焼前(ひたさき)。 ともに国宝です。
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         手前が右楽房。その右にあるのが右門客神社

そして平舞台の前、両側に門客(かどまろうど)神社と楽房があります。

門客神社は門をつかさどる豊磐窓神(とよいわまどのかみ)、櫛磐窓神(くしいわどのかみ)をお祀りします。

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楽房は舞楽のさい雅楽を奏するところ。

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手前が右楽房。 向こう側が左楽房。これらもみな国宝です。

インド・唐から伝わったものを左舞(さまい)といい、左舞を舞うときは左楽房で奏し、   満州・朝鮮半島から伝わったものを右舞(うまい)といい、右楽房で奏するのだそうです。
いつかここで舞楽を見てみたいものです。

天神社(てんじんしゃ)

菅原道真を祀る。古くは連歌堂といい、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていました。
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大国社(だいこくしゃ)
写真がないのですが、本殿の西側にあり、ご祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)が、本社御祭神のうちの田心姫命と結婚していますので、本社に近い場所にお祀りされているということかもしれません。

能舞台
永禄年間に毛利氏によって寄進されました。
日本で唯一、海に浮かぶ能舞台。
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切妻造り。立派な大瓶束(たいへいづか)。


反橋(そりばし) 
別名勅使橋といい、昔、勅使が参拝されるときに渡られたそうです。
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ひとまわり見学し終えました。
向こう岸をぼんやり眺めていると、
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鹿が境内を悠々散歩しています。ここではふつうに見られる光景?


下は、西方の多宝塔の辺りから眺めた神社です。
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まるで模型のように見えますが本物です(笑)。よく見ると手前の
西廻廊側が出口になっています。
ここから出てきたのです。
こちら側はごらんのとおり唐破風屋根です。入口は切妻屋根でした。


海上に浮かぶ鮮やかな朱色、水平に広がる社殿の美しさ、屋根も左右で異なる繊細な造り、取り合いの変化と調和。細やかな美意識が感じられます。
まさに清盛が実現した龍宮城であると先生からお聞きしたとおりです。

清盛が厳島神社を信仰した背景には、清盛が瀬戸内海を中心に勢力をのばしていったことがあげられます。

瀬戸内海は九州と近畿を結ぶ重要な交通路であり、清盛は博多から瀬戸内海をとおって大輪田泊(おおわだのとまり)までを結ぶ日宋貿易のルートをひらきました。
海を基盤として勢力をのばした清盛は、瀬戸内海の守り神としてうやまわれていた厳島神社を平氏一族の守護神としたのです。
清盛は福原に住むようになってより、たびたび千僧供養を行っています。
法華経の読経によって、海神、すなわち龍神が怒り風波が起こらぬよう、海路の安全を守る願いが込められていたのでしょう。

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六波羅蜜寺の清盛像 出家して後の法名は静海。
その信仰の深さは清盛が奉納した「平家納経」(国宝)からも知られます。長寛2年(1164)、清盛と平氏一族が神への感謝と来世の幸福を祈って厳島神社に納めた33巻のお経。
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その奉納内容と過程にはいくつかの疑問が残りますが、金銀をちりばめた料紙に書かれ、美しい絵と相俟って平安時代の美術作品のなかでも最高傑作のひとつとされています。

─大河ドラマではなかなか理解できない清盛像やその信仰について、ぜひとも堤先生の講座で、より深いお話をお聞きしたいと思います─
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     宝物殿
 当の「平家納経」はただいま出張中でした。

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    宝蔵
 宝物館や収蔵庫ができるまでは「平家納経」も
この宝蔵に納められていました。

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  三翁神社(さんのうじんじゃ)
  厳島神社の創建にかかわる佐伯鞍職が祀られています。


厳島神社のすぐ近くに大願寺(だいがんじ)35_R.JPGがあります。

大願寺は真言宗高野山派で、厳島神社の修理造営を司ってきた寺院。
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ここに祀られている弁財天は、江の島、竹生島とならび日本三弁財天の一つです。

一方、明治の神仏分離まで厳島神社の別当職であったのが、
弥山の麓にある真言宗御室派に属する大聖院(だいしょういん)。
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本尊は波切(なみきり)不動明王をお祀りしています。
本堂、魔尼殿(まにでん)をはじめ、随所にみられる彫り物や複雑な建築様式が見られます。
石段を上り、かなりくたびれていたのですが、いちめんに彫刻された玉眼の龍や獅子にゾクッとして目が覚めました。

