清遊ブログ  磯良を訪ねて 安曇野への旅

早くも処暑となり、暦に暑の文字はなくなりますが…
皆様にはいかがおすごしでしょうか。


信州は安曇野にやってきました!

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龍神・安曇磯良(あづみのいそら)を訪ねて??

 


祇園祭は先月のことながらずいぶん日が経ったような気がしますが、
堤先生から山鉾のひとつ、船鉾のご神体人形のお話を聴いて以来、そのなかの安曇磯良のことが気になっていました。

 


祇園祭で船鉾の会所飾りは、龍神安曇磯良、鹿島明神、住吉明神、そして奥正面に神功皇后が飾られていました。

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前に座ると畏れおおいというか、独特の気配が感じられました。

 


そして山鉾巡行では、安曇磯良が皆を先導するかのように鉾の先頭に立っているのが見えました。
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龍神・安曇磯良とはいったい誰なのでしょうか?

そして4人のご神体はどのような関係なのでしょうか?

宵山講座、JYUGIAカルチャー京都の講座などでお話を聴かれた方もあると思いますが、すこし思い出してみましょう─

 


船鉾は神功皇后が三韓征伐に出かけてゆく出陣の船をあらわしています。

そのおり、神功皇后は無事に凱旋できるよう神々に祈願されました。
ですがただひとり安曇磯良は和布や貝殻のくっついた自分の姿を恥じて姿を見せません。
神功皇后は安曇磯良の持つ「あるもの」が無ければ出てゆくことができないので、安曇磯良を呼んでほしいと告げます。
そこで住吉明神が磯良の好きな楽を奏し安曇磯良を呼び出します。それが神楽歌「君が代(だい)」。
そして磯良は姿を現し神功皇后に二つの玉を捧げます。

「潮盈玉(しおみつたま)」と「潮干玉(しおひるたま)」といわれるもの。
海が荒れるときには「潮盈玉」を、凪いで風を起こしたいときには「潮干玉」を使って海水を自在に繰り、航海を安全に導くことができるのです。

まさに安曇磯良のご神体人形が手にしているものがそれです。

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そして神功皇后が神々を呼び出したのが、博多湾に浮かぶ志賀島。

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           海の中道からみた志賀島(穂高神社資料)

 

ここには志賀海(しかうみ)神社が祀られています。

ご祭神は、 底津綿津見神(ソコツワダツミノカミ)、仲津綿津見神(ナカツワダツミノカミ)、表津綿津見神(ウワツナカツミ)のワダツミ三神。


イザナギノミコトが黄泉の国から逃げ戻り、海に入って禊をしたときに生まれた六神のうちの三神。総称オオワダツミノカミ。


もうおわかりと思いますが、この御祭神のワダツミ三神…オオワダツミノカミが安曇磯良につながります。

安曇磯良とはオオワダツミノカミという説もあるのです。


「筑前国風土記」に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述があり、安曇(阿曇)氏の祖神である安曇磯良が舵取りを務めたとされています。

神功皇后は無事に凱旋を果たし、帰国するという結末。


志賀海神社の別名は龍の都。宮司さんは代々安曇氏なのだそうです…。

また、ここには安曇磯良が乗ってやってきたのが亀ということで亀石が奉納されているそうです。
龍と亀は安曇族を知る重要な鍵となるようです。


安曇一族は海を渡って九州の地に上陸してきた一族。ほかに薩摩一族、隼人一族、津守一族などがいました。

安曇一族は志賀島を拠点としていましたが、そこからさまざまなルートをたどって全国へ渡ってゆきました。


海から上陸したのが渥美半島。そして安曇野を経て穂高に達し、ここに鎮まった一族を祀ったのが穂高神社というわけです。

安曇野という地名は安曇磯良と関わりがあったのですね!

