清遊ブログ  巳歳祈願 京の女神さまへ

いよいよ師走も押し詰まり、今年も余すところわずかとなりました。
来たる2013年、どうか良い年でありますように。願いを込めて、今年から来年の巳歳につながる京都をめぐってみましょう。
今年は「古事記編纂千三百年」でした。
はじめにご紹介しますのは梅宮大社(うめのみやたいしゃ)です。

003_R.jpeg 


四条通りを西へ向かい、「梅津車庫前」を過ぎると北へ。四条通りに面していないせいか、ふだんは静かなところです。
けれどここは平安京以前からの由緒をもつ古社。



◇梅宮大社─
梅宮大社は橘氏の祖、橘諸兄(たちばなのもろえ)の母・縣犬飼三千代(あがたのいぬかいのみちよ)が山城国綴喜(つづき)郡井手にお祀りしたのが始めとされ、のちに嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ 檀林皇后)によってこの地に祀られました。

酒造の神さま、子授けの神さまとして知られる神社です。

 


ここで「古事記」をひもといてみましょう─
貴船 木花開耶姫1.jpeg
   木花開耶姫 堂本印象筆 (堂本印象美術館)


天照大神(アマテラスオオミカミ)の命により、高天原に降り立った天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、九州・笠沙の海岸で美しい木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を見初めました。
ニニギは木花開耶姫の父・大山祇神(オオヤマツミノカミ)に姫との結婚を願い出て、結ばれ、やがて火遠理命(ホオリノミコト=山幸彦)ら三人の御子神が生まれます。

父の大山祇神はこれを喜び祝って、「天舐酒(あめのたむざけ)」を造られたと。
これが日本で酒を醸した始まりであると伝わっています。舐酒とは甘酒であったそうです。

 


CIMG3044.jpeg 

            「神話 古事記」より

梅宮大社では、
・酒解神(サカトケノカミ=大山祇神)
酒解子神(サカトケゴノカミ=木花開耶姫)
・大若子神(オオワクゴノカミ=瓊瓊杵尊)

・小若子神(コワクゴノカミ=彦火火出見尊=山幸彦)

の四柱がご祭神として祀られています。

上の絵の中にお顔を隠しておられるもう一人の姫神・磐長姫(イワナガヒメ)は木花開耶姫のお姉さんです。
じつはニニギノミコトが木花開耶姫を望まれたときに、大山祇神はこの磐長姫も一緒に嫁がせたのですが、ニニギは木花開耶姫だけを望まれ、磐長姫を返されました。

大山祇神は、木花開耶姫のように栄え、磐長姫のように永い命を持つようにと瓊瓊杵尊に二人を嫁がせたのですが、それがかなわず、それゆえニニギノミコトやその子孫、すなわち日本の天皇の命は永遠ではなくなったといわれます。

 


大山祇の神は山の神。そして娘の木花開耶姫は火の中で無事に出産したことから、山と火を司る神として富士山を賜ったとされ、富士浅間神社のご祭神として祀られています。

一方、縁に恵まれなかった磐長姫は、京都の北、貴船神社の結(ゆい)の社に縁結びの神となって祀られています。
P1260653.jpeg


◇ふたたび梅宮大社─

梅宮大社では、木花開耶姫の木花は梅花とされ、境内には、約40種の梅が植えられています。
012_R.JPG

010 .jpeg


本殿の屋根は橘。橘氏に深くかかわる社ゆえ。
011_R.JPG
お守りも橘の紋入り。
027.JPG
梅は「産め」に通じます。
005-1_R.jpeg
子授け祈願の「またげ石」。
014.JPG
絵馬は酉の日に醸す水=酒をあらわしているのでしょう。
絵馬.JPG

ここには神苑があります。
楼門をくぐると前に広がるのはその名も「咲耶池」。
019_R.JPG


まわりは梅・桜・かきつばた・あじさいなどが植えられた苑路になっています。
花咲く春が楽しみです。

鯉もたくさん。橋の上で餌をやると大勢やってきてびっくりです!