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  魔尼殿 弥山三鬼神を祀る。圧倒されるような建築です!
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魔尼殿二階から
大聖院から弥山への登山道が見えます。
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さて、大聖院をあとに─

多宝塔
を経て、
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大元(おおもと)公園
へ。

大元神社 本殿は三間社流造り。
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     こけら葺が六枚重三段葺きの日本で唯一の建造物。

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夕暮れ時の静かな公園を散策し、
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清盛神社にお参りし…

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清盛神社 昭和29年に清盛のの遺徳をたたえ建てられた神社


大鳥居を見ると…干潮になっています。
あの大鳥居まで歩いていけるんですね!
たくさんの人がどんどん集まってきます。

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鳥居まで来て社殿が正面に見えると不思議な感じがします。
社殿までも歩いて行けます。
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満潮時とは水深2メートル弱くらいの差でしょうか。
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この大鳥居は島木のなかに石が入れられて重石となっているそうで、自重で立っています。
大鳥居に始まり、大鳥居で終わった一日。

明日はいよいよ弥山に登ります!

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翌日も天候に恵まれました。宮島へわたります。
いよいよ弥山(みせん)へ─
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バスと
ロープウェイで途中の獅子岩駅まで行くことができます。
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いい眺めです。怖いくらい……
獅子岩駅からは歩いて、まず弥山本堂を目指します。
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ところどころで休憩しながら、木の間から見える眺めに励まされつつ…
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本堂に近づくにつれて、巨岩がみられるようになってきます。
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太古の昔、ここが海の底であった証拠だそうです。
弥山本堂に到着です。
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弘法大師が弥山山上で護摩を焚き、百日間の求聞持(ぐ8_R.JPGもんじ)の修法を行ったところと伝わります。本尊は虚空蔵菩薩が祀られています。
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            清盛の三男、宗盛が寄進したという梵鐘。
本堂と向かい合う霊火堂(れいかどう)
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弘法大師が修法された当時から燃え続けているという聖火。その上に大茶釜が懸けられ、釜の湯を飲むと万病にきくといわれています。

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ここは日本で唯一、鬼神を祀るという三鬼堂(さんきどう)。
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主神は追帳鬼神(ついちょうきじん)で知恵の徳を司り、他は福徳の徳を司る時媚鬼神(じびきじん)、降伏(ごうぶく)の徳を司る摩羅鬼神(まらきじん)。
三鬼大権現(さんきだいごんげん)は大聖院の魔尼殿(まにでん)にも祀られています。大小の天狗を眷属に従え、強大な神通力で衆生を救うとされるのだそうです。
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      奉納された天狗の額がたくさん掲げられています。

追帳鬼神の本地仏は虚空蔵菩薩ですが、弥山本堂の本尊は虚空蔵菩薩でした。
初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれ、扁額は伊藤博文の字です。
やはり山岳信仰の色濃いところですね。
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さて、また出発。 巨岩、奇岩を通り抜け、
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くぐり岩
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やっと頂上にたどり着きました!

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目の前に瀬戸内の景観が広がっています。
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まるで雲の上から見おろしているような美しさ─。

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静かでおおらかで、遠い昔、神々が降り立ったであろうと思える風景。
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厳島に詣で、弥山に登り、海と山に囲まれたこの自然の中にさまざまの信仰の姿を見たような気がいたします。


               

清遊ブログ 上七軒界隈にて

すこし寒さがゆるんで、陽ざしも明るくなってきました。
今日は上七軒(かみしちけん)にやってきました。
今出川通りと七本松通りの交差点を上がって、上七軒通りを西へ歩きます。
上七軒は京都の五つの花街(かがい)のうちで最も古い花街。
五つ団子の提灯が軒を飾っています。二本で十個の団子がくるりとめぐっています。
 
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3
25日から始まる北野をどりのポスターもあちこちに。

今年は北野をどりが60周年を迎えるそうです。

お茶屋さん、仕出し屋さん、お寿司屋さんなどが軒を並べ…
やはり華やいだ雰囲気です。
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上七軒の歴史をひもときますと-