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                      (穂高神社資料)

この図を見ると、こんなに安曇族が全国に広がっていったのかと驚きます。
安曇磯良、神功皇后、住吉明神のつながりがだいぶわかってきました。

残るは鹿島明神ですが、これには鹿島の神使いの鹿によって志賀海神社との関係が知られます。
志賀海神社には1万本もの鹿の角がその名も鹿角堂(ろっかくどう)に奉納されているのだそうです。
鹿の角が角が英語でアントラーだと聞きましたよね。鹿島アントラーズ。

また、志賀島といえば、「漢の倭の奴の国王」の金印が出土されたところとして知られています。

安曇(阿曇)は「アマツミ」つまり「海人津見」の転訛だそうで、「ツミ」は綿津見神と同じで、「住み」の意味であるとか。


さていよいよ穂高神社です─


JR
大糸線「穂高」駅のすぐ近くにこの穂高神社本宮があります。
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そして上高地には奥宮(おくみや)が、奥穂高山頂に嶺宮(みねみや)が祀られています。

 

社伝によれば─
太古、穂高岳に天降(あまくだ)ったと伝えられる穂高見命(ホダカミノミコト)は、海神・綿津見神の御子神(みこがみ)で、海神の宗族として遠く北九州に栄え、信濃の開発に功を樹てた安曇族の祖神(おやがみ)として、ここ穂高の里に本宮を、穂高岳山頂に嶺宮、そしてその麓の明神池の畔(ほとり)に奥宮が奉斎されているのだそうです。

鳥居をくぐり、
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神楽殿、拝殿、本殿。 りっぱな社殿です。
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拝殿の妻飾りはなんと亀です!
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龍神・安曇磯良が亀に乗ってやってきたという話を彷彿させます。

中殿に穂高見命、左殿に綿津見神(ワダツミノカミ)、右殿に瓊瓊杵神(ニニギノカミ)、
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別殿に天照大神(アマテラスオオミカミ)が祀られています。

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境内には摂社がたくさんあります。
神社にどんな神様が祀られているかは重要なことだと先生がおっしゃっていました。
見てゆきましょう─

 


向かって右から─鹿島社(武甕槌命・タケミカヅチノミコト)、八幡社(誉田別尊・ホンダワケノミコト)、秋葉社(軻遇突知命・カグツチノミコト)、疫(やく)神社(素戔嗚尊・スサノオノミコト)。

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そして若宮には安曇比羅夫命(アヅミヒラフノミコト)、相殿に信濃中将が祀られています。

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狛犬の顔がユーモラスです!

安曇比羅夫命は天智天皇の命を受けて百済の王・豊璋…
訓で読むとなんと「とよたま」!「豊玉姫」を連想するのは私だけでしょうか?)…を助け、白村江(はくそんこう)の戦いで戦死した安曇野の英雄。

信濃中将は御伽草子の「ものぐさ太郎」の伝説で知られています。

 


四神社には少彦名命(スクナヒコナノミコト)、八意思兼命(ヤオオモイカネノミコト)、蛭子神(ヒルコノカミ)、猿田比古命(サルタヒコノミコト)。


保食社(宇気母智神・ウケモチノカミ)、子安社(木花開耶姫比売命・コノハナサクヤヒメノミコト)、事比羅社(大物主神・オオモノヌシノカミ)、八坂社(素戔嗚尊)。

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天孫降臨から神武天皇へとつながる系譜にみられる重要な神々。
誉田別尊は応神天皇ともされます。

また、若宮に祀られている安曇比羅夫命は穂高神社のお祭り、御船祭りの起こりの一つと伝えられています。

 


境内の御船会館にはその御船祭りに関する展示がされていました。

これがその御船です。

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これは山幸彦(火遠理命・ホオリノミコト)が、兄の海幸彦(火照命・ホデリノミコト。火須勢命・ホスセリノミコトに比定されることもあります)から借りた釣り針をなくし、塩土翁(シオツチノオジ)の教えによって海へ行き、湯津杜樹(ゆつかつらのき。神聖な桂の木という意味だそう)に登ったところに、水を汲みに来た侍女の報せでオオワダツミノカミの娘、豊玉姫がやってきた二人の出会いの場面。