CIMG0827_R.jpeg 


向こうに茶室も見えます。
CIMG0818_R.jpeg
梅津の里は王朝時代には貴族の別荘が多くあったところだそうで、大納言源経信(みなもとのつねのぶ)が梅津の源師賢(みなもとのもろかた)の山荘を訪れ、辺りの風景を詠んだ歌が知られます。
「夕されば門田の稲葉訪れて 芦のまろ屋に秋風ぞ吹く」
茶室「池中亭」は、この風雅な屋根をもつ「芦のまろ屋」の昔の姿をとどめる茶室といわれます。
020_R.JPG


歌は百人一首にもとりあげられ、藤原定家の筆になる石碑も立っています。
022_R.jpeg022_R.JPG
梅宮大社のご祭神はファミリーの四柱が祀られていましたが、木花開耶姫をご祭神にお祀りしているのが、敷地神社。通称「わら天神」です。

◇敷地神社(わら天神)─

001.jpeg
003.jpeg
お詣りしたら、上を見上げてください。よく見ると妻飾りがなかなかいいのです。

007_R.JPG
006_R.JPG

     ハートに見える亥の目文があちこちに!


安産祈願で有名な神社ですが、木花開耶姫の由緒からつくられたのが、笹屋守榮の銘菓「うぶ餅」。
P1340347_R.jpeg
かわいらしい包装で、甘酒入りというのが肝心。
大山祇神が醸したのは甘酒でした。
010_R.JPG
九のつく日と犬の日は境内に茶店が設えられ、うぶ餅をいただくことができます。
笹屋守榮はわら天神のすぐ近くにあります。
011わら天神 笹屋守栄_R.jpeg

 


さて、お酒といえば松尾の神様にも詣でねばなりませんね。
梅宮大社からさらに西へ。桂川を渡ると松尾大社です。
◇松尾大社─

DSC_0379_R.jpeg

鳥居にさげられた脇勧請(わきかんじょう)
12本の榊の小枝は月々の作物の出来を占ったとか。閏年は13本さげられます。


「賀茂の厳神、松尾の猛霊」といわれ、カモ社とならび称された古格を誇るお社。
P1090139_R.jpeg
松尾山を背に、両流れ造りの屋根が美しい社殿。
松尾の神は松尾山の磐座に降臨したと伝わります。


ご祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)。

もう一柱は中津島姫命(なかつしまひめのみこと)。別名、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。


大山咋神(オオヤマクイノカミ)は山の神様ですが、秦氏の崇拝していた氏神であり、醸造の神、日吉の神として知られます。
大山咋神.jpeg

市杵島姫命は、
多紀理比売命(タギリヒメノミコト)、多岐都比売命(タギツヒメノミコト)とともに宗像三女神(むなかたさんじょしん)の一番末の姫神。 
宗像三女神は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)と天照大神が誓約(うけい)をされたとき、スサノヲの剣から生まれた三姉妹の神々。

海上交通の平安を守護する玄界灘の神。宗像大社や厳島神社に祀られます。
末っ子の市杵嶋姫命はもっとも美しいとされ、記紀神話において代表的な海上神です。

市杵島姫命.jpeg 

  宗像三女神 (やよい文庫)


木花開耶姫といい、市杵島姫命といい、美人の神様なんですね!

松尾大社については、いつか堤先生に講座でじっくりお話していただくこととして…。


京都の酒造りにとって松尾大社はじつはとっても大切な神様です。
酒造りに関わる人々は必ず境内の亀の井の水をいただいて酒に入れ、醸造祈願をします。11月に「上卯祭」、4月に「中酉祭」が営まれます。

P1090166_R.jpeg
亀は松尾の神のお使いとも言われます。
P1090168_R.jpeg 


水の神様を祀る瀧御前社。鳥居の向こうに天狗の顔らしいものが浮かぶのですが、わかりますでしょうか?
DSC_0370_R.jpeg


DSC_0371_R.jpeg

じっくりさがしてみてください。これは近年有名になった話だそうです。

さて、市杵島姫命つながりで、河原町五条の近くにあります「市比賣(いちひめ)神社」にまいりましょう。

◇市比賣神社─


002.jpeg 


平安京の官営市場であった東市・西市の守護神として創建された市比賣神社は、現在も京都中央卸売市場に末社があります。
市場守護と、あわせて、現在は女人守護の神社です。一願成就の井戸「天之真名井」があり、この水は歴代天皇の産湯に用いられたと伝わります。
皇族・公家が生後五十日目には五十日餅を授かり、お食べ初め発祥の神社ともされています。

004_R.jpeg


ご祭神は五柱。

・市寸
()嶋比売命ほか宗像三女神(むなかたさんじょしん)
・神大市比売命(カムオオイチヒメノミコト)…スサノヲノミコトと結婚。
・下光()比売命(シタテルヒメノミコト)…大国主と宗像三女神の一番上のタギリヒメノミコトの間の娘。母子でお祀りされていることになります。