室町時代、北野社殿が一部焼失し修復されました。
その際、社殿御修築の残材を以て、東門前の松原に、七軒の茶店を建て、参詣諸人の休憩所としましたので、七軒茶屋と称したのだそうです。 
その後、天正十五年(1587)八月十日、太閣秀吉が北野松原において晴天十日間(実際には一日だけで終わりました)の大茶会を催し「茶の湯執心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」との布令を発したため、洛中は勿論、洛外の遠近より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず非常の賑わいを呈したと。 
その際この七軒茶屋を、豊公の休憩所にあて、名物の御手洗団子を献じたところ、いたく賞味に預り、その褒美として七軒茶屋に御手洗(みたらし)団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、わが国に於けるお茶屋の始まりだそうです。 
現在、上七軒花街が五つ団子の紋章を用いるのは、実にこの名物御手洗団子に由来すると上七軒歌舞会では伝えています。
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上七軒は真盛町、社家長屋町、鳥居前町の三つの町内から成っています。
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上七軒歌舞練場をのぞいてみましょう。
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ここのお提灯も二本の五つ団子。これは下で串が交差して円になっています。
 

上七軒歌舞練場―

昭和
6年の建築。客席への廊下は高欄がめぐらされ、茶屋建築には珍しい神殿造りの風情。

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高欄をめぐらせているということは橋掛かりの構成であり、橋は異界へ誘われることを暗示しています。
以前、おもしろ講座で堤先生から能舞台の装置についてうかがったことがありましたね。

他の歌舞練場がオートマティック化されていくなか、手動式の舞踊専門の建物で、地方(ぢかた)との相性がよく、微妙な間がとりやすい劇場として定評があるのだそうです。  


ちなみに歌舞練場の正面は、天満宮東側の御前(
おんまえ)通りに面しています。天神さんの前の通り=御前通りです。

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さて、この花街のなかに、なんと五本の筋塀(
すじへい)がありますが…。はて門跡? 
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正面にまわってみましょう。
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西方尼寺―

ここは真盛山と号する尼寺。

寺伝によれば文明年間(
146984)に慈摂大師・真盛(しんせい)上人を開山として大北山の地に尼僧の修行道場として建立したものを、永正年間(150421)に現在地に移転した由。

本尊の阿弥陀如来坐像は椅子に腰掛けて中品中生印を結ぶ極めて珍しい像。
寺宝の絹本著色観経(かんぎょう)曼荼羅図(重文)は当麻寺の中将姫ゆかりの綴織観経曼荼羅図(当麻曼荼羅)を鎌倉時代に転写したものだそうです。
観経というのは浄土宗で使用する三部経の一つ「観無量寿経」のこと。


そしてじつは本光院という門跡寺院が西方尼寺のなかにあるのです。 
本光院―

本尊は延命地蔵菩薩。
本光院は乾元元年(1302)、後二条院の皇女が父帝の菩提を弔うために開創、蔵人御所号を勅許されました。

元は上京二階町にありましたが荒廃して、天正年間に織田信長が再建して北野に移転しました。この時より延命地蔵菩薩を本尊としています。

中興の祖、本光院日心尼の院号により本光院と改称しました。摂家子女が入寺する寺でしたが、次第に荒廃し、宗派も時代により変わりました。
 
昭和43年に天台真盛宗の西方尼寺境内に再建されて、西方寺住職が本光院門跡も兼ねて法灯を継承しておられるのだそうです。

本光院がある西方尼寺境内には北野大茶会の時に千利休が使用した井戸「利休井戸」や利休手植えの「五色散椿」が伝わっています。
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なお、本光院には鎌倉時代から南北朝にかけての武将・足利直義(
足利尊氏の異母弟)の妻・本光院殿(渋川貞頼の娘)が開山したという説も伝わっています。
 
西方寺は拝観することはできませんが、ここには「真盛豆」という菓子が伝えられていますので、そのお話をいたしましょう。
真盛豆―

真盛上人が念仏を聴きにきた信者に作ってもてなしたものといわれ、真盛の弟子で、この西方寺の開祖である盛久・盛春両尼が真盛から製法を伝えられ、以来代々この寺に伝わってきたものとされています。
天正十五年の北野大茶湯に使用され、秀吉が茶味に叶う味と賞賛し、細川幽斎は苔むす豆にたとえたといいます。
明治初年に初代の金谷正廣(安政三年創業)が西方尼寺に出入りし、この製法を伝授され、さらに茶人にあうよう工夫したと伝えられています。

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炒った丹波黒豆に大豆粉を幾重にも重ね、青海苔をまぶした風雅なお菓子。
真盛豆は金谷正廣(堀川下長者町通り西入ル)の銘菓となっています。
秀吉公の見立てのとおり、茶道の干菓子に適います。
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西方尼寺の屋根に贔屓(ひいき)を見つけましたよ…。
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先へ行きましょう。
 