 


やがてこの龍宮に時を過ごし、山幸彦と豊玉姫との間にできたのが、ウガヤフキアへズノミコト。
そしてウガヤフキアへズノミコトと豊玉姫の妹の玉依姫(タマヨリヒメ)の間に生まれたのが神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)、すなわち神武天皇とされています。

下は曳くことのできるように車輪がついています。
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他にも、日光泉小太郎の伝説─犀龍に乗り、太古は湖であった湖水を落とし、安曇野の平野をつくり上げた─をテーマにした船など。

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以下は御船祭りのビデオ映像からですので、お見づらいですが少しご紹介しましょう。

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船を作っているところ。大がかりですね。船上には毎年異なる人形を飾るのだそうです。

船はおとな船が二艘、子供船が三艘あり、囃子衆も乗る曳船。

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例大祭当日、町々を回り、
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境内に入ると神楽殿の周りを三周し、お布令神事(ふれしんじ)
が行われます。


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                             御布令の図

そして拝殿の前で船同士のぶつかり合いが演じられます。
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これがかなりな激突でちょっとびっくりするくらいです。


お囃子衆が乗ったり、終わると分解して格納するところなどは、祇園祭の山鉾と共通しています。

松本から大町にいたる神社の祭りにはこのような穂高神社に類した御船が出るそうで、秋たけなわの穂高神社のお祭りはそのハイライトです。

穂高のような山地に船のお祭りが伝承されているのは本当に驚きです!

海人の氏族、安曇族がこの地に達し、土着の民となった証しではないでしょうか。

 

もう夕方になり、静かな境内を回ってみました。

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                      若宮の後ろにあるご神木

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手水舎と龍。迫力です。

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安曇の銘水 清冽! 地下30メートルから汲み上げられています。

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御手洗川に架かる石橋。雲龍が彫られ神橋とも呼ばれます。

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    塩の道の道祖神も並んでいます。亀甲の通路わきに。

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翌日、明け方に
激しい雨が降りましたが、天候は徐々に回復し、待望の上高地、穂高神社の奥宮に出かけることにしました。
松本ICから沢渡(さわんど)まで約1時間。マイカー規制となっていますので、ここからはバスかタクシーです。

山また山を抜けて…
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梓川に沿ったり、トンネルに入ったり。
大きなダムも通りました。
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通過したトンネルはなんと20。

30分くらいかかったでしょうか、上高地のバスターミナルに到着です。



雨が降ったせいでまだ水は少し濁っていましたが、

だんだん霧が晴れて山と川の織りなす風景が見えてきました。
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標高1,500メートル。梓川上流の景勝地。

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涼しいです!

爽やかな山の空気を吸って。
河童橋です。

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ここからさらに梓川左岸道を歩きます。こちら側は森の中を歩くことになります。
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ヤチトリカブト トリカブト! でもきれいな紫色。


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なかなか先は長いようです…

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             ヤマホタルブクロ かわいい花ですね。

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何の実でしょう?

こんな木もありましたよ。
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道はときに河原に出たりもしますが…
見えました!

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あの山が明神岳! 屹立した美しい姿です。2931メートル!
その向こう、奥穂高の山頂に嶺宮がお祀りされています。


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さらに進み、河童橋から3キロ、約1時間で明神に着きました!

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もともとこの明神は上高地の中心で、上高地は「神垣内」と言ったそうです。

神垣内とは穂高見命が穂高岳奥宮と嶺宮にお祀りされていることに由来します。


また「神河内」とも「神降地」とも。

明神池に穂高の神様が祀られ、上高地が神垣内と呼ばれることなど、今回はじめて知ったことです…。 

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明神から梓川に架かる明神橋を渡ると鳥居があり、
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池畔の穂高神社奥宮に到着します。

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木々のせいで見えにくいのですが、この奥宮の真正面に先ほど河原から見えたあの明神岳がそびえています。