いずれも女の神様です。良縁・子授け・安産・厄除け。女性にとってはオールマイティの神様。


可愛らしい「姫みくじ」はお守りとして持ち帰っても良し、願い事を書いて奉納しても良し。
013_R.JPG
014_R.JPG
使わなくなったカードを納める「カード塚」は現代の生活にマッチしています。
カード形の「カード守り」もあるのです。

009.JPG

この日も参拝者が途絶えることなく訪れていましたが、お詣りして神社を出られるときの顔はどの顔も晴々としていました。
007.JPG

 


さて、市杵島姫命ですが、この神様は七福神のひとり、弁財天(弁才天)と同一視されることがあります。
200px-Benzaiten[1].jpeg

 


弁財天はヒンドゥ―教の女神サラスヴァティー(河神)が日本に来て習合された神様です。

なるほど、弁財天は水に関係するところ─島、池、泉などにお祀りされることが多いですね。寺院の池中の島にはよく弁天さまが祀られています。


名水のある八坂神社の本殿裏にも厳島社が祀られていました。
P1290231_R.jpeg
             厳島神社 文字がハート形?

市杵島姫命は海の神様ですから、弁財天やサラスヴァティーと習合していったことがうなずけます。
そして弁財天のお使いは巳(蛇)。巳成金(みなるかね)といって最初の巳の日は弁財天に詣るのだそうです。
ここでいよいよ「妙音弁財天」を祀る「出町 妙音堂」に到着です。
◇出町妙音堂─

001_R.jpeg

妙音堂は昔、琵琶をもって宮中に仕えた西園寺家のゆかりを伝え、「京都七福神」のひとつとなっています。
003.jpeg
004.jpeg

004-1_R.jpeg

巳さんがお祀りされていますね!
水の流れる音はすなわち妙音。妙音は音楽、技芸に通じ、弁財天は音楽や芸能に携わる人々の守り神ともなりました。


琵琶を奏でる優雅な弁財天は女性の憧れかもしれませんね。
才は才能、財は財産。
弁財天は福徳を授ける神様ともなり、江戸時代には大いに流行したそうです。

弁財天と巳さんがたくさん奉納されています。

006.JPG
008_R.JPG
009_R.JPG


こちらは「都七福神」のひとつ、六波羅蜜寺の福寿弁財天。

IMGP3884_R.jpeg


IMGP3885_R.jpeg
同じく六波羅蜜寺には銭洗い弁天も知られています。「京の七福神」の弁財天は三千院。天龍寺の「七福神」めぐりでは、慈斎院が弁財天です。

ことしの木花開耶姫から、「美女つながり」で巳年詣りのご案内(になりましたかどうか?)にたどりつきました。
京に祀られる女神さま。そのパワーをいただいて、来年もみなさまと共に元気に活躍できますように!
今回は、先日、JEUGIAカルチャーKYOTOでお話させていただきました「ビギナーのとっておき京都ガイド 京の初詣 美女祈願」から引用してのブログとなりました。1月は「和菓子事始め」を予定しています。(第3火曜夜7時~)ご興味がおありの方がございましたらどうぞお越しくださいませ。


今年も清遊ブログをご覧いただきありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



清遊ブログ  清閑寺 小督のゆかりを訪ねて

今月の世界遺産講座は、清水寺。
先日の京都の講座では、「観音力」というスケールが大きく、とても興味深いお話を聴くことができました。
やはり人気ナンバーワンの名所だけあって、境内や清水近辺の賑わいは今も昔も変わらぬようです。
CIMG1777.jpeg
ところで、境内の子安の塔から清閑寺(せいかんじ)につづく道があるのをごぞんじでしょうか。
「清閑寺」と矢印が示された標を見つけました。
002 .jpeg

一瞬ある思い出がよぎり、どうしても清閑寺を訪ねてみたくなりました。
参詣の賑わいからはすっかり離れて、通る人もなく、静かな山路。
003.jpeg
15くらいも歩いたでしょうか。
(女性ひとりでは決して歩かないでくださいね。)

006.JPG



「左 清閑寺、右 大津へ」。下は国道
1号線が走っています。
007.JPG

高倉天皇陵、六条天皇陵参道の碑と清閑寺の標。

005.jpeg

さらに進むと、左手に高倉天皇陵とその上方の山手にあるのが六条天皇陵。

 


 009.JPG


後白河天皇の第一子が二条天皇。その子が六条天皇。皇統は第七十七代後白河天皇から二条─六条と続き、その後を継いだのが二条天皇の異母弟・高倉天皇でした。

010 .jpeg 

 