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ここは和菓子の「老松」。

花街のなかにあって茶店の風情をも残しつつ、北野社ゆかりの屋号を持ち、北野の信仰とともに京の雅を伝える菓子司として
貴重な存在。
茶の湯のお菓子でもおなじみですね。
店内にはやはり舞妓さんの団扇も飾られて。
 
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梅尽しの干菓子「春鶯囀」が目にとまりました。
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『源氏物語』「花宴」に、東宮の所望により光源氏が「春鶯囀(しゅんのうでん)」の一節を舞ったくだりがありました。
その優雅な場面も想像されて、まだ少し早い北野の春を先取りです。 

まもなく上七軒通りは尽きて、御前通りの北野天満宮東門前に出ました。
 

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この東門
重要文化財)はなかなか立派なものです。
銅板葺き、四脚門。
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木鼻は獅子と象。
 
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鬼もいます!
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屋根には梅花の瓦押えが置かれています。
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東門を潜ると本殿の「石の間」に向かうかっこうになります。
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ここから見る本殿も優美な佇まいです。

まずは正面にまわり参拝します。
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東門を入ったあたりに戻ってすこしご紹介しますと、
本殿後ろに朱塗りの地主神社が見えます。

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ご祭神は天神地祇(
てんしんちぎ)
天満宮第一の摂社。道真公以前から祀られていた記録があり、北野の地に元からあった地主神。
じつはここは大変重要なお社で、現在の北野天満宮の正門は、道真公を祀る本殿ではなく、このお社に向かって建てられているのです。

 
手水舎の奥に竈(
かまど)社や茶席・明月舎があります。
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竈社の前には見事な老木が。
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ここは長五郎餅の出店。
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 毎月
25日や不定期にここで長五郎餅が販売されます。
          (長五郎餅本店は一条七本松西)

長五郎餅はやはり天正十五
年の北野大茶会の折、秀吉に好まれてその名をもらったというお菓子。餅皮に餡を包んだ門前菓子の一つです。

梅もちらほら咲き初めています。
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さて、天神さんを出たら、いよいよ「天神堂」に立ち寄りましょう!

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これも門前菓子の「やきもち」を求めます。
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今日の目的の一つかもしれません(
笑)
堤講師の大好物…。
お餅と餡のこうばしさが素晴らしいのですが、このおいしさはとても言葉ではお伝えしきれません。 
天神堂の前の東向き一方通行の道は五辻(いつつじ)通り。
東へ向かいます。


五辻通りは東へ行くと千本釈迦堂へつづく参詣道になります。


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七本松通りに出る手前に、おせんべいの「田中実盛堂」。


こちらの「京絹巻(
きょうきぬまき)」を井上由理子先生から教えていただいたのは何年前でしょうか。まだ最近のことです。

「京絹巻」は西陣織の「杼(
ひ)」の中の木管をかたどったという煎餅(右)。糸巻の感じが出ていますね。
 
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写真で下におかれているのが経糸(たていと)の間に緯
(よこ)
糸を通す道具である杼。
舟形で,中央に緯糸を巻いた木管をおさめています。
左右に走行させて織っていきます。


 
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京絹巻はいただくと胡麻の香りが口いっぱいにひろがり、ポリポリとあっという間に食べきってしまいます。
なかの芯は砂糖と水飴で作られていて、一つ一つを手焼きの煎餅で巻いています。
ご主人いわく機械でなく手で巻かないと風味が壊れるのだとか。

こちらのお店、大正
10年の創業だそうですから、90年ほどになります!
素朴で、飽きない味と形。
手作りの温かみ。ずっと作り続けてほしいお菓子です。 
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京絹巻のほかにも白みそ風味や赤みそ風味の松風など。

午後三時を回った頃。下校途中の小学生が店先を覗いていきました
。おやつの時間です。

七本松通と五辻通りの交差点。いま歩いて来た五辻通りを振り返って。

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この辺りは西陣のエリアで、西陣織にかかわる、いわゆる「糸偏(
いとへん)」の仕事をしておられる所がたくさんあります。