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お参りし、池の畔にでました。

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明神池は一之池と二之池からなる池で、穂高神命が鎮座する神域。
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別名「鏡池」「神池」とも呼ばれます。

 


池は神韻縹渺として深く、静かに水を湛えています。

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ずーんと重い静けさとでもいうのでしょうか、神秘的で、この池に龍神が棲んでいても不思議ではないように思えます。


毎年108日にはここに龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の御船を浮かべ、一年の山の安全を祈願する御船神事が行われるそうです。そんな風景を見てみたいですね。

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帰りは右岸道を取りましたので、その景色をご覧ください。

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こちら側は木の橋を渡ったり、川の流れを見ながら歩くことになります。
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こんなにも美しい流れが存在するなんて感激です! 


それだけでも来た甲斐がありました。
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立ち枯れの木も雰囲気を醸し出しています。
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河童橋近くまで戻ると、いつのまにか青空が見え、梓川は出発のころより澄んできていました。
初秋の風景。

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今回の旅では、先生が、地名は大切なのです、地名には歴史が秘められているから、といつもおっしゃっていたその意味を実感しました。

安曇野はもとより、上高地も住所は松本市安曇…でした。安曇の地名はたくさん残っています。
梓川のあづの音も安曇からきているとも言われます。

 


海人(あま)として生きた人々は何代もの世代を経て、この地で山を切り拓き、たくましく生きる山の住人となっていったのでしょう。彼らの祖先は穂高の地で山を守る神となりました。

海の神が歳月を経て、やがて山の神へと変容してゆく不思議。


安曇磯良を訪ねてやってきた彼の地は、「安曇」の歴史とともに穂高の美しい自然を存分に見せてくれました。

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特別コラム 「ちょっと拝読」

 

 こんにちは。
 暑いさなか、皆様には健やかにお過ごしでしょうか?

 このたび、堤先生が「ぎをん」誌に一文を寄せられたことはみなさまご承知のことと存じます。

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 実は掲載された文章は、かなり縮小されたものでした。

 そこで、その元となった原稿を先生よりいただきましたので、こっそり掲載します。(笑)

清盛と鬼太郎と ―六波羅地名考―

 「祇園の近くにいい下宿が見つかった。」

 京都での住まいの斡旋を頼んでいた知人にそう告げられ、期待に胸を躍らせてこの地に移り住んだのは今から三十数年も前のことである。大学から京都に住むことになった田舎者に、「祇園」という地名はひと時甘美な幻想に浸らせるに充分な響きを持っていた。

 「京都では祇園に住むんだ」 友達に誇らしげに語っていた過ぎし日の記憶が今も鮮やかによみがえる。

 学生にあるまじき、いささか不届きな想いを抱いて上京した私が住んだのが六波羅だった。


 確かに祇園の近くであった。知人は何もうそはいっていない。

 これも何かの縁であったのだろうか。千年の歴史、悠久の時の上にたつ都。それに花街というプレミアまでついてはちきれんばかりの幻想に導かれてやってきた不埒な若造に、しかしこの町は期待通りの、いや期待以上の凄みを与えてくれた。

 下宿のすぐ裏に六波羅蜜寺があった。

 そこにはあの教科書で見た平清盛像と、口から六体の小仏を出した空也上人の像があった。そのことにも素直に感動したが、しかし何よりも驚かされたのは町名であった。六波羅蜜寺に隣接する六原小学校の前に貼られた仁丹の看板をみて愕然としたのである。そこには

 「轆轤町」

と書かれていた。多少陶芸に興味があった私はそれを「ろくろ」と読むことは知っていた。驚いたのはそのことではない。隣の学校に通う小学生たちはこの字が当たり前に書けるのだ、という思い込みだった。

 都の子供、恐るべし!