京都・清遊の会の事務局は衣笠の二条天皇陵のすぐそばにあり、いつも御陵を目にしていますから、この六条天皇と高倉天皇の御陵にもなにか縁を感じます。

先に見えているのが清閑寺の門。
008.JPG
石段を上り、山門へ。向こうに見えるのは九条山。
011.JPG

013.JPG


「歌の中山」は清閑寺の山号で、清閑寺から清水寺の間の山路をいいます。

「見るにだに まよふ心の はかなくて まことの道を いかでしるべき」
昔、清閑寺の僧が美しい人を見て愛しい心が起り、声を掛けると、女人はこの歌を詠んで姿を消したとか。


清閑寺山(歌の中山)は東山三十六峰のひとつに数えられ、花と紅葉の名所として知られたところ。

清閑寺の歴史は古く、延暦
11年(792)に紹継(じょうけい)法師の開基とされ、かつては清水寺と拮抗する大寺でありました。幾多の盛衰を経て、江戸時代に平等寺が兼帯し、現在に至ります。
真言宗智山派に属し、菅原道真自刻の梅樹十一面千手観音がご本尊として伝わります。

023.JPG
024.JPG
025.JPG



門をくぐると、すぐ目に入るのが小督局(こごうのつぼね)の供養塔です。
014.JPG

木陰の下、苔むした庭に。

016.JPG

向かい側に九条山を望み、陽の射す周りの風景とは対照的に、境内は翳って静寂そのものです。

015.JPG

小督の哀しい物語がこの清閑寺に伝わっています。

 


小督局は高倉天皇に寵愛された女性。
しかし天皇の中宮・徳子(建礼門院)の父は時の権力者、平清盛。清盛に疎まれた小督局は宮中から追放され、この清閑寺で尼にさせられました。
高倉天皇は深く心を痛められ、自分の亡きあとはこの清閑寺に葬ってほしいと遺言され、二十一歳の若さで亡くなったと。小督局もここで亡くなったといわれます。


018.JPG


また「平家物語」では、次のような話が語られます。

小督は藤原通憲の子・桜町中納言藤原成範(しげのり)の娘で宮中第一の美人。しかも琴の名手。小督を見初めたのが冷泉大納言藤原隆房でした。
しかし隆房の恋人となっていた小督を高倉天皇が召し、小督は天皇の寵愛を受けるようになります。小督を天皇に奪われた隆房ですが、じつは隆房の正妻も清盛の娘でした。
清盛にしてみれば、小督は二人の娘婿を奪い、娘を悲しませた張本人。召し出して殺すことを決意します。
小督はそれを漏れ聞いて内裏を抜け出し行方知れずに。天皇は源仲国に命じ、小督を探させます。

八月十五夜、名月の嵯峨野を駈け、仲国が小督を探し当てるくだりは有名です。

「峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か楽か。……曲はなんぞとうかがえば、夫(つま)を想うて恋ふる名の想夫恋(そうふれん)なるぞ、嬉しき。」

 


小督は再び高倉帝の元に戻り、寵愛は以前にもまして強く、皇女が誕生。しかしそれを聞いた清盛の怒りは激しく、小督を捕えて出家させます。
小督二十三歳。嵯峨の辺りに住まいし、まもなく亡くなったといわれます。

020.JPG

019.JPG
             小督の桜
じつは以前、小督局ゆかりの品を見たことがありました。

忘れもしない、平等寺(びょうどうじ)でのこと。


清閑寺の標を見て、とっさに清閑寺を訪ねたくなったのはそのときの光景が蘇ったからです。

何年前になるでしょうか、平等寺の縁日でした。平等寺は因幡薬師(いなばやくし)とも称し、松原通烏丸を東に入った、まさに京都の町の真ん中にあるお寺。
薬師如来の縁日が八日で、毎月八日にはこの因幡薬師で手作り市が開かれています。

001.jpeg

その日は香煙が立ち込めるなか、参拝の人や、手作り市の買い物客らで、境内は足の踏み場もないような賑わいを見せていました。

寺の他の行事とも重なり、その日はお寺の方もそれは忙しそうにされていました。

 


縁日には寺宝が公開されると聞いていましたので、尋ねてみました。すると門を入ってすぐのお蔵というか収蔵庫に案内されたのです。ここでした。なつかしい…。
003.jpeg
案内してくれたのは、なんと境内で焼きそばを焼いていたおじさん…。
その前掛けからはおいしそうな匂いがぷんぷんしていましたし、おじさんはまだ焼きかけの焼きそばが気になるようでしたが、お寺の方に頼まれて恥ずかしそうに中へ案内してくれました。
いいのかなあ、とおそるおそる後ろについて入りますと、なんだかすごい仏像やら美術品が並べられています。
そしておじさんは壁際にあるカセットデッキのスイッチをそっと押し、解説の音声を聴かせてくれました…。