西陣織の帯の織元「丸勇」さんを訪ねました。
こちらでは「唐織(からおり)」を主に織っておられます。 
唐織は能装束などでよくご存じと思いますが、太い染糸を使って刺繍のように模様を織りだす複雑な技法で、西陣織の技術の高さを天下にとどろかす基となったものです。
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唐織― 
『西陣天狗筆記』と『雍州府誌』によれば、弘治年間に大舎人座(おおとねりざ)の座人であった紋屋・井関(いせき)七右衛門宗鱗が工夫を凝らして紋織法を創出し、
慶長頃に、同じく大舎人座の蓮池(
はすいけ)宗和に伝え、蓮池宗和がさらにその技術を発展させ、蜀紅錦に倣った五色糸の紋織模様の唐織を完成させたとされます。
井関家―

井関七右衛門宗鱗の時代より織物司としての優れた家柄で知られています。
宗鱗より数え八代目にあたる井関頼母氏は、伝来の紋織物を伝授して<紋屋号>を称え、格式の高い六人衆の筆頭として内蔵寮の織物司に補せられていました。
昨秋、紫野案内で「紋屋の辻子(大宮通り五辻上ル西入)」を訪ねましたね。

天正十五
年に、井関宗麟が、袋小路となっていた土地の家屋敷を買い取り、行き抜けにしました。それが現在の五辻通りです。この通りには、現在も、井関の屋号にちなみ、紋屋の辻子と呼ばれる有名な辻子があります。 
蓮池宗和―
その屋号は「俵屋」。画家の俵屋宗達の出自を織屋であるとする説もあるそうですが、もしそうであればこの俵屋蓮池こそ宗達の生家であるかもしれないのです。
無名であった宗達は本阿弥光悦に見いだされ、光悦と組んで素晴らしい芸術を生み出してゆきますが、光悦の屋敷跡が西陣(白峯神宮の東側)にあり、宗達も西陣織にかかわる家の出自であれば、二人の出会いは自然なことであったかもしれません。
 唐織の織機について―
紋織に用いられる織機を高機(たかばた)といいますが、この高機が戦国時代の末期ころに開発され、それまでの平織りしかできなかった「いざり機」から代わって、初めて日本にも精巧な紋織ができるようになったのだそうです。 

さて、今一度、百一色の糸を使った帯をごらんください。
ぷっくり膨らんだ唐織の風合いがおわかりいただけるでしょうか。
どれだけの手間がかかっているのか想像もつきません。
部分でしかご覧いただけませんが、帯一本がまるで美術品のように思われます。
でもこれらは普通に市場に出されてゆくものです。
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おめでたい宝尽しも地色によって印象が変わります。
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カタログには百一種の糸の色が描かれています。
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七宝つなぎの中はなんと百八種の花が織り出されています。
 

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礼装用の帯。金糸がたくさん!
 

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著名な伝来の小袖から紋様の意匠を選び配置して織られています。

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どれも古典柄のなかに現代的なセンスを取り込み、京都らしい雅びやかさ、品格が感じられます。色あいもはんなりしています。

 

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唐織の糸。微妙に異なる色の多さに驚きです。
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糸を染めるところから始まる先染めの西陣織。
ものすごくたくさんの工程を、折に触れ、少しずつ学んでいきたいと思いました。
 

さて、七本松通りを渡り、五辻通りを千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)まで行きましょう。
といってももう目と鼻の先です。

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このお店・VERTIGOは「わっ!フル」がおいしいです!

この道は参詣道。
いまは生活道路となっていますが、応仁の乱の西軍の大将、山名宗全も通ったであろう道です。
大報恩寺(千本釈迦堂)に着きました。

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年の創建時そのままの姿で建つ本堂。
京都市内最古の木造建築。国宝。
ご本尊も創建当初からのもので、本尊と本堂がともに同じ場所で祀られている唯一の例だそうです。
本堂外陣の柱には応仁の乱の槍、矢、刀傷の跡があり、残っているのが奇跡のような。 
信仰の寺なのですね。 
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枡組の斗栱(ときょう)を施すことで重量を四方に逃す方法。
本堂造営のさい、かけがえのない柱を切り落としてしまった棟梁に「枡組」を施すよう進言をして無事完成した、内助の功の
「おかめ」さんにも会えました。
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枡組をささげ持っておられます。
ふくよかなお顔にほっこりです。 
さて1
キロメートルも歩いたでしょうか。
堤先生には天神堂の「やきもち」を始め(大笑)、たくさんのご教示をいただき
こんなに短い距離なのに、びっくり箱のようにたくさんのものに出会え、楽しい散策でした。

今日はここをゴールといたしましょう。
また一日春に近づきますように。それではまた。
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         千本釈迦堂宝蔵館前のクロガネモチの大木