 その後、この名はもとからの名前ではなく、以前は「髑髏町」と呼ばれていたことを知って二度驚いた。しかもそこは六道の辻であり、三途の川だったという。

 しかもしかもここは化野、蓮台野と並ぶ京都の三大葬送地の一つ、鳥辺野の一角なのであった。かつて藤原道長のライバル藤原実資が、疫痢で亡くなった六歳の娘の遺骸を葬り行ったものの、悲しみのあまり埋葬するに忍びずそのまま放置し、翌朝思い直して再び訪れたときには、すでに娘の体は影も形もなくなっていたといういわく付きの一帯なのだ。

 さらにいえば、その近くには死んで葬られた母の体から生まれ、その子の成長を願う母の一念が霊となって現れ、夜な夜な飴を買いに来たという「幽霊子育て飴」なるものまで売られていた。

 さらにさらに、少し東にあがればそこには死者の霊を迎える鐘で有名な六道珍皇寺があり、ご丁寧にも小野篁が地獄に通ったという井戸まで残されていたのである。

 この、世の中の怪奇という怪奇をまとめて引き受け、ゲゲゲの鬼太郎のふるさとのような地に私はこれから住むのだった。それを知ったとき、別の意味で背筋が凍りついた。

 「ぎをん」という甘い響きに胸を膨らませていた若者の期待はものの見事に吹き飛んだ。

 しかし、その落胆もそう長くは続かなかった。たまたま近くの古本屋で買った本に、建礼門院が安徳天皇をお産みになった時、産湯に使った井戸があるという寺が紹介されていたのである。

 まるで『平家物語』じゃないか。面白い。
 にわかに興味が涌いた。

 妙順寺という名のその寺は私の下宿から息を止めたままで行ける場所にあった。確か山崎昭見というお名前であったと記憶しているが、その本の著者がその寺のご住職だった。私が住んでいた町名は山崎町という。その寺がある隣町は池殿町といった。

 そのとき、突然私の中で、六波羅という地名と平清盛像が重なった。ついでにこっそり鬼太郎も。

 今を遡ることおよそ九百年前、京都に進出してきた平正盛が土地を借り受けて住んだのが六道珍皇寺の一郭であった。この不気味な伝承を持つ地獄の片隅にその男は平然と住み続け、息子忠盛、孫清盛の時代にこの地は「平家にあらざれば人にあらず」とまで言わしめ、栄華を極めた一族の住処となったのである。

 現在、六波羅の地に平家とのゆかりを示すものは六波羅蜜寺の遺物を除きあまり残っていない。
 しかし、モノこそないが、ここにはっきりとその歴史の足跡を残し続けるものがある。それが町名なのだ。

 池殿町という名が残るその地は、池大納言と呼ばれた清盛の兄弟、平頼盛の邸宅趾。その北には三盛(みつもり)町がある。ここに住んだ頼盛の子、通盛(みちもり)の名の転化であろう。さらに隣接する門脇町は、門脇宰相と称された平教盛の邸宅趾を示す。確証こそないものの、北御門町、西御門町、多門町、弓矢町なども平家の関連を示唆する。

 地名は言葉の化石といわれる。そこから我々は一気に数百年の時を遡ることができるのだ。

 この国は平成の大合併をはじめとして多くの歴史ある名前を失くしてしまった。このことは自らの歴史を否定し、捨て去ることに等しい。時の流れもある。時代の趨勢もある。やむを得ず変えられ、淘汰されていく名前もあるだろう。

 しかし、かつて私が「祇園」という名に甘い幻想を抱き、「六波羅」という名に恐怖を抱いたのは、その名前にその地が越してきた時の流れが生きているからである。その長さゆえ、その名に歴史が重なるのである。

 私の中で清盛と鬼太郎が同居しても私には何の違和感もない。

 祇園はずっと花街であり続けたわけではない、同じように六波羅もずっと地獄ではなかった。時代とともに変化し、その都度新たな意味が加えられてきたのである。その重層性と複合性こそが千年の都を支えているといえよう。
 一つの地名、一つの町名に込められた意味は深い。それゆえにその名を残す意味は大きいのだ。

 私が愛して已まない京都は、だからこそ私の誇りであり続けるのである。

 
 
                                    ―完―