 


そこで、初めて、この平等寺のご本尊で日本三如来のひとつ、「薬師如来」や、「如意輪観音」、清凉寺様式の「釈迦如来」を拝することができたのです。
その日は宝物館ではなく、たまたまこちらに展示されていたのでしょう。

今もあの焼きそばのおじさんなしに平等寺を思い出すことはできません(笑)
帰りに絵葉書を買うときもまたお寺の方ではなく、市で店を出していたおにいさんが応対してくれました。お寺と、商いする人との信頼関係には驚きましたが、昔は寺の行事には町の皆がお世話したものであったはず。
しかもここはもともと町堂といわれて人々が集ったところ。

取り澄ましたお寺の顔ではなく、いろんなものが綯い交ぜになったお寺の姿。京都という町が魅力的な町に思えたときでした。

 


さて、この出来事もそうですが、もっと驚いたのは寺宝の数々。

仏様のほかに見たものは─
小督局愛用と伝わる琴。そして蒔絵硯筥(すずりばこ)。
004-1.jpeg
004.jpeg


さらに、小督が自らの髪の毛を織り込んで織られたと伝わる「光明真言」

それをみたときは息を呑みました。


005.jpeg

                (三点ともに平等寺 絵葉書より)

ガラス越しではなく、手が届くほど近くにあるのです。

髪の一本一本が確かに織り込まれているのがわかります。自分の髪を抜いて織るという想いの深さ。

 


高倉天皇との間には、のちに土御門天皇の准母となられた範子内親王も生まれていました。
おそらくそのわが子との別れもあったことでしょう。
凄絶ともいえる別離の感情がこの光明真言のなかに織り込まれている、そんな気がします。

 


この因幡堂平等寺は高倉天皇とのゆかりが深く、高倉天皇によって多くの堂舎が建てられ、因幡堂を平等寺と改めたのも高倉天皇だそうです。その縁から平等寺の住職が清閑寺の住職を兼ねるなど、清閑寺に伝えられたものがこの因幡堂に伝わる所以です。

平等寺を訪ねたこの日、いつか平等寺と縁の深い清閑寺を訪れることがあるだろうか、とふと思ったのでした。
話がずいぶん横道にそれてしまいました。

清閑寺の境内には要石(かなめいし)というのがあって、その前に立てば京都の町があたかも扇を開いたような角度で眺望できます。扇の要に当たることからこの名で呼ばれます。いい眺めです。
P1100374.jpeg
026.JPG

027.JPG

昔は山科・大津方面からはこの寺に辿り着いて初めて京都が見えたようで、名所となっていたそうです。
そして、いつのころからかこの要石に誓いをたてると願いがかなうといわれるようになりました。

ここ清閑寺には、ほかにいくつもの歴史のできごとが刻まれています。

 029.JPG

幕末のころ、この上に、錦江湾に入水し果てた尊王攘夷派の僧侶で
清水寺成就院の住職・月照上人の隠棲の常居がありました。

030.JPG

茶室「郭公亭」は西郷隆盛と都落ちの相談をしたところ。

CIMG1738.jpeg 

与謝野鉄幹の父で与謝野礼巌は妻を亡くした明治29年の冬、この寺に隠棲。
与謝野礼巌は「永観堂」の講座で、京都で初めて療病院を創ったうちの一人と教わりましたね。


鳥の声、風が渡り木の葉の擦れ合う音。自然の音が大きな響きにさえ感じられる境内です。

033.JPG
021.JPG
山から眺める京都の景色もいいけれど…。


034.JPG

帰り道。また御陵を通ります。

山手の御陵に葬られる六条天皇。
六条帝はわずか二歳で即位。在位三年で高倉天皇に皇位を譲り、元服を行うことなく十三歳で崩御。后もなく、子もなく。
035-1.JPG
その下の高倉天皇の御陵のそばには小督局の墓塔があるといいます。意のままにならず短い生涯を終えた高倉天皇と小督局。静かに寄り添い眠っておられるのかもしれません。

037.JPG


別離の哀しみを山ごと包みこみ、中腹にひっそりと建つ清閑寺。


またここへ来ることがあるのだろうか、とそんなことを思いながら、清水のほうへ歩き出しました。
036.JPG